二十五 クロードの事情
遅くなり申し訳ありません!
クロードはロージェ侯爵家の三番目の子として生まれた。一回り上の兄と、七つ上の姉を持ち、正式な名をシリル・クロード・ロージェという。
年の離れた優しく温和な兄と面倒見の良い姉に囲まれて育ったせいか、野心を抱くことも、大きな夢を持つこともないままに成長した。見目麗しく何でもそつなくこなすクロード。そんな彼を次期当主に推す声も親族の一部からは上がったが、結局クロードが十五歳のときに兄が父の爵位を継いだ。抜きんでた才能があるわけではないが、真面目で実直、領民想いの兄の方が自分なんかより当主に向いていると思っていたクロードはその決定を心から喜んだ。
そもそも爵位に執着もない。領地を愛していないわけではないが、領民の生活を守っていかなければならないなんて荷が重すぎる。むしろ自分一人で自由に生きていく方がよっぽどいい。そんな風に考えていたクロードは、成人するやいなや王都へ出ると文官試験を受けた。そして優秀な成績から花形部署である外交部に配属されると、そこでもめきめきと頭角を現し、順調に出世の道を進んでいた。
極めて整った顔立ちに恵まれた体躯、そして人気官庁のエリート。そんな超優良物件の独身男性を女性が放っておくはずもない。同僚の平民女性たちからはもちろん、爵位を継げない身にも関わらず、貴族令嬢たちからさえも猛烈なアプローチを毎日のように受ける日々。
クロードとて普通の若い男。年相応の性欲を持て余し、特別な女性は作らなかったが、後腐れのない女性たちと一夜の恋を楽しむなんて珍しくもないことだった。
結婚願望もなければ、大きな夢なんて持ったこともない。なんのしがらみもないこの生活を退屈に思うときもあったが、まぁ人生なんてこんなものだろうと、それほど不満にも感じていなかった。
潮目が変わったのはクロードが二十歳のときだった。その夏、ロージェ侯爵領に大雨が降り続き、橋の決壊や家屋の損壊といった洪水災害が起きたのだ。兄夫婦は被害状況の視察に現地へ赴いたのだが、不幸なことにそのとき馬車ごと土砂災害に巻き込まれ、二人とも帰らぬ人となってしまった。
残されたのは一人息子のセルジュだけ。まだ十四歳の小さな甥っ子に爵位は譲られたが、この災害を復興する手段なんて持っているわけもない。クロードは長期休暇を願い出ると、隠居していた父と二人で陣頭指揮をとって災害復興にあたった。
夜となく昼となく働き続けたクロードが、甥っ子の深い悲しみに寄り添えたのは、ある程度復興の道筋が整ってからだった。
中性的な顔立ちに女の子のような細い体をしているセルジュのこと。きっと部屋に閉じこもり、今も悲しみに明け暮れているに違いないと思っていたクロードだったが、意外なことにセルジュは気丈な振る舞いを見せた。苦しいだろうに屋敷の使用人たちの前では涙も見せず、いつもと変わらぬ日常を過ごしていたのだ。だが、きっと夜は一人で泣いている。そう直感で感じたクロードは残りの休暇を極力セルジュと共に過ごすことにした。
そしてたくさんの話をした。辛いときはバイオリンを弾いて心を慰めていたこと。同じ師についている一つ年下の子爵令嬢が良きライバルだということ。いつか隣国に音楽留学に行きたいということ。
侯爵位を継いだ人間が隣国へ音楽留学なんてできるはずなどないと思ったが、クロードはあえてそれを口にはしなかった。親を亡くしたばかりの十四歳の男の子に現実を突きつけ夢を壊すことはしたくなかったし、夢を語る甥っ子の穢れのない瞳を曇らせたくなかった。
それから王都に戻ったクロードだったが、まだ若すぎるセルジュを支えるため、後見人として領地経営にも携わるようになった。そうなると一夜の恋などと言っている暇などない。仕事に領地経営、そして親代わりにセルジュの成長を見守っていた。
セルジュは両親を失った悲しみを忘れるためにバイオリンに没頭していた。そのおかげもあってか、災害があったその年の冬、そしてまたその次の年と、この国で最も権威あるフィンロイナ音楽コンクールの決勝に駒を進め、クロードはその晴れの舞台を見に行っていた。
セレスティーヌ・フルノーを見たのは、その二回目のコンクールのときだった。
最初の印象は「こんな舞台に貴族令嬢がいるなんて珍しいな」という程度。より良い結婚相手から選ばれるため、教養として音楽を嗜む貴族令嬢は多いが、こんな場所に立つほどの技術を身に着ける令嬢など見たことがなかった。
おそらくセルジュがライバルと言っていたのはこの令嬢のことだろうと演奏を見ていたのだが、どうにもこうにも表情と演奏がひどく固い。まだ幼さを残す少女は、大きな舞台と多くの観客に完全に吞み込まれてしまっていた。
結局、少女は受賞を逃したのだが、クロードはその少女の姿がいつまでも脳裏に焼き付いて離れなかった。悔しさから嚙まれた唇、まだ諦めていない強い眼差し、気丈に伸ばした背筋。ひたむきに、そして一途に音楽と向き合う年下の少女を「かっこいいな」とクロードは単純に思った。自分には夢もなければ、情熱を傾けられるものもない。またいつか彼女に会えるだろうか? 来年もこの舞台に立ってほしい、気付けばそんな思いを胸に抱いていた。
そして翌年、その小さな願いは現実のものとなった。少女は同じ舞台に戻ってきたのだ。昨年よりも身長は伸びたものの、優しい眼差しの奥に宿る強い意志を感じさせる瞳は変わっていない。そのことがクロードには嬉しかった。二年目とあって演奏にも余裕が感じられた。しなやかに伸びる音色、卓越したテクニック、そして透明感のある響き。たった一年でここまで技術を磨いてくるなんて、どれほど努力をしたのだろう、そう思うとクロードは少女から目が離せなくなった。
だが、そんな少女を見ていたのはクロードだけではなかった。会場の後ろの席からは少女を値踏みするような下品な会話が聞こえてきたのだ。
「あれはフルノー子爵家の娘だろう? なかなか綺麗な娘じゃないか。あれは将来化けるぞ。新興貴族っていうのが玉に瑕だが、実家も金を持っているし持参金はかなり期待できるはずだ。お前のところの倅の嫁にどうだ?」
「あぁ、俺も狙っているんだ。だがな、すでに何人か婚約の打診にいっているみたいだが、子爵が全部断っているらしいんだ。なんでも条件があるらしくてな」
「たかだか子爵家風情のくせに条件を出すなんて、身の程知らずにもほどがある」
「その通りだ。もしうちへ嫁に来たら、こんな金のかかるバイオリンなんてすぐに辞めさせてやるよ」
持参金がどうのだとか、爵位が低いなどとか、今話すことじゃない。それよりも少女の美しい演奏を静かに聴いたらどうなんだ、とクロードの中に沸々と怒りが込み上げてくる。それに、これほど美しくバイオリンを弾く少女の価値もわからず、その見た目だけを評価する愚かな思考にもうんざりだった。バイオリンを続けさせる甲斐性もないくせに、何を勘違いしてそんなことを言っているのかとクロードは憤慨していた。
だが、一点だけ男たちの発言に同意できることもあった。あまりに年が離れていたせいか、これまで少女の容姿を全く気にも留めなかったが、よくよく見ればたしかに少女は儚く美しい容姿をしていた。滑らかなミルクジャム色の長い髪に、春の空ような澄んだ瞳。すらりと伸びた手足に、シミ一つない真っ白な肌。あと数年もたてば誰もが振り返るような美しい女性になることは容易に想像できた。
きっと社交界にデビューすれば今とは比べ物にならないくらいの縁談が舞い込むのは目に見えている。フルノー子爵は商才に長けた人物だ。後ろに座るけち臭い男なんかに娘をやるわけはないだろうが、もし裕福な高位貴族から声がかかればどうなるだろうか。きっと計算高い子爵のこと、メリットが大きいと判断すればすぐに娘を嫁に出すだろう。
そこまで考えたとき、クロードの胸がチクりと痛んだ。
もし自分に爵位があったなら……初めてそんな思いを胸に抱いた。爵位なんてこれまで一度も望んだことなどない。責任まみれで自由を束縛する枷のようなもの、そんなふうにさえ思っていたのにだ。
けれど自分なら彼女からバイオリンを奪うような真似は決してしない。思う存分バイオリンに打ち込んでもらい、たまにその音色を聴かせてくれるだけでいい。いつか少女が女性に成長したとき、そのときに夫婦となればいいし、もちろん夫婦となってからだってバイオリンを続けたらいい。
こんな年端もいかない少女に恋心を抱いたわけではない。ただ、少女の美しい瞳を守りたいという純粋な想いだった。けれど、いくら前侯爵の弟だろうと、現侯爵の後見人だろうと、今の自分はこの少女に婚約を打診する立場にはないのだ。その事実が歯痒くてたまらなかった。
悶々とした想いを抱えながら宿舎に戻ったクロードは、柄にもなくベッドに置かれた枕を手に取ると壁に力いっぱい投げつけた。あと一歩のところで受賞を逃した少女の瞳がずっと忘れられないでいたせいだ。
将来を悲観したような空虚な眼差し。光を失った瞳は、まるでこれから待ち受ける将来を見ているようだった。だが、自分ができることは何もない。ただ、彼女にとって少しでも良い縁談がくることを願うことしかできなかった。
「大切な話があるから至急カントリーハウスに戻ってきてほしい」そう領地に戻っていたセルジュから速達で手紙が届いたのは、それから半年ほど経ってからのことだった。
コンクールで最優秀賞を取ったセルジュの実力は王国お墨付きとなり、侯爵位を持ちながらでも隣国へ留学する口実ができた。おそらく留学に向けて、セルジュ不在期間の領地経営の方向性ややり方などを議するための招集だろうと思っていたクロードだったが、その予想は大きく覆された。
数日かけてヘトヘトになりながら領地へ戻ったクロードを待っていたのは、いつになくすっきりした表情をしたセルジュと、ロージェ侯爵家の縁戚者たちだった。そして関係者を前にセルジュは高らかにこう言ってのけたのだ。
「ずっと考えていたことなんだけど、侯爵位をクロードおじさんに譲りたいと思う」
縁戚者の反応はマチマチだった。
すでに領地経営のほとんどを実質クロードが担っている状態で、それで上手く回っているのだ。むしろ音楽ばかりに傾倒しているセルジュよりもクロードの方が相応しいと考える者は多くいた。だがその一方で、実務はクロードに任せたままでも、爵位は正当な系統でいくべきだと強く主張する者も少なからずいた。
そんなさまざまな意見が入り乱れ、会議の収集がつかなくなったところで、セルジュはなにか吹っ切れたように衝撃の事実を口にした。
「僕は男性しか愛せないんだ……だから、結婚することも、ましてや子どもを作ることもできない。それでも僕が侯爵でいるべきかな?」
その一言で縁戚者たちは一気にクロードが侯爵位を継ぐことで合意し、クロードもまたその任を引き受けた。
少し前のクロードならば、どんな理由があるにせよ侯爵家を継ぐなんて断固お断りだった。上手くはぐらかして自由な身分でいることを選んだに違いない。だが、今のクロードにとってその申し出は願ってもないものだった。これであの少女、セレスティーヌ・フルノーに婚約を打診する権利が手に入るのだから。
初めてクロードが心から欲したもの。一度は手に入れられないと諦めたもの。それが手に入るのなら、たとえ不自由になろうとも、枷にはめられようとも構わない。クロードは仄かな喜びを感じながら、早くもその算段を立て始めていた。
クロード視点は今回含め三話くらいになる予定です!




