十六 ディナー
それからしばらくしてクロードはたくさんのお土産を携えて隣国から帰ってきた。セルジュも留学している隣国は芸術の国だ。音楽だけでなく、絵画や彫刻に対する造詣も深く、あちらの貴族たちはアーティストを支援することが一種のステータスになっている。とりわけ、自分が最初に見出したアーティストが有名になることが一番の自慢事らしく、駆け出しのアーティストはその庇護を求めて隣国に移り住む者も多い。
「わぁ、こんなにたくさん! なんだか申し訳ないです……」
久々に店にやってきたクロードから、万年筆やらオルゴールやら楽譜やらをプレゼントされたセレスは終始恐縮しきりだった。フルノー家の娘としてそれなりに物の価値がわかるセレスにとって、それらが決して安いものではない……いやむしろかなり上等な品物であることは一目瞭然だった。
「俺があげたくてやっていることだからそんなに気にしないで」
「でも……」
「セレス……こういうときは笑顔で『ありがとう』って言ってくれるだけでいい。男にとってそれが一番嬉しいことだから 」
事もなげにそう言ってのけたクロードは、くくっと笑った。
「……ありがとうございます。全部大切にしますね」
セレスはそう言うと、にっこり笑ってみせた。正直、それなりの給料をもらっていても、日々の生活とバイオリンに係る諸々の費用でそのほとんどが飛んでいってしまう。こんな贅沢品にかける余裕なんてないセレスにとって、プレゼントされた品々はどれも嬉しいものばかりだった。
「ははっ、やっと笑顔が見れて良かった。セレスの好みじゃなかったのかとヒヤヒヤしたよ」
「いえ、どれも本当にかわいいですし、わたしの好みにも合っています。でもやっぱり貰ってばっかりじゃ気が引けるので、わたしに何かできることはありませんか?」
クロードがそれなりにお金を持っていることはわかってきていたし、これくらいの金額はクロードにとっては大したことないものかもしれない。それでもセレスは貰いっぱなしっというのに抵抗があった。商売で成り上がったフルノー家にとって、それ相応の対価を支払わないとなんとも居心地が悪いのだ。
「くくっ、セレスは律儀だね……本当に気にしなくていいのに。でも何かしなければ気が済まないっていうことなら……そうだな、今度俺とも食事に行ってくれないか?」
「俺とも?」
「あっ……その、しばらく外国で過ごしていたせいかな。フィンロイナ語がうまく出てこなかった。“俺と”食事にって言いたかったんだ」
「ふふっ、一カ月で母国語を忘れちゃうなんて。クロードさんて案外天然なところもあるんですね」
「……天然……か……」
複雑そうな顔をしながらそう呟いたクロードは、気持ちを立て直すように咳払いを一つした。そしてセレスに向き直ると何事もなかったかのように「それで……食事の件はオッケーということでいいのかな?」と問いかけた。
「あっ、はい、大丈夫です! けど本当にいいんですか? それがお礼になるとは到底思えませんが……」
「いや、嬉しいよ。次の休みは空いてる? 友人にホテル・デトワールの支配人いるんだけど、そこのレストランはどうかな? そこから見える夕焼けが最高に綺麗だし、もちろん料理も最高なんだが」
「……!! デトワールってあの海岸通りにあるあのホテルですか? そんないいホテルのレストランなんて申し訳な……あっ……間違えました……えっと……ありがとうございます。食事楽しみにしていますね」
ワーリングでも一、二を争うほどの高級ホテルのレストラン。反射的にお断りしようとしたが、先ほどの会話を思い出したセレスは、満面の笑みを浮かべ、こくりと頷いた。きっとこの提案は気持ち良く受け取るのが正解だろう。
「うん、上出来」
それを見たクロードが嬉しそうに笑う。いや、正確には長い前髪のせいで表情は確認できない。それでもセレスにはその前髪で隠された瞳が優しく細められているような気がした。
◇ ◇ ◇
約束の日。日中はもう夏真っ盛りの強い陽射しが降り注いでいたが、夕方にはそれも弱まった。心地よい海風が街を通り抜ける。すると、新調したばかりのワンピースの裾がふわりと揺れた。
(もう! 風のせいで前髪が乱れちゃう。せっかく頑張ってセットしてきたのに……)
今日はサイドからバックにかけて緩めに編み込み、高い位置で一つにまとめたアップスタイルにしていた。顔まわりの髪の毛は少し下ろして柔らかい印象になるようにセットしたのだが、無情にもいつもの数倍の時間をかけてセットした髪型は、意地悪な潮風のせいで何度も手櫛で前髪を整える羽目になっていた。
(みんながが潮風を嫌う理由がやっとわかったわ……)
セレスが一人前髪と格闘していると、通りの向かい側から背の高い男性が近づいてくるのが見えた。青灰色のセットアップはドビー織りで、軽さと清涼感を感じさせる装いは今の季節にもよくマッチしている。上質なスーツをさらりと着こなす様は、さながらどこかの貴族のよう。けれど、お決まりの陰鬱前髪、黒縁眼鏡のせいでその完璧な装いも形無しになってしまっている。
(あんなにお洒落なのに、どうして眼鏡だけあんな感じなんだろう……あっ、もしかしてあれが最先端のお洒落なのかしら?)
あまりのミスマッチ具合にセレスの思考も混乱してしまったのか、ついあり得ない方向に考えがいってしまう。
「やぁ、セレス。随分早かったね。俺も早めに来たつもりだったんだけど、待たせてしまってすまない」
「あっ、いえ、わたしもついさっき着いたところです!」
さっき着いたなんて大嘘だ。セレスは十分も前には着いていた。ちなみに今は約束の時間の十分前。つまり二十分も前に到着していたことになるが、それがバレるのがなんだか恥ずかしい気がして、咄嗟に嘘をついてしまう。
「そうなんだ? それにしても今日の恰好もかわいいね。よく似合っている」
「あ、ありがとうございます! クロードさんもとてもお似合いです」
「そう? 嬉しいな、ありがとう。じゃあ早速だけど行こうか? さぁ、お手をどうぞ」
流れるような所作で差し出された手は大人の男の手だ。父親とも弟とも違う。大きな手のひらに、長い指は節がしっかりしていて骨ばっている。セレスがそっと手を重ねると、クロードはそれをするりと自らの左腕に誘導した。
「じゃあ、行こうか」
ご機嫌な様子で歩き出したクロードだったが、一方のセレスは突然の出来事に戸惑いを隠せないでいた。
引き締まった腕、爽やかな香水の香り。ちらりと見上げると「ん?」と顔を傾けるクロード。触覚、嗅覚、視覚、聴覚。その全てでもって刺激されたのだ。戸惑ってしまうのも無理はない。
(距離が……近いっ!)
グレゴリーに乱暴されて憔悴しきっていた時には、看病のためにクロードと同じ部屋で眠っていた。あの時は心が恐怖に支配され、それ以外の感情が入り込む余地など全くなかった。悪い夢を見て目が覚めても、ベッドの横で眠るクロードの存在に安心感を覚えたほどだった。
それなのに今はただ腕を組むだけでセレスはドギマギしてしまう。平常時にこんな近い距離感は初めてで、心臓の音が耳まで届くほど。それでも混乱する頭でもなんとか会話を続けることができたのは、徹底的に仕込まれた淑女教育のおかげだろう。
たわいもない会話を交わしながら辿り着いたレストランはホテルの五階にあった。今はちょうど夕暮れの時間。セレスは入った瞬間、目の前に広がる美しい景色に釘付けになった。海側一面の大きな窓からはワーリングの美しい海が一望できる。オレンジと青が混じり合った空の色が海に映り込み、なんとも幻想的な色合いに、セレスは「はぁ……」と感嘆の溜め息をついた。
「……なんて綺麗なのかしら」
「だろう? セレスにこの景色を見せたくてね」
案内されたのは窓側の席。すっかり美しい景色に視線を奪われ見入ってしまっていたが、着席して店内を見渡すと、壁側の方にはピアノが一台置かれていた。
「ここは音楽の演奏もあるんですね」
「あぁ。時間帯によってはラウンジやバーでも演奏しているぞ」
「そうなんですね。いつも自分が演奏する立場なので、客として音楽を楽しむのは初めてかもしれません」
「なるほどな。客視点というのも何か学びになるかもしれないね」
クロードのオーダーが終わり、いざ乾杯しようとしたとき、ちょうどピアノとバイオリンの演奏が始まった。しっとりとした耳当たりの良い曲が心地良く、まだ少し緊張の残っていたセレスの心を優しく静めていく。
「じゃあ、乾杯」
「はい、乾杯」
発泡性のワインが入ったグラスを軽く持ち上げ、微笑み合って乾杯する。お酒は九ヶ月前にクロードの部屋で飲んで以来だ。外では飲まない方がいいかも、と言われたことをセレスは忠実に守っていた。
「んん――! 美味しいっ!」
夏の盛り。良く冷えたワインが、緊張でカラカラになっていた喉をシュワシュワと通り抜けていく。果実感と酸味のバランスが絶妙で、ワインに慣れていないセレスでも飲みやすい。
「ははっ、美味しそうに飲むね。セレスは案外のんべえになるかもね」
「あっ、ごめんなさい。はしたなかったですよね。それにこの前の失態もあることですし、ほどほどにしますね」
コージットで初めてクロードとお酒を飲んだ日を思い出したセレスは恥ずかしそうに顔を下げた。
「全然はしたなくないし、美味しそうに飲んでくれた方が嬉しいし。それに俺はこのホテルに宿泊しているから、万が一酔いつぶれても安心していいよ」
「いえ、あんな醜態、もうお見せできません……」
「残念。かわいかったのに。もちろん、俺は神に誓って手を出さないよ?」
「クロードさんのことはもちろん信頼しています。それにわたしみたいな小娘が横で眠っていたところで、まかり間違っても何かしようだなんて思わないでしょうし」
「……んー、そういう感じでもないんだけどね……」
「えっ?」
「いや、なんでもない。さぁ前菜もきたようだし食べようか 」
料理は端的に言って最高だった。シーフードがおすすめとあったが、魚だけでなく肉料理も格別で、普段は少食のセレスでもペロリと平らげてしまうほどだった。
「それにしてもセレスの所作って本当に綺麗だね。本当は貴族って言ってたかな?」
「あ、はい……没落したんですがマドアス男爵家の縁戚です……」
家庭教師をしていた頃に出会ったクロードにも、ドルレアン家で使用していた偽名と設定で通していた。
けれど、今更になって欺いていることに後ろめたさを感じたセレスは、無意識に声が小さくなってしまう。
「ふーん。でも、没落したとはいえセレスならたくさんの縁談が舞い込んだだろう?」
「いえ、そんなこと全然ないです……あっ、でも実は、両親が決めた婚約者が加虐趣味で有名な人だったのも家出した理由の一つです」
「……んんっ!? 加虐趣味っ!?」
「……はい。ひどいですよね。ずっと両親から愛されているって思っていたんですが、どうやらわたしの勘違いだったようで」
「……知らなかったな……」
欺いている心苦しさのせいだろうか。つい真実も織り交ぜて話したところ、クロードは思っていた以上に驚いたようで、「加虐趣味……」と繰り返しながらワインを口に運んでいる。
「それは……逃げ出したくもなるな」
「貴族として産まれたからには、それも受け入れるべきなんですけどね。だけど、なによりもバイオリンをあと少しだけでいいので続けたくて……それが家出の一番の理由です」
「そうか。家出して後悔は?」
「ないです! バイオリンを続けられることももちろんですが、今日のように美しい景色を見たり、クロードさんみたいに新しい出会いがあったり。家出をしなければ得られなかったものばかりです」
「そうか。それなら俺もセレスを応援するよ。何かできることがあったら何でも協力するから」
力強く後悔はないと言いきったセレスを、クロードは眩しいものを見るように目を細めた。
初めて出会ったときは頼りなさげだったか弱い女の子はもうどこにもいない。一人で生きることで、お金を稼ぐ大変さを知り、人の悪意にも触れた。その経験は確実にセレスを一回り成長させたようだった。
楽しいお喋りの時間はあっという間に過ぎていく。窓から見える景色もすっかり夜だ。海岸通り沿いに等間隔に並んだ街灯の光が海辺を仄かに照らしている。セレスとクロードは食事を終えるとその海岸通りをあてもなくゆっくりと歩いた。もちろんセレスの右手はクロードの手によって当たり前のように腕に回されている。
「じゃあ、クロードさんはまたシャルドーに戻るんですね……」
「そうだな、しばらくはこことシャルドーを行き来する日々になるだろうな。また一ヶ月後に戻ってくる」
クロードは隣国と鉱物の輸出契約を取り交わし、一旦ロージェ侯爵領に戻るそうだ。本拠地でしばらく諸々の調整をして、一ヶ月後にまた輸送船の選定をしにワーリングに戻ってくるらしい。今後はしばらくそんな日々が続くとクロードは言った。
(それにしたってクロードさん、働き過ぎじゃない? いくら仕事ができるっていっても、コージットでは鉄道輸送の仕事をして、隣国では輸出契約を取りまとめて、次は輸出船の選定。その上シャルドーでも色々仕事をしているみたいだし……)
「とてもハードスケジュールなんですね。どうかお身体大切にしてくださいね」
「うん、ありがとう」
「でも、そんなにがむしゃらに働くのは何か理由があるんですか?」
「理由? あぁ、あるよ。セレスと似たようなもんさ。夢を叶えるためにお金が必要だからね。だから忙しいけど苦じゃないかな」
「夢? 聞いてもいいですか?」
「いつかきっとセレスにも教えるよ。けど、今はまだ秘密かな」
クロードは口角をニッと上にあげる。秘密だと言われると俄然興味がわいてくるが、それを聞き出すなんて野暮なことをセレスはしない。いつか教える、それは言い換えれば、これから先もクロードとセレスが関わり合いを持ち続けるということだ。その日までの楽しみに取っておけばいい。
「夏とはいえ、この時間の風は少し冷たいな。セレス、そろそろ自宅まで送ろう」
「いえ、一人で大丈夫ですよ。クロードさんには遠回りになってしまいますし」
「おいおい、夜に女の子を一人で帰すような男にしないでくれよ」
有無を言わせない雰囲気を醸し出されたとはいえ、セレスがその提案をすぐに受け入れたのは、クロードと過ごす時間を名残惜しく思っていたせいかもしれない。明日からはまたしばらくクロードのいない日々。セレスは腕に回した手にほんの僅かだけ、ぎゅっと力を込めた。
花粉のせいで目は開かないし、頭も常にぼんやりしています。
初っ端から執筆目標達成できず・・きっと全て花粉のせい・・




