九 シチューとパン
セレスは家に帰り着くなりシャワーを浴びて、グレゴリーに触られた右肩から手首までを念入りにゴシゴシと洗った。けれど、いくら洗ってもあの感触は残ったままだ。
(最悪の気分だわ……)
ベッドで足を抱え込みながら、これからのことを考える。カミーユの話や、今日の出来事から推し量ると、グレゴリーは所謂、ロリコンと呼ばれる歪んだ性癖を持つ男だろう。カミーユはいつもかわいらしい、言い方を変えれば少女趣味と思えるような服装をしているが、それは本人の意思ではなくグレゴリーの好みに合わせていると以前に言っていた。先ほどの使用人も、グレゴリーの性癖の範疇から年齢がはみ出してしまったが故に解雇が近いと言ったのではないだろうか。
(次のターゲットはわたしってことね……)
恐ろしい事実に気付いたセレスはぶるりと身体を震わせた。このまま家庭教師の仕事はやめた方がいいと思う反面、手を触られたくらいで今の環境を手放すのは惜しいようにも思えた。短い勤務時間のおかげでバイオリンの練習時間は長くとれるし、それでいて給金は高い。エミリはかわいいし、カミーユだってもう他人とは思えない。週に一日のこと。それも二人きりにならなければ大丈夫ではないだろうか。
(次に何かあったときには迷わず辞めればいいわ)
世間知らずのセレスは、それがどんなに危険な決断かわからなかった。両親に守られて育ってきた十六歳の女の子は、本当の悪人になんて会ったこともない。歪んだ性癖の男が暴発したとき、どんな行動をとるのかなんて想像すらできず、結果として安易な決断を下してしまった。
(……………………)
こんな日に一人で過ごす夜は、とてつもなく長く、そして寒い。食事をつくる気力も湧かず、ただただ時間が過ぎるのを待っていた。そんな時、トントンと扉をノックする音が聞こえた。
(こんな時間に誰かしら……?)
物音を立てないようにそっと扉に近づきドアスコープから外を覗くと、目の前に立っていたのは、いつも通りの長い前髪と黒縁眼鏡をかけたクロードだった。セレスはほっと息を吐くと、玄関横のハンガーラックにかけてあったカーディガンを羽織り、ゆっくりと扉を開けた。
「こんな時間にどうされたんですか?」
「シチューを作り過ぎてしまってね。もしよければお裾分けしようかと思って」
視線を下に向けると、確かにクロードの手にはミトンがはめられ、温かそうなココット鍋を抱えていた。
「もうご飯は食べた? まだなら一緒に食べよう。昨日貰ったパンにも合うよ」
「まだ食べてないですが……一緒に、ですか?」
「ダメかな? 冬の夜って一人だと心細くならない? あっ、もしかして俺のこと危ない男だと思ってる? 大丈夫、絶対に、絶対に、神に誓って俺は何もしない」
あまりに力強く否定するものだから、セレスは思わず笑ってしまう。思えば今日初めて笑ったかもしれない。
「ふふっ、何もそこまで言わなくても。クロードさんは親切なお隣さんだから何もしないってわかっています。ただわたしの部屋、まだ片づけが終わってなくて」
「親切なお隣さん……か……」
「……? どうかされましたか?」
「あ、いや、なんでもない。部屋なら俺の部屋を使えばいい。男の一人暮らしだから殺風景だけど」
「ではお言葉に甘えさせていただきますね」
普段のセレスなら男の自宅へ入るなんて断っていたに違いない。けれど今夜を一人で過ごすにはあまりに長く、それにこんな大人の男性でも心細くなる夜があるのだと思うと、妙なシンパシーを感じてもいた。なんといっても、クロードが女性に興味なんて一切持たなそうな、安心感のあるお隣さんであるというのが一番の理由かもしれない。
クロードの部屋はちょうどセレスの部屋を反転させたような間取りだった。暖炉のある部屋には小さなテーブルセットと二人掛けのソファーがあり、扉の向こうはおそらく寝室だろう。クロードは部屋に入ると持っていた鍋をもう一度火にかけ温めなおし、その間にパンを手際良く切って焼き始めた。
「どうぞ好きなように寛いで。すぐにできるから」
「あ、はい……」
初めて男性の家に入ったセレスは、どうすればいいかわからず、おずおずとソファーに腰を下ろした。手持無沙汰から部屋を観察してみるも、なるほど、本人が殺風景と言っていただけあって、部屋には必要最低限のものしかない。あっという間に観察が終わりどうしようかと悩んでいると、キッチンからシチュー皿を持ったクロードが出てきて、シンプルなオーク材のテーブルにことんと二つの皿を並べた。人の温もりに触れて安心したせいか、美味しそうな香りに忘れていた空腹感を思い出す。
「ありがとうございます。わたしにも何かお手伝いさせてください。あ、パンを持ってきますね」
「ははっ、セレスはゆっくりしておけばいいよ。今日は大変だっただろ? さぁ、この椅子に座って」
「えっ? あ、はい、すみません……ありがとうございます」
クロードの言葉に違和感を感じながらも、それを考える間もなく椅子を引かれてしまった。
「セレスはお酒飲める? 美味しいワインを貰ったんだけど」
「いえ、まだ飲んだことないんです……けどいただいてもいいですか?」
仕事が上手くいかなかった日、いつもよりたくさんのお酒を飲んでいた父親の姿を思い出す。きっとお酒には嫌なことを忘れさせてくれる力があるのだ。セレスは今日の出来事を早く忘れてしまいたかった。
「オッケー。けど、初めてならオレンジジュースで割るといいよ。飲みやすいし、悪酔いしないと思うよ」
「そうなんですね。ではそれでお願いします」
グラスを二つ置いたクロードは無駄のない動きでワインをサーブすると、セレスのグラスにはとくとくとジュースを入れた。
「じゃ、乾杯」
「乾杯…………ん-! 美味しいです!」
「ははっ、それは良かった。たくさんあるからゆっくり飲んで」
「はい! このシチューもすっごく美味しい。クロードさんってお料理が上手なんですね」
「いや、下手の横好きだよ」
クロードはそんな風に言って謙遜するが、セレスにはそんな風に思えなかった。少なくともセレスの手料理に比べたら格段に美味しい。暖かな部屋で、たわいもない会話を楽しみながら、誰かと食事をする。そんな当たり前のようでいて、当たり前じゃない幸せは、いつもよりも食事とお酒をすすませた……結果、セレスは見事に酔い潰れてしまったのである。
飲んだのはたったの二杯。それもオレンジジュース多め。それでも酒に不慣れで、疲れ果てていたセレスにとっては効果てきめんだった。
実家のようなふかふかの布団。甘く優しいリネンの香り。セレスは一度目を覚ましたが、あまりの気持ち良さにもう一度体を布団の中に潜り込ませた。なんだかとても良い夢を見ていた気がする。もぞもぞといいポジションを探しているうちに、セレスはようやく違和感に気付いた。
(……ここはどこ!? って、大変! クロードさんとごはんを一緒に食べてそれから……)
それからの記憶がない。なんてことをしてしまったのだと、慌ててベッドから起き出たところで、この部屋に他の人の気配は感じられないことに気付いた。
(クロードさんはどこかしら?)
サイドテーブルの小さなランプだけを頼りに、リビングにつながる扉を開くと、クロードは二人掛けのソファーで本を読んでいた。
「あぁ、起きたんだね。よく眠れた? あまりに気持ちよさそうに眠っていたから起こすのはかわいそうだなって思って」
「すみませんっ! 恥ずかしい姿をお見せしてしまいました!」
「くくっ、気にしないで。かわいらしい寝顔が見られたし役得だったよ。あっ、でもセレスは外では飲まない方がいいね。俺みたいに手を出さない男ばかりじゃないからさ」
「はい……」
「朝までまだ時間があるしもうひと眠りしなよ。俺のベッドもう一度使っていいよ」
「いえっ、ちゃんと自分の家に戻ります! 本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした!」
心底申し訳ない気持ちでいっぱいだったセレスは深々と頭を下げると、くつくつと喉を鳴らす笑いと「本当にいいのに」という声が頭の上から聞こえてくる。
「じゃあまたねセレス。明日は休みだよね? ゆっくり休んで」
「はい、お邪魔しました。クロードさんもゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」
部屋に戻ったセレスはベッドに身体を投げ出し、枕に顔を埋めながら声にならない声をあげていた。厳しい淑女教育を受けてきたセレスにとって、今日の失態は到底許されるものではない。いくら異性として意識していないとはいえ、気を許しすぎた。クロードが神に誓った通り、酔いつぶれた女に手を出さない誠実な男だったから無事でいられたようなものだ。
(それにしてもクロードさんって本当にいい人ね……というより、わたしに女性としての魅力が足りないだけかもね)
ごろりと横になったセレスは自分の胸元に目を遣った。そこにあるのは慎ましすぎるほどささやかな膨らみ。仰向けになろうものなら、その存在感は見事に消え失せてしまう儚さだ。
(お母様はそんなに小さい印象はないんだけど……わたしもこれから成長するのかしら)
まだ十六歳。セレスはこれからの成長に微かな期待を持っていた。まさかそれから数年過ぎてもさほど成長しないとは露にも思っていなかった。




