十三 ナイトクラブ・リラ
翌日は朝から新居探しに出掛けた。治安の良いワーリングといえ、夜十二時に仕事が終わることを考えると、自宅は職場から近い方がいい。マルクから紹介してもらった不動産会社の担当者は仕事のよくできる人で、内見一件目で気に入る物件に出会えたことはラッキーだった。案外新居探しは疲れるもの。今晩の初仕事に向けて体力は残しておきたいところだ。家具付きでいつでも入居可ということで、明日には転居できることになった。
想定よりもすんなりと新居探しが終わったおかげで、セレスは夜八時からの勤務だが陽が高いうちにお店に入った。マルクがバイオリンの練習場所として店をいつでも使ってくれて構わないと言ってくれていたのだ。正直、安いアパートメントだと音が響く。長時間練習するのも気が引けるので、マルクの提案は願っても無いものだった。
「ねぇ、あなたが新しいバイオリンの子?」
一人黙々と練習をしていたら、店の女の子とは少々、趣の異なる背の低い小柄な女性に声をかけられた。
「はい。セレスと申します。今日からこちらでお世話になることになりました。どうぞよろしくお願いします」
「そんなに気を遣わなくてもいいよ。わたしはイリナよ。フルーティストなの」
柔らかそうな栗色の髪と同じ色合い瞳は少し垂れ目になっていて可愛らしい印象なのに、唇には艶やかな赤色のリップをのせていて、それがなんだか妙に色っぽい。小悪魔的な魅力といった感じだろうか。
「バイオリニストのセレス…………ってもしかしてあのセレスティーヌさん?」
「えっ!?」
「やっぱりそうでしょ? そりゃわかるわよ、わたしだってフィンロイナ音楽コンクールを目指す身よ。楽器は違えど、二年連続本選に出場した子を忘れるはずないわ。今年は出場していなかったけど、あなたもなかなかの訳ありのようね」
「えっと、はい……あの……そのことは黙っていてもらえませんか? お願いします!」
「当たり前じゃない。私もこんなところで働く事情があるんだしお互い様だわ。これから来るイザベルも似たようなものよ」
「イザベル……さん?」
「ピアニストの子よ……って噂をすれば来たようね。イザベル! こちらは新しいバイオリニストのセレスよ」
ふわふわのストロベリーブロンドの髪を揺らしながら、颯爽と扉を開けたイザベルに向かってイリナは手を振った。
「あらっ! こんなかわいらしい女の子が次の子なのね。よろしくね、イザベルよ」
「セレスと申します。こちらこそよろしくお願いします」
「ふふっ、なんだか妖精さんみたい! ねぇ、セレス? 今日のドレスはもう決めた?」
「いいえ、まだ」
高級志向のナイトクラブ・リラでは、演奏時にはドレス着用が絶対だ。持ち込みでもいいし、お店で用意もしてくれている。もちろん節約したいセレスはレンタル一択だ。
「たしか水色のシフォンドレスがあったはずよ。きっとすっごく似合うと思うの! お化粧はあんまりしないの? きれいな顔立ちなのに勿体ないわ」
「あっ、じゃあそのドレスにしようと思います。お化粧は自分でやったことがなくて……」
「そっかぁ。じゃあ私に手伝わせてよ。セレスはまだ十代? 肌がとても綺麗だからそれを活かしたナチュラルメイクが似合うと思うわ!」
イザベルは楽しそうに笑った。珍しい緑色の大きな瞳はいきいきと輝いている。年の頃は二十代後半といったくらい。身長も高いせいか、お姉さん的ポジションだろうか。
「イザベルったらお化粧よりもアンサンブルの練習が先でしょう? まったくもう!」
「だってこんなにかわいいんだもの。愛でたくなるのは当たり前じゃない。はぁ、イリナってば若いのに口うるさい母親みたいね。そんなんじゃもてないわよ」
「心配していただかなくても十分もてております! 行き遅れのイザベルにだけは言われたくないわ」
「わたしは結婚できないんじゃないの。しないだけ! そこんとこ重要だから間違えないでくれる? 求婚くらい何度もされたことあるわ」
「はいはい。自慢はそれくらいにして。イザベルに近寄ってくる男なんてクズばっかじゃない。クズに求婚されたって羨ましくもなんともないわ」
「負け惜しみ言っちゃって」
「なんですって?」
「なによ?」
セレスを置いてけぼりにして二人は言葉の応酬を繰り広げる。けれどその言い合いは仲が悪いからというよりも、むしろ何でも言い合える間柄だからこそのようだ。セレスはまるで姉妹喧嘩のようだな、と微笑ましく二人を眺めていると、イリナがようやく自分たちの暴走に気付いたようだ。
「あ……ごめんなさい、セレス。ちょっと興奮しちゃった。さっ、早く練習しちゃいましょ」
「そうね。ほんとこのやり取りもう何度目よ。さすがにもう飽きたわ」
楽器の準備をし始めると、つい先ほどまでの苛烈な言い争いをしていたなんて思えないくらい、二人の表情は真剣なものに変わった。楽器に触れる所作だけで、どれだけ演奏者が音楽を愛しているのかわかる。プライベートな部分はまだ何も知らないが、二人のように愛情を持って楽器に触れる人に悪い人はいないと、セレスは経験から知っていた。
常連が多いリラでは、毎日同じ曲を繰り返すことはないそうで、開店前に曲目を決めるそうだ。「誰も聴いちゃいないけどね」とイザベルは自虐的に笑うけれど、それでも腐らずに、誇りを持って納得できる演奏を目指す二人は、やはりプロの音楽家だとセレスは思う。
曲が決まると早速みんなで合わせていくことにした。
「ちょっと、セレス! あなたちょっとすごすぎない?」
「だって、フィンロイナ音楽コンクール本選出場者よ。しかも二年連続!」
セレスの事情を知らないイザベルが演奏後感嘆の声をあげると、なぜかイリナが鼻を高くして、我が事のように自慢をする。イザベルは数年前にコンクールの夢を諦め、今は新しい夢に向かってお金を貯めている最中だという。そのためセレスがコンクール本選に出場していたことは知らなかったようだ。
「本選!? すごいじゃない! 演奏技術はもちろんだけど、出るところは出て、引くところはちゃんと引くから、音の重なりも綺麗だし、私たちもやりやすいわ」
「ふふっ、本当にね。セレスが来てくれて嬉しい。前の子は自分が一番目立とうとして大変だったのよ」
どこか遠い目をするイリナからは、余程苦労したのだということが、何も言わずとも推し量れる。
「まぁ、それで! 結局音楽なんてなーんにもわかっていない隣国から来ていたお客が、目立ってた前の子を気に入っちゃって、あっという間に恋仲になって飛んだのよね」
「キィィ、思い出しただけで悔しい! 真面目にやってる私たちが馬鹿みたいじゃない。音楽は男捕まえるための道具じゃないっつうの」
セレスはイリナの言葉にドキッとした。セレスの両親も、より条件の良い男に嫁がせるため、バイオリンを習わせたのだから同じ類の人間だ。結局それが嫌で逃げてきたわけだが、それまでの自分もそれを不満に思いながらも受け入れていたし、その環境の中で育ってきた。自分だって同じ穴のムジナかもしれない。そのことを告げたら二人はセレスを軽蔑するだろうか。
「まぁ、今となれば飛んでくれてラッキーだったけど」
「たしかにね!」
二人は同時にセレスに顔を向けると、にこやかに笑い、そして言った。
「わたしたちはセレスを歓迎するわ。ようこそ、ナイトクラブ・リラへ」
◇ ◇ ◇
すっかり日が暮れた頃、水色のシフォンドレスを身にまとったセレスはイザベルに化粧を施されていた。椅子に座るセレスの目の前には、大きな膨らみが二つ窮屈そうに並んでいる。
(すごい……谷間が深い……イザベルさんって着痩せするタイプだったのね。半分譲ってくれないかしら……)
私服ではわからなかったが、黒いスレンダードレスに着替えたイザベルの胸元はとても豊かに実っていた。まんまるで張りがあって、どことなく甘い香りすら漂ってくる。それをわざとらしく見せつけてくるわけでもないので、変ないやらしさはなく、色っぽいのに品を失っていない。
まさかセレスが自分の胸元に釘付けになっているなんて思いもしないイザベルは、セレスの頬に薄いピンクの頬紅を筆でさっとひと刷けすると、にんまりと笑った。
「はい、完成! どう? 我ながら完璧だと思うんだけど」
差し出された手鏡を受け取ったセレスが鏡をのぞくと、そこには見たこともないような自分が映っていた。
「……すごいっ! かわいいです! こんな自分初めて……イザベルさん、ありがとうございます!」
「ふふん、まっ、私の手にかかればこんなものよ。っていっても、元がいいっていうのが一番の理由だけどね」
「その通りよ。けどほんと、妖精かお人形かってくらいかわいいわ」
セレスは未だ鏡の中の自分と見つめ合っていた。厳格な両親は成人前のセレスが大人のような化粧をすることを良しとしなかった。社交界デビューしていれば、こんな化粧も経験していたのだろうが、セレスはその一ヶ月前に家を飛び出していた。
化粧をすれば地味な顔立ちでもそれなりになるものだと、セレスは初めて経験するおめかしに胸の高鳴りを覚える。新しい自分に出会えたような、少し恥ずかしいけれどワクワクするような、そんな感覚。
「イザベルさん! もしよろしければこれからお化粧教えてくださいませんか?」
「もちろんよ。今日はナチュラルメイクだけど、色々試してみましょう。セレスには伸びしろしかないわ。そうだ! 今度みんなでお買い物に行きましょうよ。メイク道具、必要でしょう?」
「いいんですか? ありがとうございます。ふふっ、楽しみです」
友人とお買い物にお出掛けなんて初めてだ。楽しい予定が立つと、それだけで気持ちが明るくなる。年頃の娘がごく普通に経験しているようなことでも、セレスにとっては特別だった。
「はいはい、お出掛けの予定はまた後で立てるとして、お店がオープンするわよ。行きましょう」
可愛らしい見かけによらず、しっかり者のイリナが声をかけると、三人はフロアへ向かった。見かけだけは一番お姉さんタイプに見えていたイザベルは、実際はお転婆娘といった感じで、セレスは気弱な末っ子といった感じだろうか。光りの灯ったシャンデリアは、店内に煌びやかな陰影を作り出し、美しくも妖しい空間に変えている。
演奏の始まりがオープンの合図だ。オープンとともに常連の客たちが次々とお店に入ってくると、お目当ての女の子を指名してソファーに座っていく。高級店というだけあって、客たちの身なりはしっかりしているが、やはりそこは美しい女の子とお酒を飲むことを目的としたお店。女の子に腕を組まれているその上にあるのは鼻の下が伸びきった顔。にやにやと下心を滲ませた笑みを皆浮かべている。
当然、美しいアンサンブルを奏でているセレスたちに視線が向くことなんてない。彼たちの視線を集めるのは、女の子たちの煽情的なドレスから覗くふくよかな胸元や細い腰回りばかり。
(誰も聴いちゃいないってイザベルさんが言っていたけど本当ね……まるでレコードにでもなった気分だわ)
アンサンブルが終わると、それぞれの独奏の時間。そして最後にまたアンサンブル。演奏者が入れ変わろうと、客たちの態度は変わらない。いつもお喋りに夢中で、彼たちの頭の中は、お気に入りの女の子とどれだけ距離を縮め、どうしたら特別な存在になれるかでいっぱいだ。
練習して、練習して、練習して。日々少しでも良くなるように試行錯誤しながら音楽と向き合ってきた結果がこれ。人から自分の演奏を求められる喜びを知ってしまっていたセレスにとって、初日はさすがにその虚しさにやりきれない気持ちにもなりもしたが、日々繰り返されるとそれも慣れていくもの。セレスはこの現状に特に不満を感じなかった。
素晴らしい仲間たちと切磋琢磨しながら、いつでも気兼ねなく練習できる環境。それでいて夜の仕事ゆえに給金も高い。それに関心を持たれないことは何もデメリットばかりじゃない。未だ男性が少し怖いセレスにとって、客たちの関心が美しく妖艶な店の女の子に注がれていることに安心感もあった。
そうしてナイトクラブ・リラで働くようになって二ヶ月が過ぎた頃。セレスは店で嬉しい再会を果たしたのだった。




