十 春の化け物
それからはグレゴリーに書斎へ誘われてもセレスは頑なに応じることはなかった。あからさまにグレゴリーの誘いだけを断るので、セレスが警戒していることはバレていたはずだが、特になにかを言われることも、されることもなく、しばらくは平穏な日々を過ごしていた。
潮目が変わったのは春の盛りを迎えた頃だった。冬から春になり、人々の気持ちは自然と開放的になる。それは素晴らしいことであるのだが、その一方で春は人を狂わせる季節でもあるらしい。歪んだ性癖を持った男たちが目覚める季節でもあった。
その日休みだったセレスもまた、春の陽気のようにほかほかとした気分で家路についていた。新譜を手に入れ、クロードに教えてもらった店でキッシュを買い、お気に入りの花屋で花を見繕ってもらい、完璧な休日を過ごしていた……はずだったのに、アパートメントに辿り着いたとき、その幸せな一日は一瞬で最悪の一日と化した。
セレスの自宅は二階にある。その階段の最後の一段を上がりきった時、一人の小太りの男が腕組みをして、セレスの自宅の扉にもたれかかっているのが目に入った。そして、メドゥーサに会ったかのように身を固くしたセレスを見るなり、その男は粘っこい笑みを向けてきたのだ。その不気味さにすぐさま回れ右をして来た道を戻りたかったが、残念ながら時すでに遅しであった。
「ドルレアン様、こんなところでどうかされましたか?」
「やぁ、セレス。いやなに、昨日このハンカチを忘れて帰っただろう? 近くに来る用事があったから持って来たんだよ」
「それはそれは、お気遣いいただきありがとうございます」
できるだけ距離を取りながらそのハンカチを受け取る。急ぐものでもなく、ましてや明日も家庭教師で家に行くというのに、わざわざグレゴリーがこんなところまで持ってくるなんて嫌な予感しかしない。ドルレアン家で就業するにあたり、現住所を伝えていたことをセレスは心底後悔した。
「セレスはこんなところに住んでいたんだな。わしに言えばもっと良いところを紹介してやったものを」
「ほほほ、流石はドルレアン様です。けれど、わたしなぞ、この住まいで十分ですわ」
「そうか? セレスなら我が家に住み込みでもいいんだぞ?」
「またご冗談を」
「冗談ではない。良かったら前向きに検討してくれ。それはそうと、今日は久々に天気が良くて暑いくらいだな。セレス、申し訳ないが水を一杯くれんか?」
「えっ?」
「喉が渇いて死にそうなんだ」
この状況で扉を開ける危うさくらいはセレスにだってわかる。五十代が近いといっても、後ろから押し入られては、力で女の子が敵うわけなどない。
「そうですか……でしたら近くの美味しいカフェをご紹介しますわ」
「いや、水を一杯貰えればそれでいい。このあと仕事に戻らねばならんからな」
「そう……ですか……あっ、でも部屋が汚れていて恥ずかしいので」
「なに、部屋の中には入らん。玄関先で飲むだけだ」
頑なに部屋の鍵を開けさせようとするその執念深さが怖い。目が血走ってしまっていることにこの男は気付いているのだろうか。欲にまみれた目を見たセレスは、ドルレアン家で家庭教師を続けるのももはや限界だと悟った。
「ドルレアン様。正直このようなことをされると迷惑です。これが非常識なことだとおわかりになりませんか? 申し訳ありませんが、こんなことをされて、これ以上お仕事を続けることは出来かねます」
「な、なにもそこまでしなくてもいいだろう? もしやわしがなにか不埒なことを考えているとでも思っているのか?」
「…………そう思われても仕方のないことをドルレアン様はなさいました」
「はっ! 小娘が。そんな貧相な身体で自意識が過剰なんじゃないのか」
「自意識過剰かもしれませんが、不快に感じたのは事実です。今日限りで辞めせていただきます」
「くそっ! 経験のないお前を好条件で雇ってやったのは誰だ。恩を仇で返すのか」
「そのことに関しては感謝しております。ですが、既に意思は固まっております。カミーユ様とエミリ様には明日改めてご挨拶に伺いますので」
「くそあまがっ! 勝手にしろ。今月分の給料は支払わんからな」
そう言い残すと、グレゴリーはズカズカと階段を降りていってしまった。
セレスはふぅっと息を吐きだすと、職を失ったというのに不思議と清々しさを覚えていた。あと数日で給料日だったのに、それが払われないというのは正直惜しいが、そんなこと以上に今は晴れやかな気分だった。
(やっぱりずっとあの視線がストレスだったんだわ。二人と別れることは残念だけど、きっといつかわかってくれるはず……)
後ろを振り返って、グレゴリーが確実にいないことを確かめてから、セレスは鍵を開け素早く自宅に入った。
(さっ、気分を変えなくちゃ。お花を飾って、キッシュを食べて……あっ、クロードさんもお誘いしようかしら)
元より家庭教師の仕事を辞めるタイミングで違う場所へ移動するつもりだった。親切なお隣さんとしてお世話になったクロードには、何らかのお礼をしたいと思っていたこともあり、セレスは今夜の晩餐に招待しようと思いついた。
けれどその夜は扉をノックしても無反応で、物音ひとつ聞こえなかった。どうやら今夜は不在らしい。セレスは少しばかりがっかりしながら、クロードおすすめのキッシュを一人頬張ったのだった。
◇ ◇ ◇
翌日は昨日とは打って変わって、厚い雲が空一面を覆い、今にも雨が降り出しそうなじめじめとした嫌な天気で、それはまるでセレスの心そのものであった。
今日はドルレアン家に行く最後の日。カミーユとエミリに別れの挨拶をしたいのは山々だし、今日はグレゴリーが不在の曜日である。そうとわかっていても、グレゴリーの強い香水の匂いが染み付いたあの家に入るのが、どうしようもなく不快だった。
(挨拶は手短に済ませて、後日改めて手紙を送りましょう)
そう心に決めて家のチャイムをならしたのだが、出迎えたのは最悪なことにグレゴリーその人だった。昨日、別れ際に見せた憤怒の形相はもはやなく、代わりに媚びへつらった笑みを浮かべている。
「ははっ、昨日はすまなかったね。ちょっとわしも大人げなかったなと反省してな。セレスに謝りたくて仕事を抜けてきたんだ」
「そうなんですね。ですが……謝罪は受け入れますが、辞める意思は変わりませんよ」
「あぁ、残念だが仕方ないことだと思っている」
「それで……カミーユ様とエミリ様はどちらに?」
「……謝罪する姿を見せるわけにはいかないからな。今は応接室で待っている。今日までの給料も用意したんだ。さぁ入ってくれ」
妙な胸騒ぎを覚えるが、話している内容に不審な点は見当たらない。ここで引き返す理由が見つからなかったセレスは、グレゴリーに続いて応接室に入り、そしてすぐに自分の浅考を悔いることになった。ソファーに二人の姿などどこにも見当たらず、振り返ったグレゴリーは、これまでみたこともないような醜悪な顔をしていたからだ。グレゴリーはセレスの腕を強く掴むと、この小さな体のどこにそんな力を隠していたのだと思うほどの力でセレスを引っ張っていく。セレスも精一杯の力で抵抗するが、為すすべもなく、三人掛けのソファーにあっけなく押し倒されてしまった。
「はぁはぁ……やっと……やっと手に入れられる……大丈夫だ、いい子にしていたら痛くはしない」
「い、いやぁー-っ!! 離して!! やめてっ!!」
「はぁ……なんてかわいい声なんだろうな。はぁ……はぁ……心配しなくていい。そこらの男よりわしは上手いぞ。優しくセレスの身体を開いてやるからな」
セレスの叫び声さえも愉しむように、荒い息を吐きながら見下ろしてくるその目は、誰がどう見ても理性を失ったケダモノだ。バタバタと逃げようともがく足を押さえつけるようにグレゴリーは太ももに跨ると、そっと手はセレスの胸から脇腹を撫でた。
「ひいっ! 嫌だ、やめて! 触らないでっ!!」
「ぐふふ……なんてかわいらしい胸と細い腰だろうな……こりゃたまらんな……」
セレスの拒絶など気にする様子もなく、グレゴリーは恍惚とした表情を浮かべている。昨日は貧相な身体だと罵ったくせに、グレゴリーはその成長しきっていない発達途中の少女の身体に性的興奮を覚えるような男だった。鼻の下には小さな汗の粒がいくつも浮かんでいる。
「どれどれ、服の下はどうなっているのかな……はぁ……はぁ」
「嫌っ! もうやめてっ!!」
絶望に歪む表情さえも、グレゴリーにとっては興奮を高める材料になるだけだ。発情しきった獣のような荒い鼻息をたてながら、白のレースシャツの小さなボタンをひとつひとつ外していく。
「あぁ……胸のあたりは一段と真っ白な肌じゃないか……はぁはぁ……」
セレスはもう叫ばなかった。これから受ける辱めを思い、きつく目を閉じると涙が頬を伝った。グレゴリーは湿っぽい息を吐き出しながら、セレスの胸に顔を埋めようと近づいてくる。こんな男に凌辱されるくらいなら、いっそ舌をかみ切って死んでしまおう、そう決意したまさにその時、のしかかられていた重みが雪崩のようにセレスの上からなくなっていった。目の前で聞こえていた荒い息遣いは、今ではソファーの下から聞こえる呻き声に変わっている。
セレスがおそるおそる目を開けると、足元には陶器製の花瓶を手にしたカミーユが立っていた。
「先生! 早く逃げて!!」
いつも優し気に微笑んでいるカミーユの印象とはまるで違う厳しい表情。手は激しく震えているのに、その言葉ははっきりと力強い意志を感じさせる。けれどカミーユひとり残して立ち去ることなんてできない。ソファーの下では呻きながらも意識を残したグレゴリーがいるのだ。カミーユがこれからどんな酷い仕打ちを受けるかなんて想像に難くない。
「奥様! 奥様一人を残して逃げるなどできません!」
「だめよ、先生! すぐ逃げるの! これは私の贖罪でもあるの。お願いだから、先生。言うことを聞いて!」
「でも……」
「大丈夫。すぐに警備隊がやってきてくれるわ。だから早く!」
必死の形相で懇願するカミーユの想いを受け取ったセレスは、ひとつ頷くとソファーから飛び降り、扉近くに落としていたバッグを掴み取ると屋敷から飛び出した。はだけたシャツを鞄で隠しながら人通りの多い場所まで逃げると、建物の隙間に入り身なりを整える。そのまま息を落ち着かせていると、目の前の大通りをあのドルレアン家の年若い使用人と騎士たちが共に屋敷の方向へ向かって走っていくのが見えた。この時間なら、カミーユはまだ無事だろう。セレスはほっと息を吐きだすと、自宅へ向かって、とぼとぼと歩き出した。
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他作品に比べ圧倒的にポイントが伸びないので、何が足りないのか教えてほしいです。。




