二十一 ホテル・デトワール
あれから一週間が経ち、クロードは仕事のためシャルドーに戻り、セレスはホテル・デトワールの住み込み用の部屋にいた。一応個室ではあるがシャワールームは共用で、部屋には必要最低限のベッドと机とキャビネット、あとは小さなクローゼットと猫の額ほどのキッチンがあるだけだ。そのあまりに質素な部屋のせいか、住み込みで働く者はごく僅かで、ほとんどの者はホテルの外に自宅を持っている。
(大丈夫。これで十分だわ)
つい先日就労条件について支配人と話し合い、チェックインの時間帯はラウンジで、夕食時はレストランで、それから深夜まではバーで演奏することになった。つまりほとんどの時間は働いているのだ。多少部屋が小さくても問題ない。それに清掃が行き届き綺麗な部屋であるだけでも感謝しなければならない。
(問題はドレスね……)
ナイトクラブ・リラではたくさんの貸衣装があったが、ここでは皆、自前のドレスだそうだ。昼と夜とでドレスを変える必要があるし、毎日同じドレスを着るわけにもいかない。昼と夜のドレスを数セット買わなければならないのだが、そんなお金の余裕がセレスにあるわけもなかった。
最近は手を付けていなかった自宅から持ち出した宝石類を手放す必要がある。残された宝石はあとわずか。できればいざというときのために残しておきたかったが、それも仕方ない。
セレスは押し寄せてくる不安を払いのけるかのように窓を開けたたものの、そこから見えたものは馬繋場や倉庫、洗濯用の井戸といった趣のないものばかりで、セレスを慰めてくれるものなど何もなかった。当たり前だがオーシャンフロントの部屋はすべて客室で、従業員用の部屋なんて海と反対側の一番粗末な場所になる。
ついため息を零しそうになるが、セレスはそれをぐっと飲み込んだ。
(すべては自分の選択だわ。この選択を後悔しないためにできることは全部やるのよ)
セレスは俯きそうになる顔を無理矢理にぐっと上げると、窓辺に置かれたチェストにクロードからプレゼントされたオルゴールを置いた。陶器製のオルゴールはぜんまい仕掛けで、音色にあわせてバイオリンを弾く女の子がくるくると回り始める。
(どことなくわたしに似ているのよね。考え過ぎかしら?)
色の薄い金髪に薄青の瞳の女の子が奏でる優しい音を聞きながら、セレスは目を瞑った。
思い出すのは一週間前、ナイトクラブ・リラを退職したいとオーナーのマルクに相談したときのこと。クロードにデトワールで働かないかと言われた翌日、セレスは出勤早々にマルクに事情を説明した。働き始めてからまだ八カ月しか経っていない上に、突然の退職願い。セレスは叱責されることも覚悟の上だったが、事情を聞いたマルクは拍子抜けするほどあっけなく退職を受け入れてくれたのだ。
「それにしてもデトワールとはな。大出世じゃないか! 俺も今度ディナーに行こうかな。そのときはセレスの成長した姿、見せてくれよ」
突然のバイオリニストの退職は、オーナーという立場から見れば大きな痛手であるのは間違いない。けれど、マルクはそんな表情なんて一切見せることなく、ただ、自分の手元に置いた女の子の出世を心から喜んでくれたのだった。
「短い間でしたがありがとうございました」
深々と頭を下げたセレスの瞳に涙が滲む。リラでの思い出は全部が全部綺麗だったわけではない。嫌な言葉を浴びせられもしたし、怖い思いだってさせられた。だがそれ以上に、いい意味でも悪い意味でも人間味のある人々に囲まれ、毎日がほんとうに刺激的だったし、なによりも唯一無二と思える友人たちに出会えたことは何ものにも代えがたい幸福な出来事だった。
その後に出勤してきたイリナとイザベルに同じ事情を話したときも、「同じ街に暮らしているんだからいつでも会えるわ」とイザベルは大粒の涙を零しながら別れを惜しんでくれたし、イリナもまた「コンクールで同じ舞台に立つ約束、絶対忘れないでね」と巣立ちを応援してくれた。
そのいつもと変わらない二人の大きな愛を前に、それまでどうにか堪えていた涙が溢れ出してしまったセレスを、二人は何も言わずただ抱き締めてくれたのだった。
二人の存在があったからこそ、音楽の楽しさを再確認することができた。二人がいつも味方でいてくれたからこそ、自分らしくあることができた。二人がいつも笑って受け入れてくれたからこそ、すべてをさらけ出すことができた。
いつも側にいてくれたことが、どれほど心強いものだったか。これからは同じ街に住んでいるとはいえ会える頻度はがくんと減る。正直不安がないとは言い切れない。けれど、この思い出がきっとこれからも自分を支えてくれる。セレスはそう確信していた。
◇ ◇ ◇
引っ越してきた少ない荷物を片付け終えたセレスは、挨拶のため支配人室に向かった。ホテルのフロントのバックヤード、事務処理をするスペースを通過した最奥部分に支配人室はある。重厚な扉を控えめにノックすると、中から朗らかな声で入室を促す声がかかった。
「失礼いたします」
丁寧に礼をして入室したセレスを待っていたのは、支配人のローランと、秘書と思しき美しい女性だった。
「やぁ、セレス。住み込み用の部屋には案内してもらったかい? 何もない部屋ですまないね。クロードにはもっといい部屋はないのかと責められたけど、特別扱いすると苦労するのはセレスだからね。申し訳ないがあれで我慢してくれるかい?」
ローランと会うのは、ナイトクラブ・リラに客として来たときと就労条件の話し合いのとき以来、三回目だ。きりっとした眉にほりの深い顔立ち。そして洒落こんだスーツを身に纏い、大人の渋さを感じさせる。だが見た目とは裏腹に、その口調はサービス業を生業とする者らしく柔らかい。
「はい。あの部屋で十分です。お心遣いに感謝いたします」
「そうか、良かった。クロードのやつ、良い部屋が無理ならしっかり清掃して、せめて清潔な部屋にしておけってうるさくてね」
クロードがそんなところにまで気を回してくれていたことにセレスは驚きを隠せない。だが、思えばいつもそうだ。セレスが甘えなくても、頼らなくても、気付けばクロードはいつも手を差し伸べてくれている。
「そうだったんですね」
「あぁ。それで、セレスは明日からの就業だったね。他の演奏者たちには会ったかい? もしまだなら、今の時間帯であれば、控室にいるんじゃないかな? コリンヌ、セレスを控室に案内してくれ」
「かしこまりました」
側に控えていた美しい女性はすました声でそうこたえると、セレスに近寄り抑揚のない声で「ついてきてください」と言い放った。好意的ではないその口調がいささか気になりながらも、セレスはその後ろに続いた。コリンヌと呼ばれた女性は二十代中頃だろうか。ぴったりと身体のラインに沿ったスーツのせいか、きゅっと上がった真ん丸のヒップがよくわかる。それを左右に艶めかしくふりながら歩くさまは、女性としての自信に満ち溢れている。
バックヤードから出てフロントを抜けるとロビーラウンジが見え、そこではピアノとバイオリンの二重奏が奏でられていた。
(わたしの他にもバイオリニストがいるのね。それにしても素晴らしい音色だわ。なんだかワクワクしちゃう)
以前、ディナーに来たときも感じたことだが、このデトワールの演奏者たちの技術の高さにセレスは高揚していた。この素晴らしい演奏家たちの一員となれる喜びに胸がいっぱいになる。
「ここが演奏者控室になります。では」
コリンヌは面倒くさそうにそれだけを言葉少なに言うと、踵を返して戻って行った。去り際、舌打ちが聞こえた気もするが、最初からあからさまな敵対心を見せられていたせいか、それほど驚きはない。初対面のセレスのなにがそんなに気に食わないのかわからないが、秘書に悪意を持たれようと仕事には影響しないので、セレスは気に留めることなく控室の扉をノックした。重要なのは演奏者たちとの相性だ。どうか演奏と同じく素晴らしい人たちでありますように、そう祈りながら返事を待っていると、若い女性の声で「どうぞ」と声がかかった。セレスが緊張しながら部屋に入ると、そこには五人ほどの男女が和気あいあいと談笑していた。年齢層はさまざまで、白髪交じりの男性もいれば、母くらいの年齢と思しき女性もいる。
「は、はじめまして。セレス・マドアスと申します。明日からこちらで働かせていただくことになりました。よろしくお願いします!」
姿勢を正して一礼すると、ひとりの若い女性が人好きのする笑顔で近寄ってきた。柔らかな色味のバターブロンドに大きな茶色い瞳。相手に安心感を覚えさせるようなその雰囲気に、セレスの緊張は幾分か和らぐ。
「ふふっ、そんなに堅苦しくなくていいわ。セレスさんっていうのね。私はロザンナよ。同世代の女の子が入ってきてくれて嬉しい! こちらこそよろしくね」
差し出された手と握手を交わすと、ソファに座っていた人たちも次々とセレスに自己紹介をして握手を交わしていった。
「今このホテルにいる演奏者はここにいる五人と、今ロビーラウンジで演奏している二人の合計七人なの。セレスさんはバイオリニストって支配人から聞いているわ」
「はい。ナイトクラブ・リラで演奏しているところを支配人がご覧になられて、ここで働くことになりました」
「そうだったのね。わたしはチェリストなの。わからないことがあったら何でも聞いてね」
「あっ、それなら早速ですが一つお伺いしてもいいですか? 今から演奏用のドレスを買いに行くんですが、どこか良いお店をご存じありませんか? あの……あまり予算はないんですが……」
「オッケー! 任せて! とっておきのお店があるの。本当なら一緒について行ってあげたいけど、もうすぐ出番だから地図を書くわね。店員にデトワールで働いているって言えば、いいドレスを見繕ってもらえると思うわ」
まともなドレス一つも持たず、その上予算も少ないだなんて、セレスは恥ずかしさについ声が小さくなってしまう。けれど、ロザンナは全く気にする様子もなく、あっけらかんとしている。他の者たちも蔑むような視線を向ける者はおらず、セレスはほっと息を吐いた。
「はい、これ。ホテルからそんなに離れていないからすぐにわかると思うわ」
「あ、ありがとうございます!」
「じゃあ、私はそろそろ準備があるから。またね!」
◇ ◇ ◇
ロザンナに紹介されたお店は、こじんまりとしていたが趣味の良い品揃えのお店だった。デトワールで、と言えば気のいい店員はホテルの格に見合ったドレスをいくつも見せてくれ、セレスはとりあえず昼用と夜用をそれぞれ三着ずつ購入した。
店員に聞いた話だと、このお店のドレスは内海を挟んだ隣国からの輸入品だそうだ。芸術都市を有する隣国では数多のドレス工房があり、その競合のおかけで、ここフィンロイナ王国よりも安価でドレスが手に入るらしい。王都まで運ぶとなると輸送コストがかかりすぎるため、ワーリングでのみ販売しているとのことだった。
だが、安価とはいえ、六着ものドレス代が大きな出費であることは間違いない。デトワールで働くなら品質は落とすべきではないと言われ、換金したお金のほとんどを使う羽目になってしまった。
(三着ずつじゃ足りないわよね。お給金が出たら買い足さなくちゃ。しばらくは節約の日々になりそう……)
ホテルに大荷物を抱えて戻ってきたセレスを出迎えてくれたのは、美しいチェロの音色だった。弾いているのはロザンナだ。控室で会ったときとは別人のような堂々たる佇まいにセレスは釘付けとなる。弾いているのは切ない愛の曲。セレスにとって若干苦手意識のあるタイプの曲だが、ロザンナは情感豊かに演奏していて、その重低音の透明感のある音が切なさを伴って心に染み入ってくる。
(すごい……ロザンナさんもこの曲のような経験があるのかしら?)
セレスはあまりの素晴らしさにその曲が終わるまでその場を離れられなかった。そしてようやく部屋に戻ると、触発されたかのように一心に練習に励んだのだった。
ほんとうはナイトクラブ・リラで働く女の子たちの事情(イリナとイザベルはこれからの本編でも若干触れますが、セレスが働くことを後押ししてくれたミーシャとルシェル)も書きたかったのですが、蛇足になってしまうので、本編をすすめることを優先しました。
完結後、自己紹介のように淡々と書くかもしれませんし、ショートストーリーとして書くかもしれません。




