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三 別れ

 翌日、父親は仕事へ母親はお茶会へと出掛けて行った。セレスは昨夜から具合が悪いと言って、両親と晩餐も朝餐も共にしなかった。泣きすぎたせいで目も腫れていたし、まともに両親と相対する勇気がなかったせいもある。親の愛情を疑っているとはいえ、それがすぐに憎しみにとって変わるわけではない。家を離れる前に一目、両親の顔を見ておきたい思いもあったが、今日ほど家出のタイミングが揃っている日もそうそうなかった。


「……これで準備は整いましたね」

「えぇ。デルタがいなかったら大変なことになっていたわ。最後まで迷惑をかけてごめんなさい」

「何をおっしゃいますか! お嬢様はこれまで真面目過ぎるくらい真面目でした。迷惑なんて一度もかけられた記憶はございませんし、今回のことも迷惑だなんて思っておりません」

「ありがとう。きっと夢を叶えてくるから……」

「……はい。どうかご無事で」


 そこまで言うとデルタは声を詰まらせた。生まれたときからお世話をしてきたセレスはデルタにとって主であるとともに娘のような存在であった。他の令嬢に比べ、外に出る機会の多かったセレスといえど、まだまだ顔には幼さを残す年若い娘だ。デルタが不安を感じるのも無理はなかった。

 屋敷の者に疑われないように、荷物はバイオリンと小さな鞄一つだけ。その中には換金しやすい宝石をありったけ詰め込んでいる。両親が他の貴族に見くびられないように、一流の宝飾品を買い与えてくれていたのが不幸中の幸いだった。


「思い残すことはございませんか?」

「……アルベールに会ってから行ってもいいかしら?」


 アルベールは今年十三歳になる弟だ。昔は「姉さま、姉さま」と後ろを子鴨のようについて回っていたというのに、近頃は反抗期なのかいつも不機嫌そうにしているし、碌に話もしてくれないが、それでもやはりかわいい弟であることには変わりない。次にいつ会えるかはわからない。少年期の弟に会えるのもきっと今日が最後だとセレスは弟の部屋へ向かった。


「アルベール? 入ってもいいかしら?」

「……あぁ」


 部屋に入るとアルベールは一人で机に向かい自習中だった。視線は本に向いたままでセレスの方を見ようともしない。


「あら、お勉強中だったのね。えらいわ」

「…………」

「もうこんなに難しいことを学んでいるのね」

「…………」

「これから暑くなるわ。体調には十分気を付けるのよ」

「…………」


 今日は特に機嫌が悪いらしい。けれどそれすらも愛おしむように、セレスはアルベールの頭を撫でた。自分と同じミルクジャム色の髪は柔らかく、いつまでも撫でていたい気分になる。


「……姉さんは結婚するの?」

「えっ?」

「姉さんが結婚するってお父様が言ってた」


 晩餐か朝餐のときにでもそんな話が出たのだろう。アルベールは下を向いたままで表情を見ることはできないが口調からして怒っているようだった。セレスはこの質問になんと返すのが正解か分からず、悪手だと思いながらも黙りこくってしまった。


「僕は……姉さんの弾くバイオリンが好きだった」

「…………」

「辞めないでよ、バイオリン」


 アルベールは乱暴な手つきで机の引き出しを開けると、包装紙に包まれた小さな何かを手に取った。そして立ち上がり振り返ると、その包み紙を強引にセレスの手に押し付けてきた。


「昔買って渡せなかったままになっていたやつ。貰ってよ」

「……開けてもいい?」

「恥ずかしいからダメ。あとで一人の時にして」


 そう言うとアルベールはまた背を向けて座ってしまった。セレスはその後ろ姿をそっと一度だけ抱きしめると、部屋を後にした。このまま部屋にいると涙が堪えきれなくなりそうだった。


 ◇ ◇ ◇


 今日は元よりバイオリンのメンテナンスのために工房に行く予定だった。工房は駅から程近くにあり、列車を使って逃げるつもりだ。きっと両親たちは世間知らずのセレスが王都から遠く離れたところにまで行く度胸があるとは思わないだろうと、フィンロイナ王国最北の地、サンセルノを目的地にした。これから夏を迎えるにあたり過ごしやすい場所でもある。

 馬車に乗り込むと、デルタは質屋での換金のやり方を事細かに伝授した。没落した男爵令嬢だったデルタが昔に身につけた交渉術や、裏通りの質屋は使ってはいけないといった基本的なことを話しているうちに、馬車はあっという間に工房に到着した。

 いつも通りにメンテナンスを依頼し待っている間、セレスは激しく響く胸の音を聞いていた。手をきつく握りしめていないと震え出しそうなのは、不安のせいなのか、それとも武者震いなのか。静かに目を閉じ、何度も逃亡のシチュエーションを頭の中で繰り返しながら、セレスはその時を待った。

 メンテナンスの終わりが家出計画の始まりだ。バイオリンを職人から受け取ると、打ち合わせ通りデルタは「馬車を呼んできますね」と告げ、セレスを一人工房に残し店外へ出た。その隙にセレスはバイオリンと小さな鞄を脇に抱えると、駅に向かって猛ダッシュで走り出した。

 振り返ることなく前だけを向いて無我夢中で走る。五歳で淑女教育が始まってから全力疾走なんてしたこともない。もつれそうになる足を必死に前へ出し、迷いなく突き進む。セレスの胸は少しの怖さと、大きな希望で満ちていた。


「サンセルノまで行きたいのだけど、最短の行き方を教えてくださる?」

「それならもうすぐ出発するコージット行きの列車に乗って終点まで行けばいいよ。夕暮れ前には着くかな。ちょいと時間は空くが、同じ駅から夜行列車が出てるからそれに乗ったら朝にはもうサンセルノさ」

「ありがとう。ではコージットまでのチケットをくださるかしら?」

「あぁ……はいどうぞお嬢さん。良い旅を!」

「ふふっ! ありがとう!」


 訳あり感満載の息を切らした貴族風の娘にも駅員が親切なのは、その瞳があまりにもキラキラと輝いていたせいかもしれない。セレスはデルタに渡された現金でチケットを手早く買うとホームまで駆けて行った。ちょうど停車していた列車に飛び乗るとしばらくして出発の笛が鳴り響く。

 列車にはあまり多くの客は乗っておらず、セレスは四人がけの座席に一人で腰を下ろした。


(……成功……したのよね……思っていた以上に呆気なかったわ……)


 デルタが味方についてくれたおかげで、スムーズに事は運んだ。あとは乗り換えのコージットで質屋に行って換金したら、持ち出せなかった洋服や日用品を買い足せばいいだけだ。


(アルベールがくれたプレゼント、開けてもいいかしら……)


 小さな鞄の中から小さな包み紙を取り出すと、セレスは膝の上にそっと置いた。ピンクゴールドのサテンリボンを解いて出てきてのは一枚のハンカチだった。ハンカチにはバイオリンと薄青の小花が散らされたデザインの刺繍が施されていた。それはセレスの好みをよく知り尽くしたもの。あの最近では不機嫌顔しか見せてくれなくなった弟が、こんな可愛らしいハンカチをどんな顔をして選び、買ったのか。その姿を想像したセレスはふふっと笑い、そして泣いた。


(こんな姉さんでごめんなさい……いつか一人前のバイオリニストになって帰ってくるから……)


 セレスはアルベールのハンカチを胸に抱くと、自分のスカートのポケットから取り出したハンカチでグチャグチャになった顔を拭いた。

 車窓から臨む風景が、田園風景に変わり、そしてまた都会に変わる。それを幾度か繰り返した先にあったのが公爵領にあるコージット駅だった。

 公爵家が主軸となって進められた鉄道事業。このコージット駅が交通の要衝となっており、フィンロイナ王国の各主要都市に繋がる拠点となっている。王都に負けず劣らずの都市化された街だ。

 そこでセレスは予定通り質屋に向かい換金すると、当面必要になるであろう生活必需品を買い揃えた。少し値は張ったが寝台列車は個室を取り、そこでこれから向かう田舎では目立ちすぎる上質な服から質素なワンピースに着替えた。

 窮屈な服から解放され、明日からのためにも早めに眠らなければならないのに、興奮のせいかなかなか寝付けない。寝返りするのもやっとの小さな寝台の上でモゾモゾと今日一日を思い返していた。


(デルタは上手いこと誤魔化せたかしら……お叱りを受けていないといいのだけど……いつかきちんとお礼をしなきゃ。デルタがいてくれたおかげでここまでこれたんだもの)


 ふと先ほどの質屋での一幕を思い出す。デルタに言われた通り大通り沿いの質屋に向かったのだが、まだ幼さを残すセレスは足元を見られ、濁りのない美しい大粒のルビーがついたネックレスを僅か二十万リルで買い叩かれそうになったのだ。『お嬢様、優良店といえども最初の言い値で売ってはなりません。言われた金額の二倍はふっかけてくださいね』そのデルタの言葉を思い出したセレスは、初めての交渉に果敢に挑んだのだ。


「よん……いえ、これは五十万リルは下らない品物よ。それが出せないならご縁がなかったということね」

「いや、出せても三十だな」

「五十よ。何度も言わせないで」

「四十だ」

「……そう、わかったわ。それじゃ失礼させてもらうわ」

「くそっ! わかった五十だ。姉ちゃんそんな見た目でなかなかえげつねぇこと言うな」

「ふふっ、嬉しい褒め言葉だわ。ここすごく良いお店ね、またよろしく頼むわね」


 震える手を机の下に隠しながら必死に虚勢を張った。これも、『お嬢様、質屋では優しさは無用です。戦いだと思って強い女になりきって演じてください』と教えをもらっていたおかげだった。儚げな見た目をしているセレスだが、これでも商売で成功したフルノー家の長女だ。それに父親からは一流のものを与えられて育ったせいか、ルビーの価値を見誤らないくらいの審美眼は持ち合わせている。


(お父様にも感謝しなくちゃならないわ……)


 昨日からずっと考えていたことがある。両親からの愛情はもしかしたら偽物だったのかもしれない。けれど、セレスはこれまで貴族令嬢として何不自由なく暮らしてきた。教育も宝石もドレスもバイオリンも常に一流のものを与えられ、文句を言われながらもヴァネルの元へ通うことも許してもらえた。これで幸せじゃなかったなんて言ったらバチが当たる。


(……四年やってダメだったら戻りましょう。才能もないのに続けていても仕方ないわ。勘当されていたらそれまでだけど、もし籍が残されていたら政略結婚でも何でも受け入れるわ。二十歳前なら後添えとしてならまだ需要はあるでしょうし)


 そう心に決めたセレスは強く目を瞑った。まだまだ興奮の熱は冷めそうになかったが、朝からの逃走劇で疲弊していた身体と列車の心地良い揺れのおかげで気付けば朝を迎えていた。

王都ーサンセルノは東京ー函館くらいのイメージです

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