二十七 思いもよらぬ感情
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「で、彼女にドルレアン家の家庭教師を紹介したんだな?」
クロードは沸き立つ苛立ちを抑え、静かな声でバイオリン工房の男に問いただした。だが滲み出る不機嫌さに男は俯き、身を小さくしている。
「はい……あの、なにか問題でも……」
「知らなかったのなら仕方ないが……はぁ、よりによってドルレアン家とはな」
職人気質な人間ほど世情に疎くなりがちなのはよくある話だ。きっとこの男もグレゴリー・ドルレアンの悪評を知らないのだろう。不動産売買で富を得たドルレアンだが、その強引な取引で辛酸をなめた者は数多く、相当な数の恨みを買っている。叩けばいくらでも埃が出てくるようないわくつきの男の元にセレスが通うだなんて、想像もしたくないことだった。
(呑気に見守っているだけじゃダメかもな)
そう直感で感じたクロードは、セレスが住むアパートメントの隣りの住人に多額の金銭を渡して部屋を譲ってもらうとすぐさま移り住んだ。隣りに住んでいればセレスの変化にすぐに気づくことができる。それに隣人として親睦を深めれば、支えになることだってできるかもしれないし、セレスの新たな一面を発見できるチャンスでもある。ちょうどコージットで鉄道輸送の契約をまとめる段階だったのも好都合だった。
(顔は……隠しておくか)
クロードは自分が異性から好まれる見た目をしていることをよくわかっていたし、女性たちがその見た目と毛並みの良さしか見ていないことにも気付いていた。だが束の間、恋愛の真似事を楽しむならその方が都合も良かったし、自分自身も相手の女性の内面まで知ろうと思わないように、相手の女性に求めることもなかった。合理的なことを好むクロードにとって、その程度の浅い関係が楽であり、面倒ごとはごめんだった。
だが、セレスに対してだけは違った。セレスの内面性をもっと知りたい、自分自身のことも外見だけで判断されたくないと、そうなぜか思ったのだ。
(内面も見てほしいなんて、青臭いガキみたいだな……)
そう自嘲しながらも、クロードは前髪を下ろすと、分厚い黒縁メガネをかけた。
初めて話したのは引っ越したその日だった。これまで舞台の上で演奏する姿しか見ていなかったセレスを目の前にして、柄にもなくクロードの胸は高鳴った。質素なワンピースを着ていても、その気品は失われておらず、クロードが好ましく思った空色の瞳がまっすぐに自分をとらえていた。
(あぁ……やはり美しいな……)
そう思いながらおもむろに近づいたとき、セレスが取り繕った笑みを張り付けるその一瞬の間に、怯えたような表情を見せたのをクロードは見逃さなかった。
(そりゃこんな格好だと怪しい奴にしか見えないよな)
怯えさせて申し訳ないな、と思いつつも、つい庇護欲を掻き立てられてしまう。警戒心を抱きながらも、必死に平静を装い話しかけるその姿につい笑みが零れ、セレスに反感を買ってしまったのは失敗だったが、動揺を逆手に取って「セレス」と呼ぶ了承を得られたことは収穫だった。
少しずつ二人の関係が近づいていく。一カ月もすれば挨拶をするだけだった関係から世間話をする関係に。さらに一カ月も経てば、マフラーを貸したり作り過ぎたパンを貰うような関係に。
たった二カ月を隣人として過ごしただけで、クロードはセレスをさらに好ましく思うようになっていた。挨拶を交わすときの柔らかな微笑み。誰に対しても礼儀正しくある姿。仕事に対する勤勉な姿勢と考え方。そんな新しい一面を垣間見るたびに、今まで感じたことのないむず痒い喜びを覚えていた。
また、ときを同じくしてセレスの過去の足取りが明らかとなった。クロードはセレスが見つかってからも、引き続き情報収集にあたっていたのだ。
そこでもたらされた情報は、あまりにも耳を疑うような内容だった。なんと、ここコージットで質屋に行ったセレスは、あの儚げな見た目からは全く想像できないが高慢な女性になりきり、相場よりも高い金額で宝石を売って換金していたというのだ。その姿に質屋の店主は犯罪組織の一員かと疑ったほどだという。
(きっと交渉するときのセレスは震えていたんだろうな。だが彼女は高慢な女性を演じきった。つくづく不思議な女の子だ……)
温室育ちなはずなのに、豪胆な一面も持ち合わせている。箱入り娘のはずなのに、必死に社会で生きている。知れば知るほど新しい一面を見せてくれるセレスに、クロードの興味が尽きることはなかった。
きっと彼女は外の世界を経験し、もっともっと魅力的な女性に成長する。クロードはそれを側で見守っていこうと思っていたはずなのに、自分の手の内に囲い込んで、誰にもセレスの魅力を気付かれたくないという相反する感情も同時に芽生えていた。
そんなある日、買収したドルレアン家の使用人から得た最悪な内部情報に、クロードは頭を抱えていた。あのグレゴリー・ドルレアンは年端もいかない少女を手籠めにする人間の屑だというのだ。
今すぐ真実を告げて仕事を辞めさせたい。忌々しい男の目にセレスが映ることだって許せない。だが、もし音楽の実力ではなく、その若い身体を目当てに雇われたと知ったらセレスはどう思うだろうか。「教え子がとっても可愛いんです」と微笑みながら話してくれたセレスの顔がよぎる。初めての仕事に前向きに取り組んでいる彼女にそんなこと言えるはずもなかった。
だからこそ、いち早くグレゴリーの不動産事業の不正を暴き社会的に抹殺するのが一番の策だと判断した。買収した使用人にはさらに報酬を渡して、何かあれば逐一報告を入れること、そして必ずセレスを守るようにと依頼した。
使用人からグレゴリーがセレスに接触を図ったという連絡が来たのは、それからほどなくしてのことだった。密室にセレスを呼び込み、腕を撫でまわしていたというのだ。
(クソ野郎がっ! 社会的に抹殺だなんて手ぬるいことを言わず、秘密裏に殺してしまおうか)
あまりの不快感と怒りに、らしくなくクロードは理性を失いかけた。だがその激情を踏み止めたのはセレスの存在だった。
(きっと今頃、部屋に一人でいるのだろう。どんなに心細いことだろうか……)
あんな男の始末よりも今はセレスの心のケアが大切だ。そう思ったクロードはそう広くないキッチンに立つと手際よくシチューを作った。長年の一人暮らしで料理することには慣れている。そして完成したシチューを持ってセレスを食事に誘った。
だが、お隣さんとはいえ大人の男。少しは警戒されるかと身構えたが、セレスは驚くほどあっさりと誘いに応じてくれた。その上、湯あみ後の寝衣姿にカーディガンを羽織っただけの隙だらけの恰好で男の部屋に入ってくる無防備さだ。
(信用してくれるのは嬉しいが……この様子だと俺は男だと思われていないな……)
自分で選んだ親切なお隣さんという立場だったが、いざセレス本人にもそう断言されると、妙に落胆している自分がいた。
食事をするセレスは思っていたよりも平気そうに見えたが、やはり日中の出来事で精神的に疲れていたのだろう。ごく軽い酒を二杯飲んだだけで身体が舟を漕ぎ始めた。
「セレス? 部屋まで送ろうか?」
「……んー? ……一人になりたくな、い……」
そう言ってセレスは机に突っ伏して眠ってしまった。酔っているのか、寝ぼけているのか。ただ、安心した顔でスヤスヤ眠るセレスを起こして一人で部屋に帰らせるなんてできない。クロードは優しくセレスを抱きかかえると寝室に運んだ。
(なんて軽い身体だろう。腰なんて今にも折れてしまいそうじゃないか)
こんな幼さを残す女の子に色欲を覚えることはない。そう今の今まで思っていたのに、無意識にクロードの腕にしがみつくセレスに対して庇護欲だけではない感情が沸々と生まれる。真っ白な透き通るようなデコルテは酒のせいかうっすら赤みを帯びている。暖炉が暑かったのかうっすらと汗をかいており、湯あみで使ったのであろう石鹸の香りがふわりと匂い立つ。
腕の中で眠る幼いと思っていた女の子は、確実に大人の女性に近づいていた。
(俺は何を考えているんだ。これではあの男と同じ穴のムジナではないか)
必死に芽生えた感情の芽をクロードは摘み取る。いつか心を通わし、正式な誓いを交わしたらそういったこともするだろう。だが、それまではセレスの挑戦を見守っていくと決めたのだ。それに夢現の返事ではあったが、自分を信頼し無防備な心の内を明かしてくれた。ならばこんな邪な感情を抱くべきではないと、クロードはセレスをベッドに下ろすとそっと布団をかけ、その姿を目に入れないよう静かに部屋から出て行ったのだった。
その後は平穏な日々だった。すぐに手を出してくると思われたグレゴリーだったがあれ以上の接触を試みる様子はなく、セレスも警戒心を強めグレゴリーと二人きりにならないように気をつけているようだと、使用人から報告を受けていた。季節が変わってもグレゴリーに動きはなく、クロードは警戒をしながらも様子見を続けていた。
そんな頃、クロードは新たに進めていた事業の打ち合わせのため、領地へ数日戻らなければならなくなった。コージットからロージェ侯爵領まで鉄道を使っても数日かかる。セレスのそばを離れたくなかったが、これもセレスと自分の将来のために必要なことだと、後ろ髪を引かれる思いでコージットを離れた。
だが急いで仕事を片付け、ようやくコージットへ戻れるというときに、最も怖れていた報せがもたらされた。グレゴリーがセレスを襲ったというのだ。
クロードはグレゴリーだけでなく、自分の脇の甘さに対しても怒りに震えた。なぜグレゴリーをあのとき始末してしまわなかったのか。狡猾なあの男は不動産事業の不正の事実を巧みに隠し、訴え出るにはあと一歩証拠が足らなかった。けれど、こんなことになるくらいなら不十分な証拠でも訴え出て、あの男に対する当局の監視を強めておくべきだった。後悔ばかりが募っていく。
一度甘い汁を知ってしまったら、もう一度欲しくなるもの。そして二度目はもっと甘い汁が欲しくなる。そんなことわかっていたはずだった。それなのに平穏な日常の中で、いつの間にか平和ボケしてしまっていた。自分の至らなさに歯噛みし、口の中に鉄の味が広がっていく。
(俺は一体何をしているんだ。セレスを守るって決めたのに。情けない……)
自分を罵倒し続けながらコージットへの道を急ぐ。報告では、ドルレアン夫人がセレスに襲い掛かる夫の後頭部に花瓶を振り下ろし、最悪な事態は防げたという。だとしてもそのとき受けた恐怖はいかばかりか。力で抑え込まれ、服を剝ぎ取られ、身体をまさぐられ。セレスはどれほどの深い傷を負ったことだろう。
クロードがコージットに帰り着いたのは事件から三日が経ってのことだった。震える手でセレスの部屋をノックすると、長い時間をかけて開いた扉の向こうに、光を宿さない虚ろな空色の瞳をしたセレスが立っていた。痩せこけ、目の下のクマも酷い。
(くっ……かわいそうに……食事もできず、眠ることもできないなんて。今回こそ絶対にあの男を牢屋にぶち込んで一生出てこれないようにしてやる)
そばにいることを許されたクロードは、日中はグレゴリーの始末をつけるために動き回り、陽が暮れてからはセレスの部屋で共に過ごした。物音一つに脅え、悪夢で泣きながら飛び起きるセレスの姿を目の当たりにするたびに、クロードの憎悪は増えていく。もう二度とセレスの瞳にあの男を映さないために、クロードは持ちうる全ての権力を使って一つずつ罪を暴いていった。
共に過ごすようになって二週間が経つと、ようやくセレスの顔に笑顔が戻り始めた。食事の量も増え、夜にうなされることもなくなってきた。そんなセレスに、お礼にバイオリンを弾かせてほしいと言われたクロードは、迷うことなく前回のコンクールの課題曲だった『君に捧ぐ』をお願いした。
美しく悲しい愛の曲。なぜコンクールでセレスほどの実力者が受賞できなかったのか、そのときのクロードには理解できなかったが、目の前で自分のためだけに弾いてもらってその理由がやっとわかった。
あのときも美しい音色だと思っていた。爽やかな風のような優しい響きが身体を包み込み、ずっと聴いていたいような気分だった。けれど、今の演奏はそれとはまるで違っていた。まるで乾燥した土に水がしみ込んでいくように、心に音楽がしみ込んでいく。その一つひとつの音色には感情が溶け込んでいて、じんわりと心を満たしていくのだ。
音楽とはこれほどのものなのか、セレスが目指しているのはこの音楽なのだ、とクロードは思い知り、そしてようやく自分の気持ちを自覚する。
(あぁ……俺はセレスが好きなんだな)
愛しているというには大げさだけれど、誰よりも特別で大切にしたいと思えるそんな存在。
セレスの笑顔をいつでも見たいし、空色の瞳に自分が映っていると何よりも嬉しい。セレスの奏でる音楽をいつまでも聴いていたいし、厳しい音楽の世界に立ち向かう姿は眩しく美しい。
こんな年若い娘に恋をするだなんて考えもしなかったが、クロードは自分の中に芽生えたこの感情を認めざるを得なかった。
本当はもう二度と危ない目に合わせないように、セレスを囲ってしまいたい想いもある。だが好きだからこそ、ワーリングで一から出直したいと言うセレスを応援したいと思った。
新しい事業もあり、ワーリングについていくことはできない。親切なお隣さんでいられなくなるのは残念だったが、その立場ではクロードはもう満足できないのも事実だ。セレスにとってもっと特別な存在になるためにも、そしていつかセレスが嫁いできてくれたときのためにも、今は遠くからセレスを見守るしかない。
列車の窓から身を乗り出し手を振るセレスの姿を、クロードは列車が遠く見えなくなるまで見送り続けた。




