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【プロローグ】わたしのパトロンになってください

新作です。よろしくお願いします。

 ここは港町ワーリング。フィンロイナ王国の中で最も交易が盛んで、国内外から物だけでなく人も集まる活気ある都市には数多くのホテルが乱立している。その中でも一、二を争うほどの高級五つ星ホテル「ホテル・デトワール」は、海岸通りにある美しいサンセットと新鮮なシーフード料理が自慢の、由緒正しいホテルである。

 サンセットの時間はとうに過ぎ、波が防波堤に当たる音だけが響くような時間。セレスはルームサービスで依頼のあった軽食とウイスキーを最上階へ運ぶ仕事を初めて任されていた。最上階の廊下には深紅の絨毯が敷き詰められ、等間隔にぶら下がるシャンデリアは最新の電球式で、精緻な加工が施されたクリスタルガラスの煌めきはまるでジュエリーのようだ。

 だが、今のセレスにはそんなものを見る余裕など一切ない。銀盆を持つ手は震え、アイスペールに入った氷はカタカタと小刻みに音を立てている。それは決して最上階の豪華さに怖気づいたからではない。今夜セレスは一世一代の大勝負に打って出るのだ。


「だ……大丈夫……やってみせるわ」


 声は震えているが覚悟はできている。怖いだなんて言っていられない。この機会を逃せば次の機会なんていつになるのかわからない。最上階のサービス担当はいつも争奪戦だ。上品な客が多くて楽だ、と言う人もいれば、今日こそお金持ちに見初められるんだ、と息巻く人もいる。

 まだまだ下っ端のセレスにとって今日はラッキーだった。今、港には隣国からの最新鋭大型クルーズ船が停泊している。今夜は大きなパーティーを開催するということで、数件の高級ホテルには給仕係の助っ人が依頼され、先輩スタッフがこぞって手を挙げてくれたのだ。そんな夜にセレスお目当ての男性が当日予約で宿泊するなんて、神様がお膳立てしてくれたとしか思えない。

 部屋の前に立ったセレスは大きく一つ深呼吸をした。そして未だ震えが止まらない手で小さく二回ノックする。


「あぁ、入ってくれ」

「失礼いたします……っ!!」


 初めて入る最上階のスイートルーム。「ホテル・デトワール―星屑―」という名前は、この港湾都市ワーリングの中で最も高い建築物ということで命名された。

 誰よりも星空に近いホテル。その中でも最上階のスイートルームは星空をイメージしたインテリアになっており、夜空色の絨毯は重厚さを、シルバーグレーのソファーは星明かりのような静謐さを醸し出している。

 だが、セレスの前に広がる光景は静謐さとは真逆の淫靡な雰囲気に満ちていた。それもそのはず、セレスの目当ての男性、クロードはあろうことか無防備なバスローブ姿で悠然と寛いでいたからだ。眉目秀麗な成人男性の際どい姿を目の当たりにし、セレスは驚きのあまり震えも止まってしまうほどだった。


(えっ? えっ? ちょっと待って、刺激が強すぎる。身体は見ちゃだめ、顔だけ見るのよ!)

 

 そんなセレスの頭の中の混乱など知る由もないクロードは、ソファーで足を組みながら熱心に書類を見ている。

 手櫛で無造作に後ろに流された艶やかな黒髪はしっとりと濡れ、少しはだけたバスローブからはうっすらと筋肉のついた胸元が垣間見えてしまっている。顔だけを見なければ、といくら頭では理解していても、その均整の取れた身体つきや書類をめくる筋張った指からセレスは目を逸らせない。香り立つ色香に酔ってしまいそうだ。

 だが、今からセレスが成し遂げようとしていることを思えば、こんなことで狼狽えている場合ではない。


「ん? 今夜はセレスが持ってきてくれたのか。珍しいな」

「は、はい! 先輩方はクルーズ船で開かれているパーティーの給仕に行っております」

「あぁ、そうか。俺もさっきまでクルーズ船にいたんだ。初寄港の歓迎セレモニーがあってね」

「そうだったんですね。突然のご予約だったので驚きました」

「急遽参加することが決まってな。セレモニーなんて面倒なだけだったがセレスに会えたから来て良かったな。……あぁ、いつまでも重たいものを持たせてすまない。ここに置いてくれ」


 テーブルに置いてあった資料を手早く片付けたクロードは、その空いたスペースを指差した。セレスが上品な仕草で丁寧にテーブルセッティングをする様子を、クロードは目を優しげに細めて見つめている。


「手が……少し荒れているな」

「も、申し訳ありません。お見苦しいものをお見せしてしまいました」

「あーいや、すまん。見苦しいだなんて思ってない。ただセレスの仕事的に良くないんじゃないかと思っただけだ」

「わたしも気になって手入れはしているんですが、なかなか……」


 セレスは元々このホテル・デトワールでバイオリニストとして雇われていた。日によってラウンジやレストラン、バーで演奏するのだが、それだけではお金が足りず、シフトが入っていない時間帯はホテルスタッフとして働かせてもらっているのだ。


「水仕事もやらされているのか?」

「……それも仕事ですから我儘は言えません」

「……そうか。では今度手荒れによく効くクリームを持ってこよう」

「いえ! クロードさんにはいつもお世話になっているのでこれ以上は……」

「つれないことを言うな。俺の責任もある」


 セレスは以前、海岸通りから三ブロック先の繁華街にあるナイトクラブで演奏していたのだが、ちょっとしたトラブルに巻き込まれた。そのときに助けてくれたのがクロードで、ナイトクラブで働けなくなったセレスにこのホテルを紹介してくれたのだ。

 水仕事も仕事の内なのは確かにそうなのだが、実際はセレスが任されている仕事ではない。ホテルのオーナーは、セレスの本業であるバイオリニストの仕事に影響が出る業務はさせないよう通達してくれてはいるが、態々現場を確認することはない。そのせいでエコ贔屓だと言ってよく思わない先輩からはキツイ仕事を回されがちだった。

 それに加え、眉目秀麗のクロードと仲が良いのも気に入らないのだろう。何かにつけてセレスにケチをつけてはネチネチと説教をしてくるのだ。だがそれをクロードに言ったところで困らせるだけとわかっているセレスが何か言うことはない。それに人間関係は色々あるが助けてくれる友人だっている。


「そうだ。この前ボーセルの新譜が欲しいって言ってたよな? ちょうど手に入ったんだ、取ってくるから待っていてくれ」

「えっ?」


 横に続く寝室に楽譜を取りに行ったクロードの後ろ姿を見つめるセレスは、ようやく収まったはずの震えが再発していた。勝負をかけるならこのタイミングしかない。

 ハンドクリームも新譜ももちろん嬉しい。感謝してもしきれないほどクロードには恩義を感じている。けれど……セレスが今最も必要としているのはお金だ。そしてセレスが差し出せるものなんて一つしかない。

 セレスは震える手でホワイトブリムを外し、白いロングエプロンを脱ぐと、そっとソファーの背もたれに置いた。震える手で細い紺色のリボンを解くと、海色のロングワンピースのボタンに手をかける。前身頃にはたくさんの小さなボタンが付いていて、震える手では上手く穴に通せない。


(もう! どうせエプロンで隠せるんだから全部生真面目にボタンなんかするんじゃなかった!)


 そんな後悔と焦りの中、なんとか腰までのボタンを外したセレスはまどろこしそうに一気に脱ぎ去った。身に纏うのは細い肩紐に胸元には控えめなレースとリボンがあしらわれたスリップ一枚だけ。覆うものがなくなり肌は外気に晒されているのに、興奮のせいなのか緊張のせいなのか、暑いも寒いもわからない。ただ、ドクドクと流れる血流の音がやけにうるさいとだけ感じていた。

 ふと顔を上げると、海に面したプライベートバルコニーに続くガラス戸には情けない顔をした自分が映っている。

 ミルクジャム色の髪に薄い空色の瞳は、慎ましい色合いだと褒められることもあるが、男性を魅了するような華やかさはない。幽鬼なような真っ白な肌に、あまりにも控えめな二つの膨らみ。少女の頃は、大人になれば成長すると期待も持てたが、セレスはもうすぐ十九歳だ。これ以上の大きさは望めないことはわかっている。

 これまでは誰にも見せる機会がなかったせいか、残念だな、程度にしか思っていなかった。けれど今、この身体を使ってあの百戦錬磨の男性を籠絡しなければならないと思うと、自分の持つ武器のあまりの貧弱さに泣きたくなる。


(だ、大丈夫よ。胸の価値は大きさだけじゃないってロザンナが言っていたじゃない。形や感度? も大切だって)


 必死に自分を鼓舞するほど惨めになる。だがこの必死の励ましさえ、いつものクロードを思い浮かべれば意味がないものとも思えてしまう。見目麗しいクロードのまわりには、いつも艶かしい美女が侍っていた。美女たちはセレスの持たない武器を惜しみなく使い、クロードの目を楽しませる。


(大きい胸には飽きているかもしれないし? 物珍しさから求められる可能性だってないとは言えないわ。それに、酒場の男たちは満足できない見た目でも後ろからなら問題ないって言ってたし……)


 励ませば励ますほど情けなくなるが、今はどうあってもクロードのいる寝室へ向かう勇気が必要だった。この賭けには絶対に勝たなければならない。バイオリニストとしての将来がかかっているのだ。セレスは子鹿のように震える足で一歩、また一歩と歩き出した。

 開け放たれた寝室の扉から見えるのは、実家に置いてあったような大人三人でも余裕で寝転げそうな大きな寝台。そしてその寝台の奥に、カバンの中を探っているクロードがいた。


「あぁ、あったあった……っ!?!? ゲホッゲホッ……!!」


 ボーセルの新譜を見つけたクロードは扉に向かって振り返るなり、大きく咽せた。いつも冷静沈着なクロードには珍しく、激しく狼狽え、冬空のような銀灰色の瞳は驚きのあまり大きく見開かれている。


「セレス……これは一体何の真似だ」


 ぞくりとするほど冷たい声で問いかけられ、今すぐここから逃げ出したい気持ちになるが、セレスはか細い足に力を込めどうにか踏ん張る。

 人と比べ引っ込み思案なところがあるセレスは、これまで運を味方につけることができず辛酸を嘗めることが多々あった。チャンスは自分から掴みにいくものだ、とロザンナには何度も言われてきたが、今やっと目の前に千載一遇のチャンスが巡ってきたのだ。逃げるわけにはいかない。震える声で、たがはっきりとした口調でセレスは言い放った。


「クロードさん……わ、わたしのパトロンになってください!」


 ギュッと目を瞑り、祈るような気持ちでクロードの言葉を待つ。だが、ありったけの勇気を振り絞って紡ぎだした言葉は、この静寂に包まれた寝室の中で消えてなくなったかのように、クロードからは何の反応も返ってこなかった。

 そろそろと目を開けると、クロードの細められた銀灰色の瞳にはありありと嫌悪感が浮かんでいた。

 

「……セレスはパトロン契約の見返りに何をするのか知っているのか?」


 もちろん知っている。具体的に何をどうするかまでは知らないが、閨を共にする代わりに金銭的な援助を受けるのだ。音楽家を目指すにはいちいちお金がかかる。楽器のメンテナンス代や楽譜代、レッスン代、コンクールの参加費に衣装代に交通費、あげだしたらキリがない。

 裕福な家の子女なら大したことない金額だろうが、そうでない家の子女なら性別関係なく皆やっていること。セレスは十六歳からずっと一人で生きてきた。自分一人の稼ぎで生きてきたのだ。元々受けていた教育のせいか、貞操観念が人よりも強い。それでもどうにも立ち行かなくなってパトロン契約を持ち掛けたのだ。


「わかっています。だからこの姿でここに立っています」

「……そうか」


 眉間の皺を深くしたクロードは、ズンズンと大股でセレスへ向かって歩き出すと、手を伸ばせば届くような距離で立ち止まった。

 ふわりと清潔感のある石鹸の香りがセレスを包みこみ、セレスは場違いにもいい匂いだな、と思った。だがその瞬間、クロードは胸の前で重ねていた両手を強引に掴むと身を反転させ、バサリと寝台にセレスを押し倒した。

 掴まれた両手はそのまま頭の上でシーツに縫い止められ、クロードに馬乗りになられてしまえば、細身のセレスは身動きひとつ取れない。そもそも抵抗する気などさらさらないのであるが。

 クロードの冷たい冬空の瞳がまっすぐにセレスの瞳を捉える。


「こんなに震えているが、覚悟はできているんだな?」

「……はい。どうかわたしを抱いてください」

「それで? 俺はどれだけセレスの身体に金を払えばいい?」

「に、ニ十万リルを……」


 まとめられた両手にツッと痛みが走る。クロードの瞳には確かに怒りの感情が浮かんでいる。その突き刺すような瞳が、セレスの顔から胸へ、そして腰あたりまで下がると、クロードは小さなため息をついた。


「はぁ……俺は今のセレスを抱く気にはならん。早く服を着るんだ」

「えっ…………」


 はっきりと無感情にそう告げたクロードは、両手を掴んでいた手を放し立ち上がると、早々に寝室から出て行こうとする。


(この貧相な身体がいけないんだわ。この身体にニ十万リルを払う価値なんてないということね……わたしがもっと魅力的だったなら……)


 空色の瞳には今にも溢れそうな涙でいっぱいだ。けれど、こんな子どものような体つきで子どものように泣いていては、さらにクロードは興醒めしてしまうだろうと必死に零れ落ちそうになる涙を耐える。


(身体が貧相なことは、わかっていたことじゃない。今さら傷付いちゃだめ。これくらいで諦めてはだめ)


 ここで抱かれなければバイオリニストとしての将来が断たれてしまう。やっと何かを掴みかけてきたところなのだ。セレスは次のコンクールに賭けていた。

 感傷に浸るのは今じゃない、とプライドをかなぐり捨てて必死に言い募る。


「待ってください! わたしの貧相な身体がお好みでないのでしたら、後ろからやってくださっても構いません。どうかお願いします! わたしのパトロンになってください!」

「……っ!! セレス、君は自分が何を言っているのかわかっているのか? もしやいつもこんなことをしていたのか!?」


 クロードの眉間の皺がこれでもかと深くなる。鋭い視線は嫌悪感だろうか、それとも軽蔑だろうか。憎しみ、失望、困惑、悲しみ、苛立ち、その全てを含んだような瞳だ。


「ち、違います! こんなことをお願いするのはクロードさんが初めてです。どうか信じてください……」


 お金があれば誰でも良かったわけじゃない。他でもないクロードだからこそお願いしたのだ。困ったときにはいつも側で支えてくれていたクロードをセレスは誰よりも信頼していた。いつか好きでもない男と結婚させられるのならば、せめて純潔を捧げる相手は誰よりも信頼しているクロードがいいと思っていた。


「そう……か……」


 そう呟いたクロードの瞳は僅かだが和らいだようにも見える。つい先ほどまで狼狽していたことが嘘のように、今ではすっかり冷静さを取り戻していた。


「バトロンに俺を選んだのはなぜだ? 金払いが良さそうだからか? それとも見た目か?」

「金銭を援助してもらう以上、お金に余裕のある男性であることは絶対条件です……ですが……何よりもクロードさんを信頼しているからに他なりません」

「……信頼、か……」


 ふっとクロードは小さな笑みをこぼす。その瞬間、部屋の中を張り詰めていた空気が一変に緩んだ。セレスの発言に満足する何かがあったようだが、それがどの部分なのかセレスにはさっぱりわからなかった。


「いいだろう。セレスのパトロンになってやる。だが対価はセレスの身体じゃない。俺が求める時にセレスのバイオリンを聴かせれくれ」

「えっ……!? 対価はバイオリンの演奏だけですか?」

「あぁ。今はそれだけでいい。月々の手当は……どれくらいが相場なんだ? 五十万リルくらいか?」

「い、いえ! そんなにいただくわけにはいきません。次のコンクールに出場するための二十万リルさえいただければ」

「いや、五十万リルにしよう。セレス、君の演奏にはそれだけの価値がある。セレスに足りないのは自信だ」


 そう言うなりクロードは寝室から颯爽と出て行ってしまった。セレスは思いがけない展開に、その後ろ姿を呆然と見つめていた。

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