二 決意
しばらくしてセルジュは、内海を挟んだ隣国にある芸術都市へ音楽留学に旅立って行った。幸いと言っていいのか、元々社交界なんてものに興味がなかったセルジュは、これまでも夜会に来ることなど滅多になく、人知れず旅立って行ったことをセレスの両親は気付くことはなかった。おかげでセレスは今でも変わりなくヴァネルの元へ通うことができていた。
「セレスティーヌ……あなたの演奏技術はプロでも十分通用するレベルよ。けど、何か足りないのよね。心に響かないっていうか、揺さぶられないっていうか」
緩くウェーブのかかった艶やかな赤髪をサイドに流し、タイトなブラックワンピースを誰よりも着こなすこの女性がヴァネルだ。年齢は母親より少し上のはずだが、華やかな外見を裏切らないエネルギッシュな性格故か、美魔女と表現するのも憚られるくらい若々しい美女である。
「何が足りないのー。んー……ねぇ、セレスティーヌ? この曲ってどんな曲か知ってるかしら?」
「作曲者が恋心を抱いていた女性に想いを言葉では伝えられず、この曲に想いの丈をぶつけたんですよね?」
「そう、正解。じゃあセレスティーヌはどんな気持ちでもって、この曲を演奏したの?」
「そうですね……切ない感じをイメージしました」
「切ない感じねぇ……解釈は間違ってないんだけど、なんていうか……もっと激情であるとか、想いを告げても自分は選ばれないという悲壮感とか……そういうのってあるでしょう?」
「激情……悲壮感……」
「えっ!? 何その反応? セレスティーヌはもうすぐ十六歳でしょう。恋の一つや二つ経験してきたんじゃないの?」
「恋……ですか?」
セレスは呆けたようにヴァネルを見つめた。いつかは親の勧める男性と結婚して家族になる。そう決められた道筋がある貴族令嬢に恋を知る必要などない。ただ夫の支えとなり、子を儲ける。その役割しか求められていない貴族令嬢にとって恋なんて物語の中にしか存在しないファンタジーみたいなものだ。
「えっ……嘘っ……!?」
「……申し訳ありません」
「いや、ちがうの、謝らないで。そうよね……セレスティーヌって高圧的なとこがないから貴族令嬢ってことつい忘れちゃってたわ。でも、そうね……この前のコンクールの課題曲って『君に捧ぐ』だったわよね?」
「……はい」
「この曲は、初めて愛を知った喜びや苦悩を表現した曲なの。その経験がないセレスティーヌには難しい選曲だったわね」
「…………」
「……恋を経験するのがセレスティーヌの才能を開花させる良き起爆剤になると思うんだけど……恋をしろって言って恋ができるわけでもないしねぇ。まぁ恋に限らず色んな経験を積むことも大切なことよ」
◇ ◇ ◇
「ねぇ、ベルタ? ベルタは恋ってしたことある?」
ヴァネルのレッスン終わりの馬車の中。夕日の眩しさに目を細めながら、セレスはフルノー家に三十年仕えてくれているベルタに問いかけてみた。幼い頃からお世話をしてくれているベルタは大変に思慮深い女性で、誰よりも信頼を寄せている人物だ。
「まぁ、お嬢様! そんなことを気にされるお年頃になられたんですね……なんと月日の流れるのは早いことか……」
ハンカチを目元にあて、ベルタはしみじみとした口調で語り始めた。
「えぇ、それはもちろん。懐かしいですね……若い頃は許されざる恋もしました」
「まぁ! 聞かせてもらえるかしら?」
「そうですねぇ……わたしがフルノー家に働き初めて少し経った頃です。没落したとはいえ男爵令嬢だったわたしにとって、メイドの仕事は辛いものでした。そんなある日、庭の片隅でこっそり泣いていたわたしを慰めてくれた庭師がいたのです」
「それから?」
「それから彼のことが気になるようになって、時間を作っては彼の仕事している姿を見に行くようになりました。そのうちに親しくなって秘密の恋人関係になったんです」
幸せだった頃の記憶を辿るベルタの目は優しく細められ、目尻の皺を一層深くしている。貴族と平民の恋、そんな小説でしか見たことのない世界がこんな身近なところにあったのだと、セレスはただ驚くばかりだった。
「その彼はどんな人だったの?」
「職人気質で無口な男性でした。けれど庭の花をつんで贈ってくれたときのあの照れた顔といったら……ふふっ、とっても不器用で誠実な男性でした」
「……もしかしてわたしの知ってる人?」
「もう亡くなったのだから話してもいいかしら……お嬢様もよくご存知のトニーですよ」
「えっ!? 庭師長の?」
「えぇ、そうです。あの庭師長のトニーですよ」
トニーは一番下っ端の庭師としてフルノー子爵家で雇われ、その真面目な性格のおかげかメキメキと頭角を現し、庭師長までなった男だ。
たしかにセレスの記憶に残るトニーは、無口で堅物で幼い頃は近寄りがたかい存在だった。あのいつも仏頂面たった男が、庭先で泣くデルタを慰め、花を贈るだなんて信じられない。だがそれがきっと恋なのだろう。
「彼が亡くなってもう六年になりますわ」
「寂しいわね」
「はい……けれど彼が作った庭や、育てた木々は今も残っていますからね。それらを日々眺められるわたしは幸せだと思います」
そっと窓の外を見つめたベルタの瞳は切なげに揺れていて、今なお死んだ恋人を想い続けているのは明らかだった。
ベルタもトニーも未婚のままだった。愛し合っていても簡単には結婚できず、公にもできない二人の関係はさぞ辛いものだったに違いない。だが、今のベルタからはこの悲恋を悔いている様子は微塵も感じられない。
「その恋は辛くなかったの?」
「辛くなかったといえば嘘になります。けれどそれ以上の喜びを与えてくれたのも事実です」
「喜び……なんて素敵なお話かしら。まるで恋愛小説みたいね。なんだかベルタが羨ましいわ」
「ふふっ、じきにお嬢様もそんな恋を経験されますよ。恋は突然始まるものですもの」
「……そうだといいのだけど」
屋敷に帰り着くと一台の見慣れぬ豪奢な馬車が停まっていたが、きっといつものように父親の仕事絡みのお客様だろう、とセレスは少しも気に留めることなく屋敷の中に入っていった。
「ねぇ、ベルタ? わたしトニーの作った中庭が見たくなっちゃった。そこに行ってからお部屋に戻ってもいいかしら?」
「ふふっ、もちろんでございますよ」
エントランス右側の廊下を進むと中庭がある。セレスは美しい恋愛小説を読んだ後のような、温かな幸福感を感じながら廊下を進んでいた。
だがその幸福感は一瞬で吹き飛ばされることになった。道中にある応接室の前を通りすがったとき、父親のいつになく上機嫌な高笑いが漏れ聞こえてきたからだ。胸騒ぎを覚えたセレスは立ち止まると、立ち聞きなんて品の悪いことだと思いながらも、つい耳を傾けてしまった。そして悲しいことに、嫌な予感ほど勘は当たるもの。扉の向こうから信じがたい会話が聞こえてきた。
「侯爵様に婚約を申し込まれるなんて、なんと光栄なことでしょうか。セレスティーヌもさぞかし喜ぶことでしょう」
「喜んでくれるといいが。年が若干離れているからな」
「そんなそんな! 侯爵様はまだまだお若い。不束な娘ですがどうぞよろしくお願いします」
「あぁ。フルノー子爵の条件は必ず守るから安心してくれ」
セレスは呆然と立ち尽くしてしまった。いつかこんな日が来ることなんてわかっていたはずなのに、心がその事実を頑なに受け入れようとしない。身体の中心が氷水に浸かったようにすうっと急激に冷えていく。
そして婚約の話以上にセレスを傷付けたのは、相手の男が放った「条件」という言葉だった。
(……条件ってなに? お父様は何かの見返りにわたしを差し出そうというの?)
セレスの父親は何かと口うるさいが、それは全てセレスの幸せを願ってのことだと思っていた。それがセレスの考える幸せの形とは違っていたとしても、娘を愛する気持ちゆえのものだと思っていたからこそ、理不尽なことを言われてもこれまで耐えてこれたのだ。
だが父親は婚約の見返りに何か条件を出したようだった。それが金銭なのか、商売の取引なのか、セレスにはさっぱりわからない。ずっと愛情深い人だと思っていたが、それもセレスの勘違いだったのではないかと、途端に疑わしく思えてくる。
(商売上手なお父様だもの。わたしも所詮、取引材料の一つに過ぎない存在だったんだわ……)
残酷な事実に気付いてしまったセレスは、もはや立っているので精一杯だった。この場から早く立ち去ってしまいたいのに、足は凍りついてしまったかのように動かない。そんな絶望の淵にいるセレスに追い討ちをかける声が聞こえてくる。
「それでは誕生日パーティーは侯爵様がエスコートしてくださるということでいいのかしら?」
「そうだな。もっと早くに打診できていれば、ドレスぐらい贈ったんだがな。急なことで申し訳ない」
「いえいえ! そのお気持ちだけで十分ですわ。既にドレスは出来上がっておりますの。後でご覧になられますか?」
「いや、それは当日の楽しみにとっておこう」
母親の甲高い声はよく響く。あえて耳を側立てなくとも、否応なしにセレスの耳まで声が届いてしまう。そして母親の声色にもまた、隠しきれない嬉しさが滲み出ていた。
(お母様もこの婚約に賛成なのね。もはや断ることなんてできない状況ね……)
両親の嬉しそうな笑い声を聞き、セレスは絶望に打ちひしがれた。バイオリンの夢、親の愛、その二つを突然もぎ取られたセレスは、ビスクドールのように一点を見つめたまま動けなくなってしまった。
「お嬢様……お部屋に戻りましょう……」
後ろに控えていたベルタにも応接室の声は聞こえたのだろう。その声もまた悲痛に沈んでいる。身体を支えられながらどうにか自室に辿り着くと、セレスは窓際のソファーに腰を下ろした。
正直何も考えたくない。このまま突っ伏して泣き喚きたい。けれどセレスにそんな時間はなかった。これから取るべき道を考えなければならない。
両親は「侯爵」と言っていた。このフィンロイナ王国の侯爵家はたしか五つだ。その中で結婚相手になりそうな相手は誰なのか。社交界にデビューしていないセレスが持ち得る情報はそれ程多くない。けれど必死に友人たちとの会話や貴族名鑑を思い出し頭の中を整理していく。
(マルシャル侯爵は愛妻家と聞いたわ。ブラスール侯爵も最近ご結婚されたばかりよね)
婚約者と言っていたことを考えると愛妾という立場ではないだろうし、娘の教育に心血を注いだ父が、いくら侯爵とはいえ愛妾で満足するとは思えない。
(デスポー侯爵はかなりのご高齢だから、聞こえてきた声の主とは思えないし……)
応接室から漏れ聞こえた声は、落ち着きのある低いバリトンだった。セルジュの細い声とも違うし、聞き間違えるはずもない。そんな中で導き出された答えはセレスにとって最悪なものだった。
(エローネ侯爵……)
三十代後半。仕事もできるし、見た目もなかなか良いらしいが、そのメリットを打ち消すほどの黒い噂の持ち主ということはデビュー前の令嬢たちでさえ知っている。「エローネ侯爵は加虐趣味の持ち主だから気をつけろ」というのは有名な話だ。離婚歴は一度や二度ではなく、元妻だった人は逃げるように修道院に駆け込んだり、夜会用ドレスから酷い傷跡が見えたという人もいる。
(まさか……ね……もし親子の愛情がなかったとしても、そんな人に輿入れさせるわけなんて……)
父親を信じたい。けれど、商売人としての父親を思えば、大きな事業をいくつも手掛けているエローネ侯爵は取引相手として申し分のない相手だろう。
(もしかして条件って……わたしに手を上げないとかそういう話? その事実が認められた場合には違約金を払うとか……お父様なら有り得ない話じゃないわ)
考えれば考えるほど悪い方に辻褄が合っていく。父親がずっと望んでいた高位貴族との縁。加虐趣味であることさえ逆手にとって、手を上げられなければそれはそれで問題ないし、手を上げられたのなら違約金が入る算段であるならば、父親に取って悪い話では決してないだろう。
(……バイオリンは諦めることになるでしょうね……)
音楽が好きならば、コンサートやリサイタルで顔を合わせる機会もあったはず。王都で催されるような大きなコンサートにはいつも同じような顔ぶれが集まるし顔見知りも多いのだが、エローネ侯爵なんて見たこともないし、音楽好きだと話題に上ったことさえない。
(どうしよう……嫌だ……嫌だ…………っ!!)
結婚もしたくない、バイオリンだって諦めたくない。貴族令嬢としてそんな我儘が許されることではないとわかっている。今まで親に言われるがまま、大きな反抗をすることもなく従ってきた。けれど今、セレスは初めて抱いたこの強い気持ちを捨て去ることなんてできなかった。大きく深呼吸を一つすると決意したように立ち上がった。
「……お逃げになりますか?」
デルタが囁くほどの声量で静かに問いかける。その声に咎めるようなものは感じられない。ただ静かにセレスを見つめその返答を待っている。
「……えぇ。デルタお願い、手伝ってとは言わない。知らなかったふりをしてちょうだい」
「お嬢様……それはできかねます」
「デルタ! どうか見逃してちょうだい。わたしの気持ちを誰よりも知っているのはデルタでしょう?」
「はい。だからこそしっかり準備してお逃げください。着のみ着の儘で逃げるおつもりですか? わたしにできることは限られますが、最大限協力させてください」
「それはダメ。もしバレたらどうするの!? ベルタに迷惑がかかってしまうわ」
「上手いこと誤魔化しますので、わたしのことはお気になさらなくても大丈夫です! どうかお嬢様の夢を叶えてきてください。それがわたしの一番の願いですから」
慈しみに満ちた顔で微笑まれ、セレスの強張っていた心はゆっくりと解けていった。その言葉を両親から聞けたらどれほど幸せだったことだろう。大きな空色の瞳から大粒の涙がポロポロと溢れ、セレスはじきに幼子のようにワンワンと泣きだしてしまった。まだ十五歳のセレスにとって夢も親の愛情までも失う絶望は計り知れない。それならばせめて夢だけでも追う自由をセレスに残してやりたい。そう願ったデルタはセレスが落ち着くまで優しく抱きしめ続けたのだった。