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二十 変わりゆく日々

 ナイトクラブ・リラはいつも通りの夜を迎えていた。

 オープンと同時にぞろぞろと客が入り、落ち着き始めた頃合いでクロードがやってくる。だが今夜は珍しいことに、クロードは一人の連れとともに来店していた。仕立ての良いスーツを着た壮年の男性は有名ブランドのポケットチーフを挿し、一目で裕福だとわかる雰囲気を醸し出している。

 どれほどアピールしようとも全く靡く様子のないクロードを諦めた店の女の子たちは、新しいターゲットの出現に目を爛々とさせた。だが、「今夜は大切な話だから席につかないで」とクロードにやんわり窘められ肩を落としている。


(お友達……かしら?)


 気になっていたのはセレスとて同じだ。昨夜も自宅で一緒に紅茶を飲んだのに、お友達を連れてくるなんて一言も言っていなかった。しかも自分の方を見ながらなにやら熱心に話し込んでいる様子。指を差されたり、大きく頷いていたり、気になって仕方がない。けれど、クロードの友人にみっともない演奏を聴かせるわけにはいかない。クロードの顔に泥を塗ることになってはたまらないと、セレスは平静を保って、いつも通りの演奏をすることに集中した。

 店の営業が終わる数刻前にクロードは友人と店をあとにした。さすがに今夜は待っていないだろうと思っていたが、店から出るとクロードはいつもの街灯の下で佇み、セレスを見るやいなや嬉しそうに微笑んだ。


「セレス、おつかれさま」

「おつかれさまです。あの、今夜はお友達とご一緒じゃなかったんですか?」

「あぁ、あいつも忙しい身だし、今夜の目的は果たせたしね」

「今夜の目的?」

「うん、その件についてはセレスの家で話しても大丈夫かな?」


 そう言って、クロードは当たり前のようにセレスの手を取ると、コートのポケットに二人分の手を差し込んだ。ここでもしクロードが照れたり、どぎまぎするようなことがあれば、セレスもつられて恥ずかしくなってしまうだろう。だが、さも当然のようにさらりと手を繋がれてしまえば、セレスもまたあまり意識することなく、その手を受け入れてしまう。

 人通りもまばらな深夜の街をゆっくりと歩く。今夜は星が見えないほどに月が明るい。そのためセレスの自宅の前に一人の男が立っているのが遠くからでも見てとれた。それはクロードも同様だったようで、ポケットの中にある手がセレスを安心させるように、ぎゅっと強く握られた。


「俺がついているから」


 そっと耳元で囁かれ、セレスも小さく頷く。クロードが隣にいると思えば、少しも怖さなんて感じなかった。

 歩調を緩めることなく男に近づけば、正体はすぐにわかった。あの騒動以来、店に来ることのなかったユーゴだ。月明りに照らされたユーゴの顔は、今にも泣き出しそうな表情をしている。


「セレスさん…………」


 最初に口を開いたのはユーゴだった。少しやつれたように見えるユーゴはセレスだけをまっすぐに見つめ、のたのたと近づきながら手を伸ばしてきた。


「セレスに何の用だ?」


 虚ろな目に危うさを感じたクロードは咄嗟にセレスを後ろに隠す。


「またお前か。いつもいつも俺の邪魔ばっかりしやがって。どけよ、僕はセレスさんに話があるんだ!」

「セレスは君と話すことなんてないんじゃないかな」

「お前には関係ない! ……ねぇセレスさん、少しだけ時間をくれないか?」

「ユーゴさん……その前に教えてほしいのだけど……どうしてわたしの家を知っているの? まさか後をつけたの?」


 以前、ユーゴと食事をしたときはあえて家の前には送ってもらわなかった。店に忘れ物をしたと嘘をついてはぐらかしたのだ。コージットで家庭教師をしたとき、深く考えることなくグレゴリーに家の住所を教えてしまったばっかりに、突然家に押しかけられ危険な目にあった。その反省から、一度食事に行っただけの店の客に家がバレることは避けたかったのだ。

 クロードの背から半身ずれてそう問いかけるセレスの冷ややかな視線に、ユーゴはしどろもどろになる。だがその様子は図星だと言っているようなものだった。セレスの瞳に明らかな侮蔑の色が滲む。


「ち、違うんだ。最初はあとをつける気なんてなかった! セレスさんと話がしたくて店が終わるのを待っていたんだけど、その男が先にセレスさんと落ち合ってしまって。それに、手なんか繋いでいるし、どうしても気になって、それで……」

「……つけたのね」

「……酷いよ。他の男に微笑みかけながら家に招き入れるだなんて。そんなふしだらな女性だなんて思わなかった!」


 自分の愚行を棚に上げて、いやもしかしたら目を逸らさせるために、あえてセレスを貶める言葉を吐いたユーゴにクロードは鋭い視線を向ける。一発殴って、汚い言葉でセレスを罵るその口を黙らせてやりたい。けれどそれは自分の苛立ちを収めるには有効的な方法かもしれないが、そんなことをセレスは望んでいないこともわかっている。争いごとが苦手なセレスならば、この暴言も甘んじて受け入れて、自分の中で消化していくことを選ぶだろう。

 だとしても、クロードはセレスの名誉を傷つけたままにするのだけはどうしても許せなかった。ではどうすればいいのか? 自分たちはまだ友人関係で、家の中に入ったが何も疚しいことはなかったと本当のことを告げるべきか。だがそうするとこれからもこの男のセレスへの執着は続くだろう。ならば取れる手段は一つしかない。二人が愛し合う仲であるならば、深夜に部屋に招いてもふしだらなんて言われる筋合いはないはずだ。それにセレスへの想いを断ち切らせることができればなお良い。

 クロードは後ろに控えていたセレスの肩に手を伸ばし抱き引き寄せると、髪に口づけをひとつ落とし、そのまま挑戦的な視線をユーゴに投げつけた。


「…………っ!!」


 予期せぬ出来事にセレスは驚き声が出ない。けれど「俺がついているから」と言ったクロードの言葉を思い出し、何か考えがあってのことだろうと気付いたセレスはその口づけを拒むことなく受け入れた。


「んなっ、なにをしているんだ! ……もしやお前たちすでにそういう関係だったのか?」


 クロードは肯定も否定もせず、ただ唇を寄せながらにやりと不敵な笑みを返す。それはユーゴを勘違いさせるには十分なものだった。


「くそっ! くそっ! 本当に好きだったのに……」


 悲しみのせいか、苛立ちのせいか、抑えきれぬ感情から地団駄を踏むユーゴを、セレスはただ見つめることしかできないでいた。クロードがいようといまいと、ユーゴの気持ちには応えられないことは初めからわかっていたこと。それならば、最初の告白ではたしかに断ったが、それからもずっと好意を示し続けてくれたユーゴにもう一度気持ちを伝えておくべきだった。もっと早く伝えられていたなら、ここまでユーゴを傷つけることはなかったと思うと、セレスは自分の至らなさが酷く情けなかった。

 ユーゴが去り家の中に入ったが、どことなく微妙な空気が二人の間に漂う。そのせいかお互いなかなか話し出せずにいたが、その沈黙を先に破ったのはクロードだった。


「さっきは突然すまなかった。驚いただろう?」


 謝られることなんてあったかしら? とセレスが首をかしげると、クロードは自分の頭をトントンと指で叩く。それが何を意味しているのか理解したセレスは、先ほどのことを思い出し、顔から首まで真っ赤になってしまった。


「い、いえ……ああいう作戦なんだとわかっていますから」

「まぁ、そうなんだが……嫌じゃなかったか?」

「まさか! そんなわけあるわけないです」


 お付き合いしていない男性からの口づけ。それがたとえ髪へのものだったとしても、以前のセレスなら嫌悪感を抱いたに違いない。それがなぜか全くと言っていいほど、嫌な気持ちにはならなかった。

 セレスは紅茶を二つテーブルに置くと、クロードの座るソファの横に自らも腰を下ろした。

 

「それなら安心したよ。セレスがふしだらなんて言われて腹が立ってしまって」

「慣れているので大丈夫ですよ。でも……ありがとうございます」

「そんな言葉に慣れないでほしい。それに俺が嫌なんだ」


 いつもクロードは誰よりも、そう自分自身よりもセレスの心を大切にしてくれる。その優しさが嬉しくて、セレスはなんだか泣きたい気分になるが、ここで泣いてしまえばクロードを困らせるだけだと、ぐっと目に力を込めて我慢すると話題を変えた。

 

「あの、帰るときに話した〝今夜の目的〟のことを聞いてもいいですか?」

「あぁ。セレスはホテル・デトワールで働く気はないか? 今夜の男はホテルの支配人だ。セレスの演奏を聴いてもらったところ、「いつ来てもらってもいい」と既に返事をもらっている」

「えっ……!?」

「隠すような真似をしてすまない。いつもの演奏を聴きたいとあいつが言うから。それに俺もセレスに気負いなく弾いてほしくて」

 

 まさか知らぬ間に審査をされていただなんて思いも寄らなかった。だからと言って腹が立つことはない。支配人の言うことも、クロードの言うことも一理あるからだ。それよりも自分がホテル・デトワールで働けるなんて信じられない。以前、クロードとディナーに行ったときの光景は今でもよく思い出す。

 美しい景色と美しい旋律が作り出す最高の環境でいただく美味しい食事。決して添え物としてではなく、必要不可欠な存在としての音楽がそこにはあった。

 イリナとイザベルと共に演奏するのは楽しい。けれど楽しいだけじゃだめなのだ。今の店では自分たちの存在はレコードと大して変わらない。添え物として存在するだけだ。高いレベルを求められ、それに応えていく環境に身を置かねば、きっとこれ以上の上達は見込めない。

 ちょうど今は一月。もうすぐフィンロイナ音楽コンクールの本選が行われる時期だ。セレスが最後にこのコンクールに出場して既に二年が経った。あれからどれくらい自分は成長できただろう。

 セレスはけじめとして、家出して四年が経ったら実家に戻るつもりでいる。ニ十歳になる前であれば、政略結婚の駒としてまだ需要があるからだ。つまり二年後のコンクール本選が最後のチャンスであり、そこで入賞を果たすことをひとつの大きな目標にしている。

 政略結婚の相手の許可がなければ、結婚後はバイオリンと距離を置くことになる。もしそうなったとしても悔いが残らないように、やりきったと思えるくらい今の自分は頑張れているだろうか? 


(いえ、まだだわ。まだやれることが残っている)


 このまま惰性的に家出を続けていても、きっと望むべきところへは辿り着けない。もうそれほど時間は残されていないのだ。


「大変光栄なお話です。ありがたくお受けしたいと思います」

「本当にいいのか? 俺の独断で話を進めてしまったんだが、断りづらくてそう言っているなら気にする必要はない。選択権はセレスにある」

「いえ、わたしの意思で言っています。むしろここまでクロードさんにお膳立てしてもらって感謝の気持ちと申し訳ない気持ちでいっぱいです」

「いや、俺がしたくてやったことだ。余計なことをするなって言われることも覚悟していたくらいだ」


 ははっ、とクロードは安心したように笑い、ソファの背もたれにもたれかかった。


「じゃあリラを辞めるタイミングをオーナーに相談しないとですね」

「そうだな。だがあまり時間はないぞ。あの男に自宅を知られてしまったからな。あの様子だと何をしでかしてくるかわからない。デトワールには従業員用の部屋も用意されているから、移るなら早い方がいい」


 たしかにグレゴリーも家に押しかけて来た翌日に凶行に走った。ユーゴは決して悪い人間ではないが今は自暴自棄になっている。先ほど垣間見たユーゴの瞳は仄暗く、落ち着くまでは注意しておいた方がいいだろう。

 紅茶を飲み終えたクロードを見送ったセレスは一人ソファに戻ると、無自覚のまま、先ほどまでクロードの座っていた場所をそっと手でなぞっていた。

時系列簡単にまとめますね↓

〈セレス年齢〉

15歳6カ月  音楽コンクールで受賞逃す

15歳11カ月 家を出る

16歳     サンセルノでゆっくり

16歳2カ月  コージットで家庭教師

16歳10カ月 ワーリングでナイトクラブ・リラで働く

17歳6カ月  ナイトクラブ・リラを辞める決意 ←今ここ


やっとプロローグの舞台に辿り着きました!あと二話くらいでクロード視点入れます。

「はよ正体明かせよ」って思っている方も多いと思いますが、クロードなりの考えもありまして。

最後までお付き合いいただけると幸いです!

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