二十三 ホテルスタッフの仕事
最初に謝罪いたします。
次話からクロード視点と書きましたが、まだ途中なのに7千字を超えてしまったので、
2つに分けることにしました。
ホテル・デトワールで働き始めてから一年。
セレスは順風満帆な暮らし、といっても毎日働きづめの日々であるが、本人にとって幸せ過ぎる日々を過ごしていた。天気の良い日は海岸沿いの遊歩道を歩きながら季節によって表情を変える海を眺め、有名なオーケストラのコンサートがあればできる限り足を運び見聞を広めた。
雄大な自然に触れ、素晴らしい演奏に学び、そこから得たものを自らの演奏に生かす。尊敬できる先輩たちに囲まれ、セレスは少しずつ、だが確実にその演奏の腕前をあげていた。
「セレスー。この後は支配人室に呼ばれているんだっけ? またお褒めの手紙でも届いたんじゃなーい?」
「そうだと嬉しいですけど、頻繁にいただけるものでもないですし」
そう言ってセレスは足早に控室をあとにした。今日はロビーラウンジでの演奏後、支配人室に来るように言われている。以前呼ばれたときは、お客様からバイオリンの演奏が素晴らしかったというお褒めの手紙が届き、支配人から労いの言葉をかけてもらったのだ。今日もそんな話でありますように、と期待を込めながら支配人室の扉を開けたのだが、椅子に座るローランの険しい表情を見て、すぐに良くない話だと察した。
「そこのソファに座ってくれるかい?」
執務机の前に置かれた黒皮張りのソファを指さしたローランは、セレスが着席するのを見てから、気が進まない様子で自らもソファに移動した。
「まどろっこしいのは苦手だから単刀直入に言うね。セレス、演奏のシフト減らしてもらえないかな?」
「えっ?」
「もともとセレスは二年契約だったろう? だから一年後に退職した後のバイオリニストにはすでに声をかけてあったんだが、あちらの都合で一年早く雇ってほしいと言われてしまってね」
来年のフィンロイナ音楽コンクールを最後として、セレスは実家に戻る予定であり、そのことはデトワールで働く前の就労条件の話し合いの席で伝えてあった。短い期限付きの契約を吞んでもらったという負い目はあるものの、蔑ろにされているのだと思うと胸が痛い。精一杯頑張ってきたつもりだったが、支配人には不十分だったということだろうか。気を緩めると涙が零れそうで、両手をぎゅっと握りしめていると、焦ったような口調でローランが理由を話し始めた。
「決してセレスの演奏が悪いわけじゃないんだ。むしろ最近は以前にも増して良くなったと思っている。……これは経営側の事情なんだ。このホテルはワーリングで最も格式高いホテルといわれているが、一昔前まではその内情は相当に酷いものだった。簡単に言えば経営難だ。そこで私が経営の健全化のために外部から入ったんだが、そのときに唯一金を貸してくれた銀行の頭取から今回のことを依頼されてね。結婚前の娘に箔をつけるために働かせてほしいと」
「……そうですか」
女性の市場価値を高める目的で音楽を習わせるのは、貴族でも裕福な平民でも同じだ。セレスだってその目的で最初は習わされた。けれど、今はもう違う。真摯に音楽と向き合っている。バイオリンは自分の価値を高めるための道具なんかではなく、自分の人生そのものだ。それなのに、箔をつけるためというつまらない理由で、この大切な居場所を奪われていく惨めさにセレスは歯噛みした。
「セレスほどじゃないが雇うのに十分な演奏力もある。本当に申し訳ないんだが、どうか受け入れてほしい」
テーブルに頭がつきそうなほど謝罪されたら、受け入れるしか選択肢はない。そもそもこれはセレスに断る余地なんてなく決定事項の報告だ。むしろ内情を話してくれただけでも親切と言えるのかもしれない。
「……わかりました。ですがわたしにも生活があります。減らしたシフトの分、ホテルスタッフとして雇ってください」
「あ、あぁ! それはもちろん構わない! バイオリンの仕事に支障が出ないよう取り計らうと約束するよ」
◇ ◇ ◇
そしてセレスの二足の草鞋生活が始まった。基本的には女性客の身支度を手伝ったり、ルームサービスを運ぶなどのサービスを担当したが、ときにはラウンジやレストランの給仕係を任されることもあった。淑女教育のおかげでセレスの所作は美しくマナーも完璧。豪華なレストランにも給仕される側として経験豊富で、どのようなサービスが求められるかよく理解していた。
つまりバイオリンを持たないセレスには適職だったのだが、仲間たちが美しい音楽を奏でるのを傍目に見ながらの給仕係はセレスの心を深く抉るものだった。
夜、悔しさからベッドに顔を埋めて泣く日々。食事をとる気にもならなかったが、ベッドから見える小さなキッチンにはジャムやドライフルーツ、干し肉といったものまで並んでいる。一年前、働き始めた頃にセレスの華奢な身体を心配したクロードから定期的に送られてくる保存食だ。それを見るたびに、これ以上クロードに余計な心配をかけてはならないとセレスは無理矢理でも食事をとるようにしていた。
思い出すのはホテルスタッフとして働き始めた頃、慣れないメイド服を着てラウンジで給仕をしていた時だ。メイド服は海色のロングワンピースで前身頃に小さな貝ボタンがたくさんついている。袖口と襟は白色で、その襟元に紺色の細いリボン、そしてロングエプロンとホワイトブリムをつければ完成だ。客たちからはかわいらしいメイド服だと人気だったが、セレスは着るたびに惨めな気持ちになっていた。
その日はクロードが一カ月ぶりにデトワールに来ていた。メイド服で給仕しているセレスを初めて見たクロードは、目を大きく開けるとしばらく呆然と立ち尽くし、そして苦々しそうにくしゃりと顔を歪めたのだ。
(落胆させてしまったわ……)
以前、ナイトクラブ・リラでお酌をしろと客に無理強いされ、音楽家としての矜持を捨ててしまうすんでのところでクロードに助けられた。それなのに、結局こうして矜持を捨て給仕係をすることになってしまった。前回と今回とでは理由が違う。セレスは音楽を続けるために、この環境でさらに高みを目指していくために、矜持を捨てることを選んだのだ。けれどそれは自分の事情であり、はたから見れば新しいバイオリニストに居場所を奪われた惨めな女にしか映らない。
クロードに失望されてしまった。せっかくデトワールで働くチャンスをくれたのにその立場を守れなかった。こんな姿、クロードには見せたくなかった。
けれど、どれだけ惨めでどれだけ情けなくても任された仕事を投げ出すわけにはいかない。セレスは陰鬱な気持ちを抱えながらも、無理矢理に口角を持ち上げると、ソファに座ったクロードの元へ注文を取りに向かった。
「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか?」
「……ん、あぁ。コーヒーを頼む」
「かしこまりました」
他の客たちに接するように、きれいな作り笑顔を張り付けてそつなく接客をこなす。どうかこのまま何も言わず見過ごしてほしい。ただでさえ不安定な心の均衡をなんとか保っている状態なのだ。クロードの声を聞くだけで張り付けた笑顔に綻びが出てしまいそうだった。
だが、その思いはあっけなく破られた。セレスが立ち去ろうとしたとき、クロードに腕を掴まれたのだ。
「……すまなかった」
一体何に対して謝罪されたのかセレスにはわからなかった。クロードは何も謝罪するようなことはしていない。むしろ謝らなければならないのは自分の方だ。クロードがくれた居場所を守ることができなかったのは自分自身なのだから。
「クロードさんに謝られるようなことはなにも……逆にわたしの方こそ、申し訳ありませんでした」
握りしめられた手首が熱い。もう手を離してほしい。きれいに張りつけたはずの笑顔はもはやすっかり抜け落ち、ともすれば涙さえ溢れ出てしまいそうだ。
「セレスこそ謝る必要はない。ローランに事情は聞いている。セレスの演奏に問題があったわけじゃない。それは俺が一番よくわかっていることだ。だからどうか自分を卑下しないでくれ」
「でも……」
「セレスを守れなかったのは俺の方だ。くそっ、こんな思いをセレスにさせたくなかったのに」
クロードはセレスに失望したわけではなく、守ってやれなかった不甲斐なさに顔を歪めていたようだった。きっと以前のように責任を感じているのだろう。そのことがわかっただけでもセレスには十分だった。だからどうかクロードも自分を責めないでほしいと思った。
「わたしは大丈夫ですから。これくらいのことでくじけたりしません。だからクロードさんが責任を感じる必要は全くないですよ。この気持ちを糧にしてもっとバイオリンを練習するだけです!」
セレスの精一杯の強がりに、それ以上クロードは何も言うことはなかった。泣いているのか笑っているのか、そんなちぐはぐな表情はひどく痛々しげだったが、その表情の中にセレスの覚悟が透けて見えたからだ。
「そうか。本当に辛くなったときは俺を頼ってくれ。きっとなんとかするから」
「はい、ありがとうございます」
「ところで、今回は一週間の滞在なんだが空いている時間はある?」
「えぇっと……四日後の夜は空いていたと思います」
「それだけ? ちょっと働き過ぎじゃないか?」
その言葉に、セレスはあいまいな笑顔で返すしかなかった。
演奏家とホテルスタッフでは給与体系はまるで違う。減らされたシフトの分だけホテルスタッフとして働いていたのでは、バイオリンのメンテナンスや、先輩に聞いておくべきといわれたコンサートに行くことなど到底できやしない。セレスは少なくなった給金を補うように、演奏の時間以外はできる限りホテルスタッフとして働くようにしていたが、それでも以前に比べると手元に残るお金はごく僅かだった。
「その夜、いつものバーにいるから、もし来れそうなら来てくれないか? 無理はしなくていい」
「はい。必ず伺いますね」
それからは、クロードがデトワール滞在中にセレスの予定が空いていれば、僅かな時間ではあるが共に過ごすようになった。それは一カ月に一、二時間あるかないかのごく短い時間であったが、いつしかセレスの心の拠り所になっていった。
最初はこれ以上クロードの心配をかけないよう、笑顔を絶やさないように気を張っていた。きっと少しでも暗い顔を見せれば、心の機微に聡いクロードに心配をかけてしまうからだ。けれどクロードも何かを察してか、必要以上に仕事の話には触れてこなかった。代わりに話してくれたのは、幼少期の失敗談や仕事で行った外国の話など、つい笑ってしまうようなものばかり。そのおかげか、笑顔を絶やさないようにと肩肘を張っていたセレスもいつしか肩の力が抜け、気付けばクロードといる間は自然と笑顔を見せるようになっていた。
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