十二 港町ワーリング
列車はスピードをどんどん加速していく。コージットを中心にして、サンセルノは十二時の方向に半日程行ったところ、王都は六時の方向に三時間、これから向かうワーリングは五時の方向に同じく三時間程度で到着する。ワーリングは王都と隣接する都市になり、その都市間には街道が走っていて馬車移動も可能だ。それゆえに、両親は家出した直後にはワーリングを徹底的に探索しただろうが、逆に十ヶ月が経った今ではその手を緩めているとセレスは踏んでいた。
到着までにはまだまだ時間がかかる。セレスはカミーユの手紙の封を開けたが、いざ読み始めるまでにはなかなかの時間を要した。セレスの考えとしては、あんな男となんて別れた方が断然いいと思っているが、カミーユも同じ気持ちかどうかなんてわからない。事件が起こらなければ裕福な暮らしを続けていられた可能性も高く、助けてくれはしたが、そのことを悔いているかもしれない。エミリを抱えて女性一人で生きていくにはこの国はあまりにも厳しい世界だ。
けれど、いざ意を決して読み進めると、手紙の中にはセレスへの謝罪と懺悔で埋め尽くされていた。
――親愛なるセレス先生へ
春の日差しを感じる季節になりましたが、セレス先生はいかがお過ごしでしょうか? この暖かな陽気が、先般の事件の傷を少しでも癒してくれていることを願ってやみません。
このたびは、罪深い私の過ちを懺悔いたしたく、ペンを取らせていただきました。お気を悪くさせてしまったら申し訳ありません。
まず、主人の歪んだ性癖については私自身よく存じておりました。結婚当初から私はそれを酷く嫌悪しており、年齢を重ねるにつれ、少しずつ私に興味を失っていくことだけが心の拠り所でした。けれど、たまに行き場を失った欲をぶつけられることもあり、いつか完全に興味が失われる日の来ることをずっと願っておりました。そんな中現れたのがセレス先生でした。
悲しいことですが、主人と九年も共に過ごせば、表情一つで何を考えているのかくらいは察せます。彼がセレス先生と初対面したとき、やっとこの苦行から解放される日が来たのだと私は悟り、そして静かに歓喜いたしました。自分の代わりに生贄となる少女が、これからどんな目に合うか想像できなかったわけではありません。それでも、自分勝手で愚かで罪深い私は、自分自身を心底軽蔑しながらも、セレス先生を助けることはできませんでした。本当に、本当に、申し訳ありません。
あの事件の前日、主人はいつになくひどく立腹したまま帰宅しました。そして理由も言わず、明日のレッスンは休みになったから外出してこいと、私とエミリに言いつけたのです。その時、私は直感でこの男が何をしようとしているのかわかりました。止めなければ、と思うのに、ここで助けたらまたあの日々が始まるのではないかと思うとどうしても決断することができず、事件の日は言いつけ通りに外出いたしました。けれど、どうにも気になってしまい、こっそりと屋敷に戻ったところでちょうどあの現場を目撃したのです。そして気付けば私は花瓶を手に取り、あの男の頭を殴打していました。もっと早くに決断できていれば、セレス先生にあんな怖い思いもさせずに済んだのに……情けない私をどうかお許しください。
今は無事にあの男とも離婚が成立し、とても晴れ晴れとした気分です。今はクロード様のお力添えもあり、シャルドーでの働き口を紹介していただき、エミリと二人、力を合わせて人生をやり直しているところです。働いた経験のない私には大変なことも多々ありますが、それでも毎日がとても充実しています。結婚してからは明るい未来なんて想像したこともなかったのですが、今は将来に希望が満ち溢れています。
私はセレス先生のバイオリンが大好きです。先生のバイオリンの夢が叶うよう、遠い地からではありますが、心よりお祈り申し上げております。いつか会える日が来ることを私もエミリも切に願っております。その日までどうかお元気にお過ごしください。
――カミーユ
読み終えたセレスは手紙を抱き締めしめ、ぎゅっと目を瞑った。ところどころインクが滲んだ箇所からは、カミーユの後悔が痛いほどに伝わってくる。良心の呵責に苛まれ、深い葛藤の中で過ごしてきた日々はどれほどの苦しみをカミーユにもたらしたことだろうか。いつも柔らかい微笑みを浮かべていたカミーユが、こんな痛みを抱えていたのかと思うとやりきれない思いでいっぱいになる。悪いのはグレゴリーであってカミーユだって被害者の一人だ。
(カミーユ様に謝られることなんて一つもないわ。むしろ感謝しているくらいなのに……)
道徳心の高い人ほど自分自身を苦しめてしまう。カミーユが置かれたような状況の中で、道徳心を失わず、他人を思いやれる人間なんてそうそういるものではない。もしカミーユがいなければ今頃セレスはどうなっていたか、想像することすら恐ろしい。
(今は幸せに暮らしているのね……本当に良かった……)
その事実がセレスにとって最も嬉しい。文官になることを夢見ていたカミーユ。その夢が叶うことはなかったが、新しい場所で新しい夢を持って前に進んでいることにセレス自身も勇気づけられていた。
(わたしもワーリングで頑張らなきゃ。いつまでもメソメソしていられないわ)
自分のバイオリンを好きだと言ってくれる人がいる。自分の夢を応援してくれる人がいる。狭い世界から飛び出したことで繋がった大切な人たち。その人たちの期待を裏切らないためにも、自分にできることは何でもやっていこうとセレスは心に強く誓った。
(それにしても……クロードさんって一体何者なのかしら? カミーユ様に仕事を斡旋できて、ロージェ侯爵領の基幹産業の輸送や輸出に関わるくらいだから、見かけによらずやり手よね……もしかして大きな商会の幹部だったりして!)
そんな想像をしたセレスは「まさかね」と笑った。あの前髪眼鏡のクロードが大商会の幹部だなんて想像もできない。自分の父親や祖父を見ていても、大きな会社の幹部ともなれば腹芸を使いこなさなければ相手と渡り合っていけない。あの親切なお隣さんが、そんな芸当ができるなんて到底思えなかった。
そんなありえない想像を巡らせているうちに、窓の外には初めて見る海が近づいてきていた。春の陽が瑠璃色にあたり波の揺らめきに合わせてキラキラと輝いている。
「なんて綺麗なの……すごい……」
感動のあまりつい心の声が漏れてしまう。凪いだ海の上には白い鳥たちが餌を求めて旋回し、北側の沿岸には漁船が、南側の沿岸には貨物船が停泊している。セレスがそっと二段窓を開けると、ぶわっと湿っぽい潮の香りが吹き込んできた。
(わぁ! この香りが海の香りなのね)
海を見たことのある友人たちは、この匂いが独特で嫌だとか、塩気のある風が髪に良くないとか、あまり女の子受けは良くなかったようだが、セレスは一目見てこの地が大好きになった。遠くからでもわかる活気ある街。景色は絵画のように美しく非の打ちどころがない。
多くの船が行き交う貿易港を通り過ぎ、さらに南へ進んだ場所が終点のワーリング駅だ。駅前からさらに南側に旧市街地が広がっている。ホームから降り立ったセレスはしばらくの間、なんとなしに海の方向を見つめていた。この内海を挟んだ向こう側には、セルジュが音楽留学をしている国がある。
(セルジュも遠くで頑張っているんだもの。わたしも負けてはいられないわ)
まだまだ陽は高い。セレスは仮住まいとなるホテルを探しに海岸沿いを歩いた。美しい白砂の海岸沿いには石畳の遊歩道が長く続き、街灯と街路樹が等間隔に並んでいる。海岸沿いには多くのホテルが立ち並んでいるが、どれも見るからに高級ホテルで、今のセレスが泊まれるようなホテルは見つかりそうもない。
(わぁ! あのホテル素敵!)
六階建てのクラシカルなホテルを目にしたセレスは思わず感嘆の声をあげた。レモンイエローの外壁が、空と海の青色が美しいこの場所でよく映えている。外観には派手な装飾はなく、それがかえって格調の高さを際立てている。
「ホテル・デトワール……」
黒いシルクハットをかぶったドアマンが、洗練された見事な所作で客を迎え入れている。セレスはそのエントランスの上に書かれたホテル名を呟くと、そっとその場を立ち去った。木綿のワンピースを着た小娘がエントランスの前で立ち止まっていてはきっと迷惑だろう。セレスは海岸沿いのホテルを早々に諦め、旧市街地の方へ向かって歩き出した。碁盤目状に整備された街並み。見知らぬ街の細い道に入るような危険な真似はしない。人通りの多い太い道を選びながら、海から離れていくにつれ徐々に庶民的な雰囲気になってきた。
「もし、お嬢さん? もしかしてバイオリンが弾けるのかい?」
「えっ? わたしのこと?」
後ろからしゃがれた声に呼び止められ振り向くと、そこには濃灰色のスーツに黒いシャツをはだけさせた、見るからに危うい雰囲気の男性が立っていた。年の頃は四十代といった具合か。グレゴリーと同じ年代の男性に突然話しかけられたセレスは一瞬ひるんでしまった。
「そう、あなただよ、お嬢さん。そんなに怯えないで大丈夫、俺は怪しい者じゃないから。すぐ近くでナイトクラブを経営しているんだ」
白髪の混じった髪を綺麗に後ろになでつけた男は、接客業に従事している者特有の、綺麗だが感情の読めない笑顔を顔に浮かべた。
「ナイトクラブの経営者がわたしに何の御用ですか?」
「ははっ、警戒心の強いお嬢さんだ。いやなに、うちのナイトクラブでは生演奏を聴きながら、男性がお酒を楽しむ場所なんだけどね、バイオリンの娘が飛んじゃって困ってたんだ」
「飛ぶ?」
「あぁ、業界用語で無断退職しちゃったってこと。お嬢さん、バイオリンどれくらい弾けるの?」
「それなりには……」
「じゃあすぐ近くにお店があるからどのくらい弾けるか聞かせてくれない? もちろん二人っきりではないよ。開店の準備で女の子たちも集まってるから安心して」
「でも……」
「お嬢さんここに来たばっかりでしょ? 仕事探してるんじゃないの?」
男の言う通り、仕事はすぐにでも見つけたい。家庭教師の仕事は楽しかったが、今はまだ恐怖心の方が勝っている。女性の多い職場ならそういった不安はないかもしれない。けれど、若い頃はさぞかしもてたであろう、その甘いマスクで不敵な笑みを浮かべるこの男を、すぐに信用することはできない。
「どういったお店か見学してから決めてもいいですか?」
「もちろんさ。その荷物重たいだろう? まだホテル決めてないなら、あの角にあるホテルはおすすめだ。安いのに清潔だし食事が美味いってよく聞くな」
「そうなんですね。何も情報がなかったので助かります」
「俺はそこのカフェで待っているからチェックインを済ませて荷物は置いておいで」
男の手の内でうまく転がされている気もするが、不思議なことに、セレスはこの男に不快感を感じていなかった。馴れ馴れしいところはグレゴリーと同じなのに、セレスを見る目がさっぱりとしていて、女性として全く見ていないのだ。
手早く手続きを済ませ荷物を置いて戻ってくると、テラス席にいた男も席を立った。
「早かったな。急がなくても良かったのに。あっ、そういやまだ自己紹介していなかったな。俺はマルクだ」
「セレスと申します。よろしくお願いします」
「礼儀正しいお嬢さんだ。さぁ、店はこっちだ」
男が向かったのは海岸通りから三ブロックほど奥に入った通り沿いにあるお店だった。店に向かう途中も「マルク! 店の調子はどうだい?」「今夜お邪魔するよ!」と次々に声をかけられている様子からして、見た目と違ってこのマルクという男は存外慕われているのかもしれない。
ライラックの花模様が彫られたチーク材の重厚な両開き扉。白壁には控えめに「ナイトクラブ・リラ」と書かれたプレートがつけられている。マルクが手慣れた感じで扉を開くと、そこはホテルのロビーラウンジのような造りだった。だが醸し出す雰囲気はまるで違う。一言でいうなれば大人の夜の社交場だろうか。薄暗い店内。大理石が一面に敷かれた床の上にはいくつも黒革張りのソファーセットが並び、その中心にグランドピアノが置かれている。その上には豪華なシャンデリアがぶら下がり、夜になればさぞかし美しく輝くだろう。店内の一段上がった最奥にはバーカウンターがあり、琥珀色の高そうな蒸留酒が並べられている。
「じゃあ、早速だけど、あのピアノの横に立って弾いてくれるかな?」
「はい、わかりました。なにかリクエストはありますか?」
「そうだな……男女が集う場所だからやっぱり恋愛に曲がいいな。しっとりしたやつで頼む」
「男女が集う……?」
「あぁ、まぁじきにわかるさ」
マルクはそう言うと、ピアノ近くのソファに腰を下ろし、煙草に火をつけた。
(男女の集いって何かしら? でも今は採用されることに集中しなきゃ。恋愛の曲……うーん。苦手なんだけどな……)
余計なことに気を取られていては良い演奏なんてできない。セレスは気になる言葉も何もかも一旦頭の中から消し去ると、徐にバイオリンを構え、ゆっくりと曲を弾き始めた。
選んだ曲は『君に捧ぐ』。つい数日前にクロードのために弾いた曲だ。あの時感じた気持ちと音楽が繋がったような感覚は、未だ身体に残っている。目の前にクロードがいると思い浮かべながら、セレスは丁寧に弾きあげると、店内で開店準備をしていた女性たちから自然発生的に拍手が起こった。
「……どうでしたでしょうか?」
「いや……正直すごく驚いている。うちの店では勿体ないくらいだ」
しばらく続く沈黙の中、煙草の煙がゆらゆらと立ちのぼる。マルクの評価は決して悪いものではないのに、なぜか苦々しい顔をしている。
「セレス……君は然るべき場所へ戻った方がいいんじゃないか?」
「えっ? どういうことですか?」
「さっきはじきにわかると言ったが、ここは基本的に女が男を接客する店だ。音楽は雰囲気づくりのため……ぶっちゃけると高級感の演出みたいなもんだ。正直、曲をまともに聴いている客なんていやしない。その実力でこの店は勿体ないし、それにセレスは本当はちゃんとしたところのお嬢さんだろ? 夜の店なんかやめた方がいい」
マルクの人となりを垣間見たセレスは胸が温かくなった。なるほど、街の人がマルクを慕うわけだ。厳つい顔面の内側にこんな優しさを持っているなんて、人は簡単に魅了されてしまうに違いない。けれど、その優しさは今のセレスには必要のないもの。バイオリンを続けるために、これまで見たことのない世界を知るために、家を出てきたのだ。帰るわけにはいかない。誰にも曲を聴いてもらえないのは悲しいが、それでもセレスが唯一得意なバイオリンで生計を立てられるのならそれに越したことはない。
「わたしにも事情があります。悩まれる理由がその二つだけであるのなら、どうか採用してください」
「そうは言ってもなぁ……」
「オーナー! このお店の女の子はみーんな何かしら訳ありですよ。それに私、この女の子のバイオリン気に入っちゃった。ねぇ雇いましょうよ!」
豪奢なブロンドを片側に流した美女はマルクに近づくと極自然に隣に座り、綺麗にマニキュアの塗られた手をそっとマルクの太ももに置いておねだりをした。
「ミーシャの言う通りだわ。訳ありの女の子を助けてあげるのがオーナーでしょう?」
艶やかなブルネットの髪をかき上げながら、これまた妖艶な美女が援護をしてくれる。マルクも気の強そうな二人の美女の勢いに気圧されたのか「ミーシャとルシェルがそう言うなら……」と、渋々ながらなんとか承諾してくれた。
「あ、あの! 助けてくださりありがとうございます!」
夜の営業に向けて支度をするのか、奥の控室に消えようとする二人の美女に向かってセレスは大きな声で感謝を伝えた。
「ふふっ! 見た目によらず大きな声もでるのね。助けたつもりはないわよ。ただ、あなたとあなたのバイオリンが気に入っただけ」
「そうよ。訳あり女どうし、仲良くしましょうね、セレスちゃん」
ご機嫌な笑い声をあげながら二人が立ち去ると、マルクと給与や条件について擦り合わせた。働くのは明日の夜から。時間は夜八時から十二時までの四時間。常に弾きっぱなしというのではなく、このお店にはピアニストとフルーティストも在籍しているらしく、独奏もあればアンサンブルもするそうだ。
(他の人はどんな感じなのかしら? いい人たちだといいんだけど……)
明日の顔合わせに緊張感を覚えつつも、一番の懸念事項だった働き口が早々に見つかったセレスはほっと胸をなでおろした。
この美しい街にはどれくらい滞在できるだろう。どうかこの地では何事も起きませんようにとセレスは願うばかりだった。
一話一話が長すぎますかね?
今回は7000字弱なんですが、キリが良いところまでと思うとつい長くなってしまい、、
色々思案中です。




