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十一 そばにいてほしい人

 記憶喪失にでもなってしまった方がいくらか楽だったかもしれない。こんなにも心は苦しいのに、意識だけははっきりとしていて、この身に何が起こったのか鮮明に覚えていた。

 なぜあんな男の言う通りに浅はかにも屋敷に入ってしまったのか。どうしてこんなことになる前に辞める判断ができなかったのか。セレスは何度も自問自答を繰り返し、そのたびに自分の愚かさを恨んだ。

 何も考えたくなかった。家に辿り着いてからは、ただ湯につかり、男の感触がなくなるまで何度も何度も身体を洗った。だが、どれだけ洗っても、身体を這う手の感触がなくなることはない。目を閉じるとすぐそこで鼻息荒く自分の身体を弄る男がいるような気分になり眠ることさえ怖かった。限界が来てなんとか眠りについても、見る夢は悪夢ばかりで、飛び上がるようにして目覚めるのだ。

 そんな毎日を過ごし三日が過ぎた頃、家にクロードの来訪があった。


「セレス……きちんとご飯は食べているのかい?」

「……えぇ」

「そんなにやつれているのに? 隈も酷い。眠れていないんだな?」

「…………」

「守ってあげられなくてごめん……」


 なにがあったのか知るはずもないのに、クロードは辛そうな表情を浮かべ、なぜか謝った。


「一人でいたい? それとも俺で良ければそばにいるけど……って今は怖いよな」

「……一人でいたくない……です……」


 今にも消え入りそうな声で、セレスは初めて弱音を吐いた。一人でいるとあの男が扉を開けて部屋に入ってくるんじゃないか、悪夢から目覚めたとき、目の前にあの男が立っているんじゃないか。そんな想像が頭の中でまざまざと映像化され、セレスを幾度となく絶望に打ちのめすのだ。


「……うん、わかった。俺で大丈夫?」

「……クロードさんがいいです」


 たしかに同じ男かもしれない。けれど、グレゴリーとクロードは全く違う男だということをセレスは本能でわかっていた。そしてそばにいてほしい人はクロード以外考えられなかった。

 

「わかった、そばにいる。日中はやらないといけないことがあるから少し離れることもあるけど、夜は必ずそばにいるから」


 そう言うと、クロードは遠慮気味に頭を優しく撫でた。セレスはこれまで一人で耐えていたのだろう。安心したのか、やっと気が緩んだのか、まるで小さい子のように声を上げて泣いた。ヒックヒックと泣くセレスが落ち着くまで、クロードは何も言わず優しく頭をなで続けた。

 それからクロードは言葉通り、ただ近くでセレスに寄り添い続けた。物音ひとつに怖れるセレスに「大丈夫だから」と声をかけ続け、苦し気に悪夢から覚めれば「ここにいるよ」と手を握りしめた。甲斐甲斐しく温かい料理を作っては少しずつ無理をしないように食べさせた。そのおかげで、二週間も過ぎた頃にはセレスはバイオリンを弾こうと思うまでに気持ちは回復したのだった。


「クロードさん、本当に何とお礼を言ったらいいか……このご恩は一生忘れません。いつか必ずお返しいたします」

「ははっ、大袈裟だな」

「いえ、大袈裟ではありません。こんな小さなベッドに眠ることにもなって、クロードさんの体の方が心配です」


 セレスの視線の先には小さな簡易ベッドが置かれている。そばにいると決めたあと、「同じベッドに眠るわけにはいかないだろう?」と、クロードはどこからともなくこれを持ち運んできたのだ。だが身長の高いクロードにこのベッドは小さすぎる。セレスは自分のベッドと交換するようにお願いしたが、クロードは頑なにそれを受け入れることはなかった。


「昔の職場ではこれよりしょぼい仮眠室のベッドを使うことも多かったし慣れているよ。むしろ懐かしいくらいだ」


 ははっ、と事も無げに笑うクロードに、セレスは温かい気持ちになる。思い出したくもない経験をしたが、自分には支えてくれる人がいる。それがどんなにありがたく、幸せなことなのか、セレスは骨身に染みて感じていた。


「こんなことがお返しになるとは思っていませんが、良かったらバイオリンを弾かせてください。今のわたしにできることはこれくらいしか思いつきません……」

「いいのかい? 実はずっと聴きたいと思っていたんだ。嬉しいよ、ありがとう」


 ふふっ、とセレスは笑うとベッドから立ち上がり、バイオリンを持ってきた。


「何か聴きたい曲はありますか?」

「そうだな……じゃあ、『君に捧ぐ』を頼むよ」


 前回のコンクールでの課題曲。楽譜は体に刻み込まれている。セレスは小さく、はい、と返事をすると優雅にバイオリンを構えた。クロードを思いながら、感謝の気持ちが届くように丁寧に心を込めて弾き始める。すると、自分の気持ちと音楽が少しずつ結びついていくような、そんな不思議な感覚がセレスの中に巻き起こった。


「……すごいな、滅茶苦茶良かった。音楽を聴いてこんな気持ちになったのは初めてかもしれない」

「本当ですか? 良かった……感謝の気持ちを目一杯込めて弾いたんですが、きちんと伝わりましたか?」

「あぁ、よく伝わったよ。セレスの気持ちがなだれ込んでくるようだった」

 

 自分でも上手く弾けた感覚はあった。気持ちと音楽がシンクロするような、そんな一体感が確かにあった。

 今回の事件があり、自分一人の力でバイオリンを続けることは無謀なんじゃないかと気弱になっていた。けれど、まだやれることがたくさんあるのだと、まだ上手くなるチャンスはあるのだと、そして何よりもバイオリンをまだ続けたいとセレスは強く思った。ここで辞めてしまっては、あの男に負けたような気がした。


「クロードさん、わたし……この地を離れて新しい場所でもう一度やり直そうと思います」

「そうだな……嫌な思い出がある場所より、新天地で新たに挑戦する方がいいかもしれないな」

「はい」

「それで、次はどの街に行くつもり?」

「そうですね…………海……海が見たいです」

「海か……それなら、ワーリングかな?」

「そうですね。ワーリングであれば、交易も盛んですし、他国の文化に触れることもできるでしょうし最適かもしれません」

「そうか……新しい場所でうまくいくといいな」


 応援しているよ、と笑いながらも、どことなく寂しげな表情を浮かべたクロードを見て、セレスは別れを惜しんでくれているのだと嬉しく思った。


「ワーリングに着いたら手紙を書きますね!」

「その気持ちは嬉しいが、俺もコージットでの仕事に目途がついたから、一旦本拠地へ戻る予定なんだ」

「本拠地? そうだったんですね。ちなみにどちらですか?」

「西にあるシャルドー地方だ」

「シャルドーといえばロージェ侯爵領ですね。友人の出身地で、その地の話はよく聞きました。鉱業が盛んな地域ですよね」

「あぁ。俺も鉱物の輸送の話をまとめるためにコージットには滞在していたんだ」

「では、シャルドーに手紙をお出しするので、そちらの住所を教えてくださいませんか?」

「あぁー、それがな……これからどこに住むか決めるんだ。俺も輸出の仕事でワーリングにはこれから度々行くことになると思うから、またすぐに会えるさ」


 ◇ ◇ ◇


 それからはバタバタの日々だった。いや、忙しくしていないと余計なことを思い出してしまいそうだから、あえて毎日に予定をぎっしり詰め込んでいたのかもしれない。

 再出発を決心してから五日後には、退去手続きは終わっていた。だが、一つだけセレスの気持ちの中で解決していない問題が残されていた。グレゴリーが不動産業を廃業したことは街の噂で耳にしたが、カミーユとエミリがどうなったかまではわからなかったのだ。


(あれから二人はどうなったの? まだあの男と一緒にいるの?)


 出発の日が近づくにつれて、自分一人だけが新天地で気持ち新たにのうのうと夢を追いかけることへの罪悪感が膨らんでいく。今までは辛い出来事から目を背けることで自分を守っていたが、命からがら助けてくれたカミーユを忘れていいわけなんてない。あの事件の結末がどうなったのか知ったところでセレスにできることなんてないだろう。けれど、知らなければならない、その気持ちがセレスの中で沸々と湧き起こっていた。

 コージット駅のホームでは、クロードが見送りにきている。クロードは事件後、事のあらましを誰かから聞いていたそうだ。それが誰かまでは教えてくれなかったが、そんなクロードであれば、事件の顛末を知っているかと思いセレスは思い切って尋ねてみた。


「クロードさん、あの……ドルレアン家のみなさんがあれからどうなったのかご存じですか?」

「あぁ、知っている。気になるかい?」

「はい。知らなければならないと思っています」

「大丈夫? その気持ちは素晴らしいけど、セレスも被害者なんだ。俺は無理に知らなくてもいいと思っている」

「……わたしを心配してくださっているんですね。ありがとうございます。けどもうわたしはクロードさんのおかげで平気です。向き合う覚悟はできています」

「そうか……なら……」


 クロードは徐に鞄の中から新聞を取り出した。日付はおよそ三週間前。事件のあった日から数日経った後の新聞だ。この記事がそうだ、と差し出された新聞を手に取ったセレスは一度深呼吸をしてから読み始めた。見出しには『グレゴリー・ドルレアン逮捕』『不動産免許はく奪』と大きく書かれ、記事には資料改ざんによる不正融資、不当な土地買収、それ以外にも様々な不動産犯罪に手を出していたことが書かれていた。そう、そのことだけが書かれていて、それ以外の罪についてはなにも言及されていない。


「あの男は捕まったんですね……良かった……けれど不正に関する罪なんですね……」

「他の罪でも訴えた方が良かったか?」

「…………」


 正直、あの男の罪をつまびらかにして余罪も追及したいし、社会的に制裁を加えたい気持ちもある。けれど、それは被害者側も痛手を被ることになるのは間違いない。過去の被害者が既に新しい生活を始めているのなら、暴かれたくない過去かもしれないし、セレスにとっても失うものが多すぎる。訴えるならば偽名のセレスではなく、セレスティーヌ・フルノーとして出廷しなければならない。もしそうなればバイオリンの夢は当然諦めなければならないし、未遂だったといえ、醜聞であることは間違いなく、社交界で面白おかしく話のネタにされることなんて目に見えている。そうなれば貴族令嬢としての価値は下がり、両親に恩返しすることも叶わなくなるだろう。


「悔しいが、セレスの将来を考えると今の段階ではその罪で訴えるのは得策でないと思ったんだ」

「……そうですね。悔しいですが仰る通りです」

「叩けばいくらでも埃が出てくる男だ。これからの調査でさらに刑期は伸びるだろうし、セレスに二度と危害を加えることがないよう厳しい処分を求めていく。あの男に牢から出られる日が来ることはないだろう」

「そうなんですね……良かった……」

 

 いくら離れた地で暮らそうとも、あの男がのうのうと街で生活していると思うと、いつまでたってもビクビクと怯えながら暮らす羽目になっただろう。それに被害に合う女の子がこれ以上出ないことがなによりも嬉しい。


「あの……それで……カミーユ様とエミリ様は?」


 一番知りたかった情報はこれだ。人の良い二人が辛い目にあっていないことを祈りながら、セレスは恐る恐る尋ねた。


「心配しなくていい。二人は無事だ。これはカミーユ夫人からの手紙だ。セレスが思い出したくない過去として封印するなら渡さないでおこうと思ったんだが、その様子なら渡しても大丈夫だろう。さぁ、そろそろ出発の時刻だ。列車の中で読むといい」


 そう言ってクロードは一枚の手紙をセレスに渡した。くすんだ藤色の封筒にはシンプルな銀色のかすみ草が箔押しされている。カミーユのイメージとはまるで違うそのシンプルな手紙に、彼女がグレゴリーからやっと解放されたのだとセレスは悟った。


「ありがとうございます。本当にクロードさんにはお世話になりっぱなしで……クロードさんがいたからバイオリンの夢を諦めなくてすみました」


 出発を告げる汽笛が鳴り響き、セレスは慌てて列車に乗り込んだ。乗降口すぐそばの席に座ると、二段窓を開け窓から少し身を乗り出す。


「いつかまたワーリングで会いましょう。それまでどうかお元気で!」

「あぁ。また近いうちに。セレスの幸運を祈っているよ」


 いつも通りの長い前髪と黒縁眼鏡姿のクロードが小さく手を上げる。初めて対面したときには不気味とさえ思ったその姿を、これからしばらくは見ることができないのかと思うと、胸がツキンと痛んだ。列車が走り出しても、見えなくなるまでその姿を瞼の裏に焼き付ける。これからはいつも困ったときに助けてくれた親切なお隣さんはいない。不安がないとは言い切れないが、いつかワーリングで再会するときには、今よりも成長した姿を見せたいとセレスは思った。

明日から1日1話に戻ります!

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