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一 貴族令嬢の嗜み

 四年前、セレス……本当の名をセレスティーヌ・フルノーは王都クロステアにある、クロステア芸術劇場の豪奢な控室で打ちひしがれていた。


(また受賞できなかった……どうしたらいいの……)


 一年に一度開かれるフィンロイナ音楽コンクールはピアノ、声楽、バイオリン、フルート、作曲の五部門で競われる歴史の長いコンクールだ。それぞれに最優秀賞、優秀賞が選ばれ、場合によっては審査員特別賞や奨励賞の選出もあり、そのどれかにでも選ばれると、王国の支援のもと、著名な音楽家の指導が受けられたり、他国へ留学など、音楽家としての可能性の幅が大きく広がる夢の舞台でもある。

 プロの音楽家を目指す上で登竜門となるこのコンクールには国中の音楽家の卵が集結する。セレスは三度にわたる予選を通過し、昨年に続き二度目の本選にまで駒を進めていた。昨年はミスを怖れるあまり、メリハリのない演奏になってしまった結果あえなく落選してしまった。けれど今回は二度目とあって会場の雰囲気に呑まれることもなく、思っていた通り、まさに練習通りの演奏ができたはずだった。技術的な面で悪かったことなんて思いつかず、何をどうすれば受賞できるのかもわからない。そもそも来年もこのコンクールに出場できる保証もない。ため息をつくたびに幸せが逃げていく、と誰かが言っていたが今の気分は最悪で、これ以上逃げる幸せもないと、セレスは小さなため息を繰り返していた。


「セレスティーヌ! そんな顔しないで。去年よりずっとずっと良かったじゃないか。来年こそ受賞できるさ」

「えぇ、そうだといいわね……そんなことよりもセルジュこそおめでとう! 何かしらの賞は絶対だろうって思ってたけど、最優秀賞だなんて流石だわ」

「これで親戚たちも留学に文句は言わないだろうしね」

「領地経営は大丈夫なの? 一応は侯爵様なのに」

「ふはっ! 一応ってひどいなぁ。まぁその通りなんだけどね。僕なんかより断然仕事のできる叔父がいるから問題ないって」


 セレスを励ましてくれた線の細い男はセルジュ・ロージェ。セレスの一歳年上の十六だが、四年前の事故で両親が他界し、若くしてロージェ侯爵家の当主を継いだ。とはいっても音楽狂いで領地経営などには微塵も興味なく、今は叔父が後見人となっているという。

 柔らかくウェーブした黒髪に青色の瞳。柔和で中世的な顔立ちとは裏腹に、セルジュの奏でるバイオリンはドラマティックだ。

 セレスとは師事するバイオリニストが同じでよく顔を合わせるし、話す機会も多い。子爵令嬢のセレスとは身分差もあるが、音楽の世界に身分は関係ないという考えで、こんな気軽に話しかけることも許されている。


「僕も三度目の挑戦だからね。セレスティーヌもまだまだ若いんだし諦めちゃだめだよ」

「そうね、諦めたくないんだけど……あっセルジュ、授賞式が始まるみたいよ。係の人が呼びにきてる」

「わっほんとだ! また留学が決まったら手紙書くよ!」


 そう言って走り去っていくセルジュの後ろ姿を見て、セレスはまたため息をつく。


(貴族令嬢にとって十六歳はもう若くないのよ……)


 ここフィンロイナ王国の貴族令嬢は十六歳になると社交界にデビューする。そこで早々に見初められて十八、十九には結婚するのが一般的なルートだ。セレスの場合は成人を祝う盛大な誕生日パーティーを王都にある屋敷で催す予定で、意気揚々と母親が準備を進めている最中だ。

 セレスの両親も他の大多数の親たちと同様に、良いルートに乗るのが幸せなことだと、それを叶えるのが親の務めであると考えている古い世代の人間だった。元々このバイオリンだって少しでも条件の良い男に輿入れさせるための手段として習わされたものだった。

 貴族の嗜みとして音楽に精通していることは婚活市場で強みになる。それなりの貴族令嬢ならそこそこかじっておけば問題ないのだが、セレスの実家は新興貴族だ。商売で大成した曽祖父が子爵位を叙爵してできた成り上がり貴族であり、歴史を重んじる貴族からは軽んじてみられることも多い。そのせいで両親は歯痒い想いも多分にしてきたのだろう。娘にはそんな惨めな想いをさせないためにと、名家に嫁げるよう音楽教育から淑女教育に至るまで徹底的に教育を施したのだ。


(最初は嫌々やらされてたけれど、いつしかバイオリンはわたしを構成する一部になっていたのよね。けど……それもいつまでかしら……)

 

 フルノー子爵家は歴史は浅いが資産は潤沢にある。デビュー前でも、金回りに苦労している貴族から縁談の話は来ていたようだが、両親は更なる好物件を狙えると見込んでなのか全て断っているようだった。


(せめて嫁ぎ先でもバイオリンを弾く機会があればいいのだけれど……)


 そろそろ授賞式も終わるだろう。そうすれば観客席で見ていた両親とエントランスで落ち合う約束だ。きっと受賞できなかったセレスを両親は満面の笑みで出迎えてくれるに違いない。

 あれほど熱心に教育していたというのに、セレスが本気でバイオリンにのめり込みコンクールを目指すようになると、両親は揃って良い顔をしなかった。つまりコンクールで受賞するほどの実力は求めていないのだ。受賞したせいで留学したり、プロのバイオリニストを目指されては結婚が遠のいてしまう。それは両親の考える幸せとは程遠いものだった。他の令嬢よりも達者ではあるが、トップレベルではない、そんな微妙なラインを両親は求めていた。

 あと半年もすればセレスは十六歳。バイオリンがちょっと得意な女の子という肩書きを持って社交界にデビューする未来がすぐそこまで迫っていた。そこでよく知りもしない男性に選ばれ、家族になり、見ず知らずの領地を守っていくことになるのだろう。


(もう少しだけでいい。自分がどこまでできるのか試してみたかった……)


 もし今日受賞できていたのなら、違う未来が待っていたかもしれない。王国お墨付きの実力だと胸を張って言えたなら、両親にこの心の内を打ち明けられたかもしれない。そんな今更想像しても仕方のないことばかり考えていると、遠くで大喝采の拍手の音が聞こえてきた。どうやら幕が下りたようだ。


(行かなくちゃ……)


 ひどく重たく感じるバイオリンケースを持ち、両親の待つエントランスに向かおうと立ち上がる。けれど、この芸術劇場の出演者専用スペースに入って来られるのは今日が最後かもしれない、そう思った途端、次から次へと涙が溢れて止まらなくなる。赤い絨毯にはポツリポツリと濃いシミが増えていった。まわりの出演者たちはその涙を落選した悲しみのせいだと解釈したようで、肩を叩いて慰めてくれる者や、まだ次があるじゃないか、と励ましてくれる者もいた。


(嫌だ……まだ続けたいよ……まだ諦めたくない……)


 本選に上がってくるレベルの人たちは、他者を蹴り落とすようなしょうもない小競り合いなんかしない。そんなことでのし上がって行けるレベルなんてたかが知れている。ここでは皆ライバルであるが、戦うべき相手は自分自身にあることをよく知っているのだ。セレスはこの環境が、この同志たちが大好きだった。

 いつの間にか控室にはセレス一人が残されいた。ひとしきり泣いた後、壁に掛けられた鏡で簡単に化粧直しをする。人前で泣いたなんて両親に知られたら怒られるに違いない。


「セレスティーヌ! 遅かったじゃない。心配したのよ」

「一体何をしていたんだ。ここにいるのは裕福な者ばかりだが平民が多いからな。気を抜いていると痛い目を見るぞ」

「……セルジュ様とお話していたの。ごめんなさい」


(わたしたちだって成り上がりの貴族じゃない。軽んじられることを誰よりも厭っているくせに、平民には同じことをするなんておかしいわ)

 

 内心では両親を責めるが、実際に何か言ったりすることはない。言い返したいことは山々あっても、そんな気概なんて最早ない。これまでの経験からセルジュの名前を出して、この会話を早々に終わらせることが得策だと心得ている。

 両親は悪い人たちではないし、愛してくれているのもわかるのだが、セレスはそんな両親の浅はかな一面が苦手だった。そして自分の尊敬する仲間たちを悪く言われ反論できない自分も嫌いだった。


「まぁ、セルジュ様ってロージェ侯爵様ね! なら結構よ。もっと親交を深めたらいいわ」

「なんだ、侯爵様とお話していたのか。ほぅ、そうかそうか」


 勝手に満足して機嫌を直した両親にセレスは苦笑いを浮かべる。セルジュとの未来を夢見ているようだが、それが叶うわけなんてないのだ。だが、それを教えてあげるつもりはさらさらない。自分たちに都合の良い未来を想像しているうちは、他の縁談話は受けないだろう。


(良かった……時間稼ぎできそうね。セルジュには親が勘違いしているって謝らなきゃ)


「それにしても侯爵様は最優秀賞だったな。流石の一言に尽きる」

「セレスティーヌも受賞できなかったけど、とーっても良い演奏だったわ!」

「……ありがとうございます」


 満面の笑みの母親にはセレスの引き攣った顔が見えていないのかもしれない。こんな反応をされることなんてわかりきっていたことなのに、一番の理解者であってほしい母親の悪気のない言葉に、セレスの胸はきゅっと苦しくなる。


「それにしてもヴァネル先生を師事して良かったわね」

「その通りだな。最初は平民の癖に通いでないとレッスンは受けられないなどと抜かしおっていけすかん奴だったがな」

「まぁまぁ。そのおかげで侯爵様との縁も繋がったことだし良かったんじゃありません?」


 ヴァネル先生はこのフィンロイナ王国だけでなく大陸の中でも屈指のバイオリニストだ。生粋の音楽家で権力に阿ることはなく、貴族だろうが平民だろうが関係なく、高い志を持った生徒だけしか受け入れない。貴族だからといって家庭教師として家に来てもらうことはできないのだ。

 

「結果としては良かったな。だがセレスティーヌ? 侯爵様は音楽留学するのか? 留学するなら同じ教室に通う必要はないからな」

「……まだそういったお話は聞いておりません」

「そうか。侯爵様がどうなさるのかわかったら、すぐに報告するんだぞ」

「……はい」


 セレスはゾクリと背筋に冷たいものが走った。セルジュはそう遠からず留学する。いつまで隠し通せるだろうか? ヴァネルのレッスンを受けられなければ、これ以上の上達は望めないというのに。

 セルジュとの繋がりが消えるのであれば、バイオリン教室に通わなくてもいいだなんて、いよいよ結婚が目の前に迫ってきているのを実感する。

 娘にも幸せになってほしくて両親がこんなことを言うのだと十分理解している。自分たちが幸せだからこそ、同じやり方で幸せになれると信じているのだ。


(わたしはお父様ともお母様とは違う人間なのに。幸せの尺度だって違う……)


 そんなセレスの心の叫びは誰にも届くことなく、刻々と社交界デビューの日は迫ってきていた。

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