二十四 許されない悪意
長くなってしまいました。なんと7000字超え。
がんばって読んでいただけると嬉しいです。
ただ、どこにいても女性に嫉妬はつきものだ。ローランからセレスには水仕事など重労働はさせないようにと通達があっただけでも、元からいるホテルスタッフたちは特別扱いだと憤慨していた。その上、眉目秀麗のクロードと故意にしているのだ。その風当りが強くなるのも当然だった。
最初の頃は、「ナイトクラブ出身の癖になに上品ぶっているのかしら」「バイオリンがちょっと弾けるからって気取っちゃって」「私たちの仕事を馬鹿にしているくせに」と、ちょっとした陰口を囁かれるくらいだった。面と向かって言われれば、馬鹿になんてしていない、気取っているわけでもないと、セレスだって言い返すこともできたが、陰で言われる言葉には対処しようがない。それに、悪口に慣れてしまっていたセレスがそれを放置したのも良くなかった。もし少しでも傷ついた表情を見せていれば、彼女たちの溜飲も下がったのかもしれない。けれど、何を言われようと平然と仕事をこなすセレスに、彼女たちの苛立ちは募る一方だった。
そして働き始めて二カ月が過ぎた頃、給仕係としてラウンジにきたセレスはリーダー格の女性に呼びつけられていた。
「セレスさん、ごめんなさいねぇ。今日洗い場担当の子が体調悪いみたいのよ。でね、セレスさんは洗い場はしなくていいって言われるみたいだけど、私としては、いいえ、みんなの総意として不平等は良くないって思っているの」
「……はい」
「私の言いたいことわかるわよね? これまでセレスさんが押し付けてきた分、これからやってくれるわよね?」
「はい、すみませんでした」
「物分かりが良くて助かるわぁ。じゃあ早速よろしくね」
リーダー格の女性は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、後ろで隠れてやり取りを見ていた女性たちからは意地悪い笑い声が聞こえてくる。その中には洗い場を任されていたはずの女性も含まれていた。
(別にそれくらい構わないわ。洗い場からなら演奏者の姿だって見えないし)
一人で暮らし始めてもうすぐ三年が経つ。それまで全く縁のなかった洗い物だって毎日のようにしているのだ。そこに忌避感はなかった。だが、この考えは少々甘かった。セレスが思っていたよりも悪意は増幅しており、ただ洗い物をさせるだけでは彼女たちは満足しなかったのだ。
春を迎えたばかりのまだまだ寒い季節。水道からは水しか出ず、お湯を沸かしながら洗い物をするのだが、セレスが洗い場に入った瞬間を狙ったかのように次々と食器が下げられてくるのだ。お湯が沸くのを待っていたのでは追いつかず仕方なく水だけで洗うと、氷水かと思うほどの冷たさにセレスの真っ白な指はすぐに真っ赤になってしまう。それでも感覚のなくなった指で必死に洗い続けていると、震える指のせいでカップが手から滑り落ち、派手な音を立てて割れてしまった。
「くすくす……そんなこともまともにできないのね」
普段ほとんどミスをしないセレスが犯した失敗を、まるで鬼の首を取ったかのように女たちは喜び騒ぎ立てた。
「みんな新人の頃は洗い場から始めるのよ。セレスさん、基本がなっていないみたいだから、そこからやり直した方がいいわ」
それからはラウンジでの仕事は洗い場がメインとなった。だが、セレスはこの嫌がらせをローランに訴え出ることはしなかった。辛くないかと言われれば嘘になる。けれど、ローランに言えばきっとクロードにも伝わるだろう。クロードにこれ以上余計な心配をかけることを思えば、これくらいのことはいくらでも我慢できた。
そんな日々を過ごしていたある夜、セレナは急遽ロザンナと共にレストランで演奏することになった。銀行頭取の娘、クレアが突然休みたいと我儘を言ったのだ。
「もう、あの子ったら急に休みたいだなんて! 無責任すぎるわ」
ロザンナは苛立ちを抑えきれず、ロッカーのドアが勢いよく閉めると盛大なため息をついた。
「でも、わたしはひさびさにロザンナさんとアンサンブルを組めて嬉しいです」
「そりゃ私だってセレスとやった方が何倍も楽しいわよ。あの子、演奏はまぁまぁだけど、なんだか心ここにあらずなのよね。この前なんてさ、クロード様がラウンジに入ってきた瞬間ちょっとミスったのよ。うまく誤魔化したつもりでしょうけど、私たちにはお見通しだってーの」
「クロードさん……」
「そうよ。初めてあんなイケメンを見て舞い上がったんでしょうね。その後もチラチラ視線を送っちゃてさぁ。クロード様はセレスのものだっていうのに」
「別にわたしのものでは…… 」
「そんなこと言ってるとクロード様まで取られてしまうわよ。まぁ、結局クロード様、クレアには一瞥もしなかったけどね」
自分のものではないと言いつつも、クロードがクレアに興味を持っていないとわかりセレスはほっとしていた。だがその安堵している様子を見抜いたロザンナにぴしゃりと窘められる。
「だけどねセレス。そのお人好しというか、謙虚なところも私は大好きだけど、本当に自分の欲しいものやチャンスがあれば、がむしゃらにでも自分の手で掴みにいかないとだめよ!」
「えぇ、わかっています」
「ほんとにわかってる? その手だって嫌がらせされているせいでしょ? 支配人に言えばいいのに」
ロザンナは眉を下げてセレスの手を取ると、その細く真っ白な手には不釣り合いなささくれやあかぎれを見つめ、悲しげに顔を歪めた。
「これくらい大丈夫です。それにラウンジの仕事のときだけですから。メインは客室係ですし、暖かくなれば手荒れもマシになるはずです」
「もう! それだけじゃないでしょ? セレスのことだからどうせクロード様のことも考えたんでしょ?」
初めて食事にいってから、セレスとロザンナはタイミングが合えば事あるごとに食事に行っていた。音楽談義に始まり、お酒が進めば男女のことやプライベートなことまで色んなことを話してきた。そんなロザンナにとって、セレスの心の内なんて手に取るようにわかっていた。
「どうせ、支配人に言ったらクロード様にも伝わってしまうとか思っているんでしょ?」
「……これ以上心配はおかけしたくないんです」
「はぁぁ……私はクロード様と話したこともないから実際のところはわからないけれど、親しくしている女性には男って頼ってほしいものよ」
「…………」
もし二人が特別な関係の男女であったなら、セレスもクロードにもっと素直に甘えられたかもしれない。
けれどセレスとクロードの関係は、友人関係なのか、演奏者とファンなのか、それとも擬似兄妹なのか、もうどれが正解かわからないが、ただ確実に言えることは特別な男女ではないということだった。
セレスが困ったような笑顔を浮かべると、ロザンナも悟ったのか、はぁ、と小さなため息をついた。
「そんなところは意地っ張りなんだから。仕方ないなぁ。もし嫌がらせが酷くなるようなら私に言うのよ。こてんぱんに言い負かしてやるわ」
味方になってくれる友人がいる。心血を注げる音楽がある。そしてどうしても叶えたい夢がある。その存在がセレスの心を支えてくれた。それに幸か不幸か、それ以上嫌がらせが酷くなることもなく、セレスは決して楽ではない日々でも耐え忍ぶことができていた。
だが、それから数カ月が経ったとき事件が起きた。長雨のせいかじっとりとした肌にメイド服が張り付くような、そんなじめじめとした夜。その日セレスは深夜まで仕事をしていた。やっと仕事が終わり、疲れた体を引きずるように自室に戻ると、チェストの横に置いてあったはずのバイオリンがベッドの上に乱雑に置かれていたのが目に入った。何事かと走り寄ったセレスが見たのは、無残にも全ての弦が切られ、表板には刃物で切られたような傷がつけられたバイオリンだった。部屋にはもちろん鍵をかけていた。だが犯人はどのような手段を使ったのかセレスの部屋に忍び込むと、卑劣な犯行に及んだのだ。
(なんてこと……)
セレスは言葉が出なかった。音楽家にとって楽器は命と同じくらい、もしかしたらそれ以上に大切なもの。
それにこのバイオリンにはセレスにとって特別な思い入れがあった。嫌々始めたバイオリンを好きになったのは、初めてまともに弾けるようになった楽曲を両親に聴かせたときだ。そのとき、いつも難しい顔ばかりしている父親が相好を崩し、いつもあまり褒めてくれない母親が天才だと言って頭を撫でてくれたのだ。嬉しくて嬉しくて、それからは嫌いだった練習も毎日進んでやるようになった。そして十一歳の誕生日に、頑張っているご褒美にと、著名な作家が作った一流のバイオリンを両親がプレゼントしてくれたのだった。
そんな思い出のあるバイオリンが無残にも傷つけられた。体に力が入らず、へなへなと座り込んだセレスはただ涙を流すことしかできず、そのまま朝を迎えた。誰がこんなことをやったのか。演奏仲間だとは思いたくなかった。本当に音楽を愛している者ならば、こんな真似はできないはず。
(絶対に許さない……)
不幸中の幸いか、バイオリンの傷は、時間はかかるだろうが修復可能なものだった。だからと言って許せるはずもない。一晩、涙を流し続けたセレスに込み上げてきたのは、これまで感じたことのないような怒りだった。犯人を見つけ出して罪を償わせるのが一番だが、この住み込み部屋に住むスタッフは少なく、目撃者だっていない可能性が高い。もちろんローランには報告を入れるが、すぐに犯人が見つかるとも限らない。
きっと犯人の目的はセレスをデトワールから追い出すことだろう。ならば、何があろうと犯人の目的を達成させてなるものかとセレスは強く思った。こんな卑怯なことをする人間を相手に、すごすごと逃げだすわけにはいかない。
(明るくなったら支配人に報告して、それからすぐにバイオリンを修理に出さなくちゃ)
その決意を胸に、セレスは支配人室に乗り込んだ。
ローランはあまりの衝撃にしばらく言葉を失っていたが、すぐに犯人探しに動き出してくれた。
「まずは部屋を見せてくれるかい?」
そう言ってごく一部の者だけを連れたローランは、セレスの部屋をくまなく検分すると、大きなため息をついた。
「はぁ……これはおそらく内部の者の犯行だろうな。鍵をこじ開けた形跡もないし、マスターキーを使った可能性が高いだろう」
「そうなんですね」
「だがな、申し訳ないんだが警備隊に報告することはできない」
「えっ?」
「住み込み部屋で起きた事件とはいえ、ホテル内での器物損壊などあまりにも外聞が悪すぎる。ちゃんとこちらで捜査するからどうか任せてもらえないか? 二度とこんなことが起こらないよう、部屋の鍵をもう一本つけるから」
「……はい」
たったそれだけの対応しかしてくれないのか、とセレスは落胆した。だが、落ち着いて考えてみれば、悔しいがそれも仕方のないことだとも理解できた。セレスにとったら命のような存在であるバイオリンでも、他人にとったらただの物でしかない。それも修理可能な傷で、数十万リル出せば直せるようなもの。たったそれだけのために高級ホテルの品位を落とすような真似は支配人の立場なら難しいだろう。
一旦、支配人室に戻った二人は今後のことについて話し合ったが、そこでもセレスには厳しい現実が突き付けられた。
「セレス、すまないね。本当ならバイオリンの修理代もこちらで負担すべきなんだが……」
「規則なら仕方ありません。ただ早く犯人が見つかることを祈るだけです」
「そうだな。まぁ関係者の犯行だろうし、すぐ見つかるさ」
住み込み用の部屋で起きた器物損壊。全額といわずとも、ある程度はホテル側で修理代が出されるものと思っていたが、規則はそうなっていないらしい。犯人が弁償するか、もし弁償できない場合はホテル側がある程度補償はするらしいが、犯人が捕まらない限りはなにもできないというのだ。どうやら随分昔のことだが、お金がなく楽器のメンテナンスができない演奏家が今回のような事件を偽装したことがあったそうだ。
(最後の宝石を換金するしかないわね……)
セレスは部屋に戻るとクローゼットの中にしまってあった巾着袋から最後の宝石を取り出した。オーバルカットされたアクアマリンのまわりを小さなダイアモンドが囲む美しいデザインのネックレス。セレスの瞳の色と同じ色合いでそれは、一番のお気に入りで最後まで残していたもの。
本当は、最後の挑戦であるフィンロイナ音楽コンクールのエントリー代やドレス代、それに王都への交通費や宿泊費のために残していたものだった。けれどそれも仕方ない。バイオリンがなければ働くことも、練習だってできないのだ。背に腹はかえられない。
(大丈夫。支配人もすぐに犯人は見つかるって言っていたし)
犯人が見つかれば修理代金は戻ってくる。それでコンクールの費用を捻出するしかない。セレスはそのネックレスとバイオリンを持って街に出た。ネックレスは質屋で二十万リルで売れ、バイオリンは二週間ほど預けることになった。
バイオリンが戻ってくるまでの間、セレスはホテルスタッフとして働き、戻ってきてからも二足の草鞋で懸命に働いた。犯人の思惑通りになんかならないと、その強い気持ちだけで苦しい日々を乗り越えていた。
だが、待てど暮らせど犯人が捕まったという報せは届かなかった。支配人からは詳しいことは教えてもらえなかったが、犯行に関わった者は二人いると聞かされた。ある程度は絞り込めているらしいが、証拠が掴めるまでもう少し待ってほしいと言われ、気付けばコンクールのエントリーの締め切りがすぐそこまで差しせまってきていた。
(どうしよう……これが最後のチャンスなのに、エントリーすることすらできないの? もうできることなんて一つしかない……でも……)
セレスは枕に突っ伏した。あと数日で数万リルを稼ぐ方法なんてパトロンを見つけることくらいだ。これまでも何度かそういったお誘いは受けていた。バーでの演奏終わりにこっそり声をかけてきたり、条件を書いた紙を手渡してきたり誘い方はさまざまだったが、一カ月に二十万リル程度の手当が相場ということは知っていた。そして中には、もし処女であったならプラスで二十万リルを払うと書いていた人さえいた。
もしそのお金があったならこんな悩みなんてすぐに解決できるだろう。けれど、誘いをかけてくる男たちの、ねばついた視線を思い出すだけでセレスは身震いした。
(あの人たちと口づけ交わして、その上体を許すなんて……耐えられない。だけどもうそれしか……)
悶々とした日々を過ごし、次第に追い詰められていったセレスはロザンナに相談した。
「えっ? まだエントリーしていなかったの? だから最近表情が暗かったのね。もう、そんなこと早く言いなさいよ、セレスにならいくらでもお金くらい貸すのに」
「だめです。だってそれはロザンナさんが辛い思いをして手に入れたお金です。わたしも同じことをすれば稼げるのに、ロザンナさんに甘えるわけにはいきません」
「別にいいのに。ほんっと真面目なんだから。同じことってセレスもパトロンを見つけるってこと?」
「……はい」
「そっかぁ。うーん……セレスはまだ未経験でしょ? パトロンを見つけるにしても、せめて最初くらいは好いた相手とやった方がいいと思うけど……って、いるじゃない! パトロンにも初めての相手にもばっちりな相手が!」
「えっ?」
「クロード様よ。お金は持っているし、セレスが唯一仲のいい男性でしょ。これ以上の相手はいないわ。それにたぶん今日からデトワールに泊まっているはずよ。さっきラウンジで演奏しているときに見かけたの。だからさっ、滞在中に部屋に押しかけなさいよ、きっと……っていうか絶対にうまくいくから」
「クロードさんがパトロン……」
以前、ユーゴに勘違いさせる目的で髪へ口づけをされたことがあったが、そのときは全く嫌な気持ちにならなかった。もしパトロンになればそれ以上のことをすることになる。無意識にクロードとそれ以上のことをしている想像をしたセレスは顔を真っ赤に染めた。だが不思議なほど拒否感はなかった。
イリナとイザベルには「本当に好きな人に巡り合えたときに、セレスの全てを捧げるべき」と言われていたが、残念ながらまだそういう男性には巡り合えていない。それにもし今、他の男とパトロン契約を結ばなくとも、コンクールを終え実家に帰れば、遅かれ早かれ望まぬ男性とそういう行為をすることになるのだ。ならば全てを捧げる相手は、誰よりも信頼し尊敬しているクロードがいいとセレスは思った。
一つの問題があるとすれば、どうやって部屋に押しかけるかだった。最上階のサービス担当はいつも先輩スタッフが奪い合っている。最上階の部屋に泊まるほどの財力を持つ男性に見初められることを夢見ているからだ。それゆえこれまで一度もその業務がセレスに回ってくることなんてなかった。
だが、この日は運が良かった。港には隣国からの最新鋭大型クルーズ船が停泊しており、今夜は大きなパーティーを開催するということで、数件の高級ホテルには給仕係の助っ人が依頼され、先輩スタッフがこぞって手を挙げてくれたのだ。そんな日にクロードが当日予約で宿泊するなんて、神様がお膳立てしてくれたとしか思えなかった。
夜が深まり、波の音だけが響くような時間。ついにクロードからルームサービスの依頼が入った。セレスは鏡で簡単に前髪を整えると、依頼のあったウイスキーと軽食が載った銀盆を手に持つ。カタカタと震える手はいつまでたってもおさまりそうもない。
だが、今さら怖いだなんて言っていられない。今夜しかチャンスはないのだ。セレスは覚悟を決めると真っすぐに前を向く。そして震える足でその一歩を踏み出したのだった。
やっとプロローグのところに戻ってきました!
次回からやっとクロード視点です!




