四 心穏やかな日々
「んーー! いい天気!」
初夏を迎えたといってもフィンロイナ王国最北の地サンセルノはまだまだ新緑が美しい季節だ。列車を降りたセレスの頬を柔らかい風がなぞっていく。
サンセルノの手前にある街は貴族たちの避暑地として人気のあるリゾート地だが、ここまで来ると人影もまばらで長閑な光景がセレスの目の前に広がっていた。
「ニーナのホテルはどこかしら……」
なにも無計画に逃亡地にこのサンセルノを選んだわけではない。ニーナは半年前のコンクール本選にも残っていたバイオリン仲間で、セレスの三歳年上の十九歳だ。よく顔を合わせるうちに友人関係となり、この地で両親がホテルを営んでいると話に聞いていたのだ。平民に興味もないセレスの両親はニーナのことなんて眼中にもなく、この場所を割り出すことは不可能に違いない。両親が王都近郊を探していると思われる間はこの地に滞在し、捜索の手を郊外に伸ばす頃合いで、逆に都市部へ戻る算段である。
駅前にいた辻馬車の御者に問えば、駅から二十分ほど走った先にニーナのホテル「ラグドール」はあるというので早速連れて行ってもらうことにした。
「わぁ! 素敵!」
森の静かな湖畔の横に立つホテルは、レンガアーチの重厚なエントランスが印象的な二階建てで、アプローチ階段やバルコニーなどそこかしこに色とりどりの花を咲かせた鉢植を置いている。何よりセレスを感動させたのは、森の中に佇むこのホテルが周りの豊かな自然と見事に融合していることだった。
だが感動したのも束の間で、セレスはすぐに現実に引き戻されてしまう。
(す……素敵だけど、物凄く素敵だけど……高そう……どれだけ滞在できるかしら……)
五十万リルを手に入れたセレスだが、諸々の生活用品を買い揃えるのに五万リルは使ってしまった。残り四十五万リルだと一番安価なスタンダードルームでも一ヶ月もつかどうか。
(今は行くあてもないし、しばらくはここに滞在して、落ち着いたら働かなきゃ……)
お金の心配は尽きない。けれどせっかく手に入れたこの期限付きの自由を、嘆くだけの時間にしてしまうのは勿体ない。セレスは少し増えた荷物を部屋に置くと、ホテルの周りを散策に出掛けた。
ホテルの横に広がる湖畔はそれほど大きくない。景観に溶け込むように木々の間をぬって最小限に整備された遊歩道には誰もおらず、ただ風が木々を揺らす音と、小鳥たちの囀りだけで満たされている。目の前の湖はまっすぐに伸びた白樺の木が映り込んで、緑に染められている。
昨日から怒涛の時間を過ごしてきたセレスは、近くにあったベンチに腰を下ろすと、目一杯息を吸い込んだ。湿った土の匂いなんて都会育ちのセレスにとって初めて嗅ぐ匂いなのに、なんだか懐かしいような、泣きたくなるような、そんな匂いだった。
(なんて静かなんだろう。気持ちいい……こんな美しい場所があったなんて)
貴族とはいえフルノー家は領地をもたない。四十年前、この国には壮絶な王位継承争いが起きた。国を二分するほどの争いは、国を、国民を疲弊させ、甚大な被害をもたらした。平定されたあとも復興には途方もない資金が必要となったが、空っぽになった国庫ではなかなかそれを賄うことはできず困り果てていたところに、セレスの曾祖父が多額の寄付金を納めたのだ。祖父に聞いた話だと、善意で行った寄付というわけではなく、ただ商売をするのに早く復興してもらわないと迷惑だったとか、国に恩を売って今後の商売の幅を広げたいという下心あってのことだったらしい。それでもその功績を認められ前国王から子爵位を賜った結果、顧客を貴族たちにまで広げた曾祖父は、寄付は良い出資だったと笑っていたというから生粋の商売人だったに違いない。
とにもかくにもそういった事情で、これまでセレスは王都から出たこともなく、国内にこんな心穏やかに過ごせる場所があったことさえ知らなかったのだ。
(ヴァネル先生が色んな経験を積むべきって言ったのも当たり前だわ。王都からたった一日でこんな素晴らしい場所があることも知らなかったなんて……わたしは世界を知らなすぎる)
セレスは腹の底から沸々と湧き上がる感情を久々に感じていた。バイオリンが弾きたくてたまらない。この雄大な自然を前にして感じた気持ちをバイオリンにぶつけてみたくて仕方ない。セレスは高揚する気持ちのまま足早にホテルに戻り、フロントに湖畔でのバイオリン演奏の許可を得ると、バイオリンケースを握りしめてすぐに湖畔に戻ってきた。
(やっぱり最初は『ドニアムの森』かしら! 『春のよろこび』も弾きたい!)
バイオリンケースをベンチに置くとセレスはバイオリンをすっと構えた。そして一呼吸の後に心の赴くままに弾き始める。誰も聴いていないのだ。上手に弾こうなんて何も考えず、ただ目の前に広がる森を讃える気持ちを素直に表現する。静かな湖畔にセレスののびやかな音色が響き渡る。
どれくらいの時間弾いていたのか。激しいものから穏やかなもの、難しいものから易しいもの。心のままに弾く時間はあっという間に過ぎていく。
(なんて楽しいのかしら! もっともっと弾きたい!)
最近は技術の向上ばかり気にするようになり、練習を苦痛に感じることもあった。表現力が弱いと指摘をされたら、表現力についてまとめた指南本なんてものを読んだりして、その中に答えを見出そうとしたこともあったが、今となればその中に答えはなかったのだとようやくわかる。本来バイオリンの演奏はこんなにも楽しいものだったのに、そんなことさえも忘れていた。
気が付けば昼食の時間はとうに超えていた。セレスは簡単に軽食をとるともう一度湖畔に戻りバイオリンを弾いた。時間の経過とともに森の景色が刻一刻と変わる。街よりも早くに訪れる夕暮れ。湖面の緑にはオレンジが混じり、紫のような茶色のような微妙な色に変化する。この地ではまだ早い夏虫の鳴き声も遠くに聞こえ始めた。
(時間によってこんなにも景色は変わるものなのね……他の季節はどんな感じなのかしら……いつかまた来られたらいいのだけど……)
セレスはそれほど長い期間、このサンセルノに滞在できないことを理解していた。長くても二ヶ月といったところか。きっと秋の紅葉も、冬の雪景色も、春の雪解けも素晴らしいに違いない。だがそれらを見ることはきっと叶わないだろう。セレスは来ることのない“いつか”を思いながら、暗くなるまで弾き続けた。
次の日もまた次の日も、朝から暗くなるまでセレスは時間が許す限りバイオリンと向き合った。
そんな日々を過ごしている間に季節は足早に進んでいき、この最北の地にも夏の気配を感じるようになってきた頃、セレスはひっそりと十六歳の誕生日を迎えた。家出をしなければ、顔も知らない婚約者にエスコートされて誕生日パーティーを過ごすはずだった日。この日は二日間降り続いた雨があがり、セレスは泥でぬかるんだ道を注意深く進みながら、いつものように湖畔にやってきていた。
(すごい。なんて……なんて素晴らしいのかしら……身体が新しく作り変えられるよう……)
雨上がりの朝の湖畔。清涼な空気、生命の息吹を感じさせる湧き上がる土と葉の力強い匂い。それら全てがセレスを包みこみ、癒しと安らぎと祝福を与えてくれているようだった。誰にも祝われることのない誕生日は初めてだったが、後悔なんてひとつもない。家出したことは間違いではなかったとセレスは改めて強く思った。
穏やかな日々はあっという間だ。すでにサンセルノに来て一ヶ月。その日は近くにある教会のシスターが、養育してる孤児たちをこの湖畔に連れてきていた。
「お姉ちゃんは森の妖精さん?」
「えー、きっとエルフだよ。絵本で見たのとそっくりだもん」
一ヶ月の間、外でバイオリンを弾いていたといっても森の中では陽の光はとても弱い。都会育ちのセレスの肌はまだまだ真っ白であったし、アイボリーのワンピースを着た小柄な少女が森の中に佇む姿はやけに神秘的で、ましてやミルクジャム色の髪を風に靡かせていたら妖精と間違われても不思議ではない。
「ふふっ、お姉ちゃんはみんなと同じ人間よ。そこのホテルに泊まっていて、今はバイオリンのお稽古中なの」
「お姉ちゃんはバイオリンが弾けるの? じゃあ『リスとどんぐり』弾いてほしい!」
「ずるいよ! 僕は『ふくろうの家』がいい」
セレスは子供たちの目線に合うようにしゃがみ込むと、優しく微笑みながら子どもたちの質問に丁寧に答えていく。
「えぇ。お姉ちゃんもその曲大好きよ。じゃあお姉ちゃんが弾いたらみんなで歌ってくれるかしら?」
「うんっ!」
少し離れたところでシスターが申し訳なさそうに頭を下げたので、セレスは、気にしないで、と気持ちを込めて首を横に振った。リクエストされたのは、まだ幼い頃に覚えたてのバイオリンでお姉さんぶって弟に弾いて聴かせた童謡。今思えばあんなに下手くそなバイオリンでも弟は愚図ることなく、いつもご機嫌に笑ってくれていたな、と懐かしい気持ちが蘇りセレスは目を細めた。
セレスが弾き始めると子どもたちは演奏に合わせて大きな声で歌い始めた。ところどころズレる音程はご愛嬌だ。むしろそれが可愛い。湖に響き渡る天真爛漫な歌声につられ、おのずとセレスの気持ちまで明るくなる。リクエストされた二曲が終わっても子どもたちはまだまだ物足りないようで、我先にと繰り出されるリクエストに応えるうちに時刻はすっかりお昼時になっていた。
「さあ、もうお昼ごはんの時間ですよ。お姉さんにありがとうを言ってお別れしましょう」
シスターが手をパチパチ叩きながら、楽しい時間の終わりを告げるが、子供たちは余程楽しかったのか不満げな表情を浮かべている。一人の男の子が、「もう少しお姉ちゃんと遊びたい」と呟けば、次々と他の子供たちも我儘を言い始めシスターは困り顔になってしまった。
「お姉ちゃんはもうしばらくこのホテルにいるわ。晴れた日はいつもここで演奏しているから、また来てくれるかしら?」
「やったー! 明日も来たい!」
「こらこら……我儘ばかり言ってないで。お姉さんの練習のお邪魔になるでしょう」
「いいえ、シスター。子供たちと遊ぶことはわたしにとっても学びになりますし、なによりも楽しい時間ですもの。邪魔だなんて全く思いませんわ」
「そう言っていただけると助かります。バイオリンを見るのも聴くのも初めての子たちばかりです。この子たちにとって素晴らしい経験になることでしょう」
始終申し訳なさそうにしていたシスターがようやく穏やかに微笑み、セレスもつられるように微笑んだ。こんなにも自分の演奏を求められたことなんてこれまでなかった。誰かに求められる、そんな単純なことがこんなにも嬉しいのは、自分の存在意義をそこに見い出せたからかもしれない。生きているという実感。セレスは生まれて初めてそれを感じていた。