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千知岩さんを静かにする方法一選

作者: 城井 映

「第4回百合文芸小説コンテスト」応募作品です(落選)。

https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=16974256


これを書いた数ヶ月後に、お嬢様界の黒船がやってくるとは思いませんでした。


   一

 

 裏門に桜は咲いていなかった。

 四月というのに寒々としたアスファルトの細い歩道、申し訳程度の自然要素を演出する植え込みに、殺風景な駐車場、以上。受験を乗り越え、昨日、ようやく志望高へ入学を果たしたわたしを迎えたのはそういう景色だった。

 寂しい。わたしは、校舎へと続く細い道の傍ら、ぽてんと置かれたベンチに腰掛け、誰のためというわけでもなく、ただ自分のためだけにその座面を温めている。

 その辺に突っ立っている時計に目をやると、始業まで二十分もあった。

 今日は登校二日目。本来なら急いで教室へ向かって、友達作りに勤しむべきだと理解していた。でも、身体がどうにも動かない。夏休み残り三日、手つかずの宿題を前に呆然としているのと同じような気持ちだ。

 開き直りの精神でぶっちゃけてしまうと、わたしは新生活・新環境にビビっていた。

 人見知りから来る不安が暴走していた。

 友達作り? ムリムリムリムリ……知らない子だらけの教室、始業までの時間をどう過ごせばいいか、わからなかった。昨日は入学式だったけど、勇気を出すとかいう以前の問題で、誰とも一言も喋らずに帰った。

 そして、今朝はといえば、「誰?」という想いの滲んだ曖昧な笑みを向けられるのを恐れて、こうして誰も通らない裏門でベンチを温めて始業までの時間を潰している。

 それにしても、どうして裏門がこんなにガラガラなのかというと、表門が便利すぎるからだ。最寄り駅は電車から降りてから徒歩一分、なんなら表門まで歩道橋で直通。バス停も駐輪場も表門の側にある。コンビニもカフェもパン屋もスーパーも薬局も百均もイタリアンも携帯ショップも家具屋も、全部表門にある。裏門にあるのは田んぼだけ。たまに来るのは車通勤の教師たち。生徒にしてみれば、この時間に裏門を通る意味があまりにもない。

 わたしは校舎を挟んで向かい側の門の盛況を想像してみる。さっそくできた友達に声をかけるクラスメイト、「部活どれに入る?」と楽しそうに話したりする。

 そんなありふれた光景を、わたし自身に置き換えてみる。クラスメイトに声をかけるわたし……いや、ムリだ、ムリムリ。わたしはその子に気づかなかったフリをする。ひとりで教室に行く。自分の席について、机に突っ伏す。心の中で泣けてくる。

 なんて、暗いイメージトレーニングをしていたら、車のエンジンの音が聞こえてきた。また教師だろうなと思って目を向けると、その黒いセダンは駐車場に入らず、裏門の前で停車した。

 そして、堂々と開け放たれた後部座席のドアから、ひとりの女子生徒が姿を現した。

 わたしは、その姿を一目見て、お嬢様だ、と思った。

 車から出る流麗な所作、春先の風に吹かれた長い黒髪は優雅に揺れ、それを咄嗟に抑えるたおやかな手。長い睫毛に縁取られた瞳には、引き込まれるようなオーラが宿り、目が離せない。というか、鼻立ちが良すぎる。堂々としてるから? 服装も、同じ制服を着ているとは思えないほどお上品に見える。

 お嬢様だ、と思った次に心に浮かんだのは「差」だった。

 きっとあの子は秒でクラスに溶け込んで、グループの中心人物になって、いろんな行事にも積極的に首を突っ込んで、充実した高校生活を過ごすんだろう。それに比べてわたしは……いや、やめないと。

「あら、桜の花がないじゃない」

 お嬢様が突然に言った。話しかけられたのかと、わたしはビクッとする。

「植えてあるのは表門だけみたいだな」

 応えたのは、一緒にセダンから降りてきた男の人だった。やたらめったら高そうなスーツが、やたらめったら似合うダンディな方。わたしはホッとすると同時に、無意味に恥ずかしさを覚える。

 男の人の応答が不満だったのか、お嬢様は露骨に肩を落とした。

「もう、どうして? (わたくし)の日本でのせっかくの門出だから、ソメイヨシノのトンネルの下、ぱーっと凱旋するつもりでしたのに! そのために日本の学業は四月始まりになっているのではないの? こんなのスケジュールの不備で帰国が遅れて入学が一日遅れてしまったので、先に事務局へ手続きを済ませるために来ましたと言わんばかりではありませんか、お父様!」

「その通りだから」

「もーっ! こんなことなら、ずっと前からこの学校の裏門にもごっそり桜を生やすように手を回してもらえばよかった。まあ、ここへの入学を決めたのは数ヶ月前だから、あっても苗木だったでしょうけど……それはそれで目を和ませるくらいにはなったはず。それがどうして、こんないかにも街路樹みたいな植え込みしかないのでしょう。なんだか悲しくなってきちゃった。ああ、私の新生活、悲しみから始まりました! 人気(ひとけ)も花もない殺風景な裏門からこそこそ、まるで夫が単身赴任中の奥様のお宅へひっそり通う下男みたいじゃない! 正式な手続きを経て入学したはずなのに、こんな仕打ち、あまりにもかわいさう、私、かわいさうではありませんか!」

 わたしは既にしてげんなり気味だった。このお嬢様、喋る喋る。それも長い台詞を、もりもりと。

 長年、一緒の時を過ごしておられるはずのお父様も、呆れているようだった。

「かわいさうとか、宮沢賢治みたいに言うな。あと台詞の長さをどうにかするんだ……スケジュールの遅れも、その長台詞のせいで飛行機を一本見送ったせいだからな」

「一緒の時を過ごしたご学友とのお別れを手短に済ませるなんて、私には無理な相談だったというだけのこと」

 お嬢様は謎に気高く言う。お父様は焦れるように腕時計を見た。

「悪いけど、俺も仕事が押してるんだよ。後のことはひとりでできるな?」

 すると、お嬢様は形のよい目を見開いて、ぐっとお父様の腕を掴む。

「そんな! こんな未開の地で、私ひとりがどうこうできるとでも? 今までの親族ぐるみのぬくぬく温室な学校環境とは違うからくれぐれも気を引き締めておけって、懇々と話してくれたのはお父様じゃないですか! お父様が同伴して下さるというから、こうして絶えざる不安とノー・ソメイヨシノに甘んじているというのに、なんて薄情な! この末っ子風情をサバンナの如き、日本の学校環境に突き出してご自分は仕事にかまけるだなんて、どうかしてますっ。獅子みたいです! あ、獅子って言うとかっこよくなっちゃう。えっと、獣です! 私がチーターの群れにギタギタにされて、どうなっちゃっても知りませんからね!」

 迫真の長台詞をすらすら言って、お父様を引き留めるお嬢様。わたしはお父様の時間を心配に思いながら、なんと返すのかに密かに期待を募らせる。

 お父様はセダンのドアに手をかけると、手を小さく掲げた。

「ごめん」

 すげー短い一言だった。ビジネスマンの朝は忙しいのだ。

「お父様ぁ!」

 お嬢様は悲痛な声をあげるも、お父様はセダンにさっと乗り込み、さっさと行ってしまった。

 一連の流れを見ていると、お父様の対応が自然なように思えてしまったけど、ぽつんとひとり残されるお嬢様の姿を見ていると、少しかわいそうな気がしてきた。たぶん、親の仕事の都合で日本に戻ってきた帰国子女で、(自業自得らしいけど)入学式にも出席できず桜にも恵まれず、初めての環境にほっぽり出されている。

 ……だからといって、声をかけるなんて考えもしないけど。「差」なんて感じてごめん、とわたしは心の中で思うに留めた──。

「そこのあなた!」

「ひゃ、ひゃい!」

 留めたかったのに、矢のように鋭い一言をぶちこまれて、わたしは飛び上がった。咄嗟に飛び出た「ひゃい」という返事を恥じ入る隙すらなかった。

 お嬢様はスタスタと歩み寄ると、わたしの隣にすとんと座って小さくお辞儀をする。

「ごきげんよう、(わたくし)千知岩水(ちぢいわすい)と申します」

「え、えっと、はは、どうも……」

 わたしは、にへらと笑ってみせるも、頭は真っ白だった。千知岩さんと名乗った彼女のスマートな面立ちと、麗らかな声にたじたじする以外にどうしようもない。

「あなたのお名前を聞かせてもらっても?」

 千知岩さんは言う。わたしは萎縮した。

「わ、わたし……は、舟田流海(ふなたるみ)です。あっ、フネは高瀬舟の『舟』で……」

「あなたの名字がどういう漢字を書くのか、それは今のところ、さしあたってはどうでもいい些末なこと」

 流石、帰国子女なのか、はっきりとわたしの要らん気遣いをぶった切ると、「ごめんなさい」と謝る暇も与えずに千知岩さんはまくしたてる。

「私はね、ワケあって入学が一日遅れてしまったのだけれどもね、私の周囲の全ての人間が慌ただしく過ごしていてね、これも全て昨今の半導体不足、それから気候変動に伴ってなんやかんやで起こった物価上昇のせいなのだけど、そういう慌ただしさにかこつけるかたちで、私も十五歳ということで、もういい加減、自分で自分のお世話くらいできるわよね? ってことで、ほとんど暮らしたことのない日本に、お付きもなしに放り出されちゃったの。ひどい話だと思わない? 千知岩の運営する日本人学校にいたし、日本のメディアには接してきたからこの通り、日本語はいくらでもなんぼでも話せるけれども、そういうことではないじゃない? 特にこの年頃の子はデリケートだって主観的にも客観的にもわかっているのだから、もっと手厚いケアをしてくれてもいいはずなのに、お父様ったら、半導体不足にかこつけて……いいえ、これは愚痴になってしまうからよくて、脇に置いておいて、ともかく私があなたに言いたいのはそういうことじゃない、つまり、たぶん、きっと、おそらく、あなた、一年生でしょ? もしよかったで良いんだけれど、私の学校生活を送る上での付き人として、付き従うつもりはない?」

 わたしの意識は半導体不足あたりで飛んで、「つもりはない?」という質問で戻ってきた。

「えっと、な、なんのつもり……?」

「あ、マルチとか情報商材とか、そういうのじゃないから安心して……といっても、信頼を示せるような何かがあるというわけじゃないんだけれど、あ、そうだ! これ、お父様の名刺なのだけど、これで信用の足しになる? それとも仕えるにはまだ不足?」

 わたしに疑われていると勘違いした千知岩さんは、鞄からリッチそうなお財布を取り出して、お父様の名刺を渡してくれる。そこには、あんまりTVを見ないのにCMでよく見るような企業の名前と、「取締役」とかいうあんまりよく知らないけどすごい偉そうな肩書きが書いてあった。手が震えてきた。

「なななな、なんで、わたし……? こ、こんなに前髪長いのに……」

 わたしは思わずその名刺を差し返しながら言う。千知岩さんはそれを無視して、なんでもないように答えた。

「初めて会った生徒の方なので、とりあえず打診してみたのだけど」

「あ、そ、そっか……」

 わたしはなぜか落胆し、そして落胆した自分を恥じた。

 とりあえず、か。まあ、それはそうだ。わたしは特別でもなんでもない一般人で、千知岩さんのような人が声をかける理由なんて、偶然以外にあり得ない。なのに、わたしは自分が千知岩さんにとって特別なのかと勘違いして──。

「舟田流海さん!」

「は、はいっ」

 いきなり、千知岩さんはぐいっと顔を近づけてきて、言った。

「あなたは日本に来て初めて会った、同年代の方だもの。これを一期一会にするなんてもったいない。前髪が長くても、制服に着られてる感じがあっても、最初に出会ったってことを私は大切にしたくて」

「ち、千知岩さん……」

 切れ味のよいまっすぐな言葉に、わたしは思わずたじろいでしまう。なんてまっすぐな人なんだろう。台詞は長いし、一言余計だけど。

 それから、遅れてやってきた自己嫌悪に少しだけ落ち込む。千知岩さんがわたしを特別に思ってくれてるのに、わたしはわたしのことばかり考えていた。千知岩さんはお嬢様で、自然状態でも特別な存在だけど、それ以前にわたしにとっても初めて会話した特別な子だ。

 正直、千知岩さんのことは何も知らない。だからこそ、踏み込むのは怖かった。嫌われちゃうかも知れない。嫌われすぎて、感情を失くすくらいエグい嫌がらせを受けるかも。でも──その不安は千知岩さんにとっても同じことだったはず。

 それなら、わたしも頑張らないと……!

 と、人生で一度の高校生活のために、奮起したわたしが何かを言う前に、千知岩さんは両手を合わせて懇願した。

「だから、付き人として付き従ってほしいの! お願い……!」

「……さっきから気になってたけど、なんで仕えさせようとするの」

「え? だ、だって、私は千知岩家の娘だし、あなたは市井の人っぽいし、立場が違えば日本ではそうなるものなんじゃないの?」

「ド偏見だ」

 なんだろう、さっきエモめに考えたことはなかったことにした方がいいのかな。

「偏見じゃない! 私の知っているマンガでは、たいがいのお嬢様は、同年代の付き人の子を同じ学校に入れて、一日中付き従わせてるの見たもの! 私もあれがやりたかったのに、お父様ったら半導体不足半導体不足で、まったく取り合ってくれなかったの! どれもこれも全部半導体のせい、シリコンウエハーなんて大嫌い! だから、お願い、舟田! 付き人になって、お願いお願いお願い!」

 猛烈な勢いで千知岩さんはお願いしてくる。了解する前からすでに名字呼び捨てでロールに染まってるし、たぶんそれはシリコンウエハーのせいじゃないし、そもそもウエハーって何? お菓子?

 あー、もう、余計なこと喋らなきゃ、好感度良い感じで話を進められたのに。

 まあ、そもそも、話しかけられた時点で、どんなに理不尽なことでも了承せざるを得ない運命だったのだ。もともと、わたしは断ることが不可能なたちの人間なんだから。わたしは賽も匙も投げた。

「そこまでいうなら別にいいけど……、わ、わたしでよければ……」

 すると、千知岩さんは諸手を挙げて喜んだ。

「やったー、そんなの、良いに決まってるでしょ! それじゃあ、さっそく面接を始めます。まず、私の付き人に志望した動機は?」

「え? 採用フローがあるの……」

「トーゼンでしょ。私の付き人なんだから、能力も気立ても自信もオーラもない人に後ろからついてこられたら、私の株価は大暴落、明後日にはネットニュースで一万リツイートになってしまうでしょ」

「株価暴落が明後日にニュースになっても遅すぎるのでは……いや、そうではなくて」

「学生時代に力を入れたことは?」

「未来のことなのでわかりませんが……」

「千知岩グループを知っている?」

「えっと、半導体を扱っている……」

「半導体部門の規模は全体の一%未満だけど、まー、部分的に正解なのでよし」

「そんな小さな部門にお父様振り回されすぎでは? ていうか、他が巨大すぎでは?」

「本日はありがとうございました。結果は一週間以内にメールにてお知らせします~」

「ついに志望動機を聞かなかったな」

「舟田様、このたびはご応募ありがとうございました。ぜひ千知岩水の付き人として務めて頂きたいと存じます、うんぬん」

「結果が二秒後に口頭で知らされた」

 ベルトコンベアで運ばれるように無駄な面接を経て、千知岩さんは楽しそうにベンチを立った。

「うふふ、さあ、事務局に行きましょう。私、ロケーションがわからないから、舟田、先導しなさい」

 確かにそうだと思いながら、わたしも腰を上げる。

「一緒に行くのはいいけど……わたしが始業に間に合わなくなる……」

「大丈夫、私の案内をしていたというのであれば、厚生労働省以外の何者にも文句は言わせないから」

「厚生省には言われてるの……」

「言われたとしてもグループ経由だから安心して。きっちり握りつぶしてくれるから」

「別の問題でニュースに載りそう」

 冗談なのか本気なのか、絶妙にわからない上にどうでもいいことを次々口にしながら、千知岩さんはドンドン歩いて行く。先導しろ、と言ったばかりなのに。彼女にはドキドキとワクワクがあるばかりで、わたしのような不安はないんだろう。まあ、わたしも中学でヘマをしなければ、彼女みたいにキラキラな存在になれたのかも知れないけど──。

 とか、思っていたら、はたと気がついた。

「というか、わたしも事務局の場所、知らない」

「な、なんですってー! それでは私、籍が得られないじゃない!」

「いやもう用意されてると思う……」

 あとで、「(セキ)」を「(セキ)」と勘違いしていたのに気づいて恥ずかしくなった。どっちにしても、あの返答で正しかったはずで、こういう無駄なところにうずくまるのはやめたい。


 結局、事務局の場所は先生に聞いて、千知岩さんが生徒手帳とか受け取ってるのを見ていたら、始業のチャイムが鳴った。わたしと千知岩さんは同じクラスだった。ただの偶然のはずだけど、あまりにも千知岩さんが当然のように振る舞うので、わたしは少し怖くなった(本当にただの偶然)。

 クラスの自己紹介は昨日済ませていたので、千知岩さんは転校生みたいな感じで、ホームルームの教壇の横に立って紹介することになった。

 なぜか、わたしを隣に突っ立たせた状態で。

 あの、わたし、いる?

「みなさま、ごきげんよう、千知岩水と申します。ぜひとも見知りおきを。えっと、自己紹介、ですか? これといって趣味や特技はありませんが、強いて言えばウィンタースポーツをたしなみます。読書はドストエフスキーと、それからジュール・ヴェルヌなどを……あっ、最近はVRで潜水艦操縦の訓練シミュレートなどがマイブームで、知ってますか、あれって実機もゲームコントローラーで動かせるんです。あんな巨大なものが指先一つの操作で従順に動くと思うと、なんだか愛おしく思えてきて、ヴァーチャルなものではありますが、つい大西洋を何往復もしてしまって、もちろん実尺ではないのでそういう表現というだけなんですけれども、まるきり『海底二万(マイル)』ですよね。といっても読んだのは大分幼い時分のことで、その時は興味もない海洋探検のお話を退屈に思っていまして、当時の私はロシア人の青年が自らの正義のためと金貸しのおばあさんをあやめてしまう物語の方がよほど感じ入りましたが、この歳になると──」

 わたしは限界を迎えて、耳打ちした。

「千知岩さん、尺を使いすぎ……」

「え? あ、ごめんなさい。これは私の悪い癖で、そう、日々に暮らしの中でも、いちいち長台詞にならないようにとお父様にも、口の中に青リトマス紙を突っ込んだら真っ赤かになってしまうくらいには、酸っぱく言われていたのに……」

「わたしの口も強い酸性になる前に切り上げて」

「あ、この子は舟田といって、私の使用人だから併せてお見知りおきを」

「わ、わたしは昨日、自己紹介したからよくって……!」

 突然、わたしに矛先を向けるので鳥肌が総立ちになる。「そうだったんだ」とクラスメイトから集まる視線に、恥ずかしさのあまりに耳が猛烈に熱くなった。

「少し長くなってしまいましたが、皆様、何卒よろしくお願いしますね」

 しどろもどろのわたしを置いて、千知岩さんはぺこりと優雅なお辞儀を見せて、いい感じで自己紹介を締めてしまうのだった。温かい拍手がわたしのむき出しになった羞恥心に沁みた。


  二


 わたしの高校生活は、千知岩さんの付き人として過ごすことになってしまったけど、正直言ってかなり良かった。本当に良かったと思う。千知岩さんと出会っていなかったら、わたしはダメになっていたと思う。人生の恩人だ。

 というのも、千知岩さんは元気いっぱいな子供みたいなものなので、色んな人とか出来事にためらわず突っ込んでいくので、コバンザメのようにくっついていくだけで、わたしまで学校という社会に積極的に参加しているような気持ちになれるのだ。

 しかも、千知岩さんはわたしを使用人として使用しない。文字通りの付き人として扱う。宿題も自分でやってくるし、図書館の本も自分で返すし、お弁当は持参するし、足も速い。完璧だ。千知岩さんの日常にわたしの出る幕はなく、つまり仕事がない。ほとんど無条件でお近づきになれてしまったことになる。そんなこと、あっていいのだろうか……と、へろへろになった私は、もうろうとする意識の中で思いながら、ゴールの線をまたいだ。

 その日の体育は体力テスト、持久走の時間だった。

「すごい、あなた、足速いのね!」

 わたしがしょうもない記録を報告している間に、とっととゴールしていた千知岩さんは、圧倒的タイムを叩きだした子のもとへ話しかけにいっていた。体力過少なわたしは虫の息なので、見えないリードに引きずられるようにそれに付き従う。

「千知岩さんも速かったよね、何かやってた?」「バスケットボールを少し、ここに来るまではアメリカにいたので」と、その子との話が弾み始める。趣味や特技はとくにない、とか言ってたのにありまくるじゃんと、突っ込む心を抑えつつ、わたしは「へえ」とか「ほお」とか、ワンパターンな相づちを駆使して、会話に参加している風を装っていた。

「千知岩さん、記録の報告してないでしょ!」

「あ、はーい!」

 そんな折、千知岩さんは先生に呼ばれて駆けだしていく。しっかりしているように見えて、そそっかしいところはそそっかしい。本来的には、そういうところのカバーを付き人であるわたしがするんだろうけど……まあ、本人が行った方が速いし、効率重視ならこれでいいのだ。きっと。

「千知岩さん、すごいお喋りだよね」

「はあ……まあ、そう、だね」

 そんなことより、足の速い子(申し訳ないことに名前を覚えてない)と同じ場所に残されて、すごく気まずかった。といっても、今から千知岩さんを追ったら更に気まずいし、気まずさを回避するために気まずさに甘んじるしかない。

「いつからいっしょなの?」

「入学式の翌日……」

「えぇっ? 現地付き人ってこと?」

「そんな現地ガイドみたいな……」

 たはは……と硬い笑いで間をつなぐ。助けて、千知岩さん。わたしの対人耐用期間は三分間、すでにカラータイマーが悲鳴を上げている。

「なんだ、もっと長い間いるのかと思った。仲いいから」

 足の速い子は意外そうに言った。わたしはこういう感想に対する、ベストな回答を知らないので、曖昧なにへら笑いしかできない。

「そ、それは千知岩さんのコミュ力のおかげであって……」

 見ると、千知岩さんは記録をつけている補佐の先生と、延々とお喋りをしていた。新人の先生らしく、完全に千知岩さんのトークに圧倒されている。

「もー、またやってる……ちょっと、引き剥がしてくるんで……」

 このままではどちらも主任の先生に怒られる可能性があったので、わたしは断りを入れてから千知岩さんを引き剥がしに行く。コバンザメが宿主を引き剥がしにいくなんて、おかしな話だけど。

「宇宙なんてバンバカ光が降り注いで目に見えるから良いものの、海底なんて光が全くないものだから、未だに五%程度しか探検が進んでいないんですって。光速以上の速度で広がっている宇宙よりも、隣人のようにともに暮らしている海の方が謎に満ちているなんて不思議な感じがしてしまって、それで昨日は……」

 何を話しているのかと思ったら、深海底について喋っていた。海底二万哩ブームはまだ続いているらしい。聞き手の若い先生は露骨な「どうしよう」を顔に浮かべている。これがマンガなら、漫符として細々した汗を飛ばしまくっているだろう。

「千知岩さん、長いよ、台詞が……」

「あら、舟田。またお父様みたいなことを……もしかして、わたしの預かり知らぬところで、打ち合わせや報告のやり折りをしていたりするの? そうでなければ、わたしが一日中、台詞が長い、と注意されることもないものね」

「単に事実だからだと」

 そんな指摘で片がつくはずもなく、「事実なの? でも、私は──」と、また新たなお喋りが始まる。千知岩さんと話していると、海外文学の翻訳を読んでるような気分になる。活字ならいいけど、日常でやられると大変だ。

 なんとかこの長台詞をコントロールできたらいいんだけど、とわたしは常々考えている。


 千知岩さんは部活に入っていない。わたしもシンプルに入り損ねたので、放課後は寄り道に付き合わされると思いきや、千知岩さんは素晴らしい潔さで帰宅する。想像だけど、お稽古事がみっちりあるんだろう。なので、わたしの付き人業務は、放課後に千知岩さんが送迎の車へ乗り込むのを見届けるまでとなる。

「それにしても、正門で送迎不可というのは不便なことね。朝も放課後も、人目につかない裏門からこそこそ出入りするなんて、単身赴任中の夫のいる奥さんのもとへ通っている下男みたいじゃない……って、この例えは、前にも言ったことがあるような気が……」

 注釈すると、正門にはこの世の全てがある割に道幅が狭く、しかも一方通行ではないので、車が停車するといろいろ迷惑がかかるらしい。だから、千知岩さんは田んぼ道で送迎の車を待つ。

 いつもは放課後に先駆けて、高い税金払ってそうなセダンが待機しているけど、今日はどこかの道路が渋滞して遅れているので、千知岩さんは少し不機嫌。

「目立たないからわたし的にはありがたい」

「たくさんの視線を浴びた程度で血圧が上がってしまっては、千知岩水の付き人は務まらないけど?」

「今のところ務まってるけど……」

「あら、私が注目されてないとでも言いたいの!」

「注目されたいの?」

「まあ、実際のところはどちらでもいいけどね。注目指数が偉さに直結するわけでもなし、発言ひとつで株価が上下するような身分は今のところ望んでないし、私としてはひとまずお父様の娘と名乗って恥じない程度の能力を──」

 また長台詞が始まっちゃった、と田んぼを見ながら思いを馳せた時、裏門の広くもない道をやってくる車両の影が見えた。でも、例のセダンではなく、渋滞で時間が削がれてしまったか、道を急ぐ他の車らしい。

 けど、千知岩さんは舌を動かしながら、ふらふら車道の方へと近寄っていく。あのエンジン音を実家のセダンのものと思っているらしい。どう考えても危ない。

「お迎えじゃないよっ」

 わたしは咄嗟に、千知岩さんの手を掴んで引いた。千知岩さんはびっくりしたようにお喋りをやめる。ドゥン、と重い音を響かせて、一般車両が高速で通り過ぎていった。

「あぶなー……あ、ご、ごめん」

 呆然とその車両を見送ったあと、わたしはがっつり千知岩さんの手を握っていたことに気がついて、慌てて離す。手のひらが軽くなる。思ったより小さい手だったな、とわたしは思った。

 そして、ものすごい違和感を覚える。

「……」

 千知岩さんはわたしが掴んでいた手を、もう片方の手でぎゅっと抑えていた。

 脈が通っているのかを確かめるように、黙り込んでいた。

 静かだった。

 千知岩さんが、静かだった!

 そう気づいた瞬間、感じたのはいやな冷たさだった。背筋がぞわぞわする感じ。わたし死んだかも知れん、と思った。昔、雪合戦に夢中になって、通りかかった車のガラスを雪玉でぶち抜いた時と似た感覚だ。

 千知岩さんはなにか深刻な理由や過去があって誰かに触れるられのを嫌悪していて、その地雷を咄嗟のこととはいえ、あっさり踏み抜いてしまったのかも知れない。そして、千知岩の人たちは「付き人なのに主の地雷も知らないのか」と、わたしを弾劾し、それが原因で家族もろとも日本に住めなくなるかも。

 やばい、あり得ない話じゃない。

「千知岩さん……」

 わたしは泣きつくような思いで、その名を呼んだ。

 すると千知岩さんははっとしたようにわたしの顔を見て、困ったように笑った。

「あ……ご、ごめんなさい、わ、私ったら……」

「だ、大丈夫? 突然触ったから、古傷が開いたとか……」

「ち、ちが……そう、じゃないの」

 あの千知岩さんの歯切れが悪い。なんだか顔も赤い。うかつな行動のせいで、具合が悪くなってしまったんじゃないかと、わたしは本気で心配になってきた。

 と、そんな折り、さっきの高速一般車両も顔負けの速度で千知岩家のセダンがやってきて、わたしたちの目の前でピタッと停まった。普段なら「高級車のブレーキってすげー!」と舌を巻くところだったけど、あいにく今はそんな余裕はない。

「む、迎えがきたから、また、明日ね……!」

 顔面蒼白のわたしから逃げるように、千知岩さんは車に乗り込んでいってしまった。

 今までの遅れを取り戻すかのように、超高速で小さくなっていくセダンを見送ってから、わたしは自分の手を見下ろす。そこには千知岩さんの手の温もりと、肌の滑らかさが残っていた。

「……いや、この感想はキモすぎる……」

 わたしは、速く脈打つ心臓の音をごまかすように独り言を呟きながら、裏門から帰路についた。


 で、約束通り、謎の権力に家を()われることなく、わたしに明日は来た。

 朝、いつもの時刻にセダンに揺られて千知岩さんはやってくる。それを裏門で出迎えるのが、わたしに明言された唯一の命令だった。

「おはよう」

 わたしはド緊張しながら声をかけた。千知岩さんは例によって、一目見ただけで「お嬢様だ」と思える流麗な仕草で車から降りる。

「ごきげんよう。出迎え、ご苦労様。今日の天気は全国的に晴れ、湿度は少し高めで過ごしやすい一日になるみたい。午後の授業は居眠りに注意ね。運勢トップは乙女座、ラッキーアイテムは……そろばん。現代で持ち歩いている人がいたら会ってみたいかも。私的には電卓でも代用が利くんじゃないかと思ってるけど、じゃあ関数電卓はどうなの? って案配で、最終的にパソコンまで許される気がしたから、電子機器なら何でもオッケーってことにしましょう」

「……ちゃ、ちゃんと喋るようになってる!」

 修理から戻ってきたAIスピーカーがちゃんと直った時みたいな感想が出てしまった。千知岩さんは眉をひそめる。

「朝一番からなに?」

「いや、昨日の帰りに少し気まずい感じになっちゃったから、その、気にしてて……」

「あら、そんなこと。全然気にしないでいいから。というか、気にしないで。忘れて。もう口にしないで。昨日の帰りがけにはなにもなかった、いい? わかった?」

「い、イエッサ……」

 本人もめっちゃ気にしているようだった。

 ただ、千知岩さんの中で、この件についてはそれで終わりらしく、というか、そんなことよりももっと話したいことがあるらしく、「ところでそろばんと言えば、私、珠作り職人の方と──」と、いつものように長々と喋り始めた。わたしもわたしで、もはやお嬢様だからとかいう忖度抜きで、「ニッチが過ぎる」と思ったことを差し挟んでいく。少し前までの非日常が、はやくも日常になり始めている。

 しかし、そうして自分たちの教室に向かっている間にも、わたしには考えていることがあった。

 実はすごく平和的な方法で、千知岩さんを静かにすることができるんじゃないか、と。

 

 その日は、事件があった。

 わたしたちのクラスの英語の先生は、インタラクティブに授業をしたいタイプの人で、その日はクラスの空気をくすぐりたかったのかわからないけど、うっかり千知岩さんに英語で雑談を振ってしまった。

 千知岩さんはアメリカの小さな日本人学校で過ごした帰国子女で、ばっちり英語圏の環境にも浴してきたらしい。待ってましたと言わんばかりに、堰を切ったような勢いで喋り始めた。英語で。

 一応、この教室にはわたしを除いてレベルの高い生徒ばかりだけど、それでも千知岩さんの本場仕込み(?)のマシンガントークについていける人はいなかった。先生はオーケーオーケー、ザッツイナフ、と言っているが、あんまり効果はない。

 いつもならこういう時、(偶然にも)隣の席のわたしが「尺を使いすぎ」といさめるところだけど、あいにく英語でなんて表現するのか知らなかったので、それもできない(日本語でも別に良いだろ、と気づいたのは後の話)。

 これはピンチだ。このままでは、先生がブチ切れて千知岩さんがしょんぼりしてしまうか、千知岩さんの独擅場で授業が終わって先生の中の教育哲学に疑いが生まれてやさぐれてしまうか、どちらかのエンディングが待っている。

 未来はわたしにかかっている、ような気がした。

 ためらっている場合じゃない。試してみよう、千知岩さんを、強制的に静かにする方法を。

 わたしは意を決すると、ぐっと腕を伸ばして、楽しそうにお喋りする千知岩さんの、ちょこまかと動き回る右手を取った。

「ひゃっ!」

 千知岩さんはぎょっとした顔で、お喋りをぴたっとやめた。目をまん丸にして、わたしのことを凝視している。握る右手にもわっと熱がこもった。

 そうして、千知岩さんは静かになった。試みは大成功だった。

 ただ──わたしは、わたしに対して一挙に集まった視線に対するアンサーをしなくてはならなかった。当事者の千知岩さんは黙りこくり、先生はぽかんとしている。クラスメイトはいつもの付き人が、オチをつけるのを待っている。

 わたしは、自分の能力で放てる精一杯の英語を口にした。

「ビ、ビークワイエット……」

 恥ずかしすぎる。顔から吹き出た火で鉄板焼きが作れそうだった。

 でも、そんなわたしのしょうもない英語に従うように、千知岩さんは喋らなかった。もじもじと視線をきょろきょろして、顔を真っ赤にしている。

「サ、サンキュー、フネタ」

 英語の先生は汗をふきふき、とりあえず収集がついたことにホッとしたようだった。わたしは千知岩さんと一緒に、逃げるように着席した。

 

 千知岩さんはスキンシップに慣れてない。ちょっと手を触れただけで、恥ずかしくなって静かになってしまう。これが多分、きっと、おそらく、千知岩さんを黙らせるのにもっとも有効な方法なのだと、証明されたのだった。

 千知岩さんの手を握るというわたしの勇気ある行動によって、さまざまな危機を回避したわけだけど、でしゃばったマネをしたという緊張と興奮のせいでドキマギしてしまい、授業を聞くどころではなくなってしまった。昼休みになる頃には、心身ともにげっそり。

「舟田、ランチに行きましょう。今日はミートパイを焼いてもらったの。ただ、シェフがすさまじい健啖家なものだから、相変わらず莫大な量でね、まあモノっていうのはあればあるだけ良いって相場が決まってるものだから、お腹がいっぱいになるまで食べましょう」

 千知岩さんはといえば、英語の時間の一幕などなかったかのように元気だった。ルンルンな様子で教室から出て行く。莫大な量のミートパイを運ぶのはわたしの仕事だ。重い。

 千知岩さんの生態は不思議で、人見知りでもなく誰とでも楽しそうに話すのに、お昼や放課後など、プライベートな場面ではわたしだけを連れて行動する。要するに、友達らしい人を作ろうとしないのだ。その上、友達がいないことをコンプレックスに思っている様子もない。

 たぶん、幼い頃からそういう習慣だったのだろう。親の都合で住処を転々としてきて、特定の気の合う誰かと過ごす経験がないので、友達のいないことも気に病まない。必要なときにはすっとつるめるし、縁がなくなればすっと離れられる。周りも「そういう人だから」と思ってくれる。だから、人との付き合い方に悩むこともない。人間関係ストレスフリー。

 今までそんな風に過ごしてきたために、誰かとスキンシップを取る機会が少なかったのかも知れない、と思った──どれもこれも、わたしの勝手な想像だけど。

 でも、想像の通りだとしたらきっと、千知岩さんにとってわたしとの関係も似たようなものだ。初めて知り合った子、というステータスは特別だけど、それも高校生活というフレームの中でのこと。卒業してしまえば、もう──ってちょっと待って。

 まだ高校生活始まって少ししか経ってないのに、なんでそんな未来のことを想像して寂しがってるんだ、わたし。

「舟田、どうしたの。飼い始めたばかりの子猫のことが心配でしょうがないみたいな顔をしてるけど」

 中庭のど真ん中の芝生、おしゃれな敷布に座ってのランチ。

 わたしが謎の感情に怯えている間にもずっとお喋りしていた千知岩さんは、自分の話を聞いてもらえなくて不満だったのか、そう言った。

「いや、別に……」

「あなたは付き人なんだから、私の一挙手一投足に集中してもらわなきゃ困るんだけど。このだだ余ったミートパイを見て。あなたがどうにかしなくちゃいけないすべてがここにあるの。このまま手をこまねいていれば、全部シェフの胃の中に行きになっちゃう。この子たちをいつ使われるかわからない脂肪の一部にされてもいいって言うの?」

「誰の脂肪になっても変わらないって……そもそも、女子二人で食べる量じゃないし。余らすの嫌なら、クラスのみんなに分けてあげれば」

「安易な施しは気が進まないんだけど、まあ、このミートパイは私の手を離れて、既に舟田の所有物だから、クラスメイトにやるなり、シェフにやるなり、子猫にやるなり、近所の子供にやるなり、肥料にするなり、街角で売るなり、好きにしなさい」

「そうなの?」

 どうやらわたしにくれるらしい。なのに、千知岩さんは自分から食べ残したミートパイをてきぱき片していく。傲慢なんだか寛容なんだか、千知岩さんの感覚はよくわからないけど、それよりも、こういう雑事も自分でやっちゃう千知岩さんを見て、「わたしって必要?」とつくづく思ってしまう。この調子じゃ、いつか前触れもなく解雇されてもおかしくない──。

 いやいやいや、さっきからなんで千知岩さんと離れる時のことばっか考えてるんだ。なんで、ずっと一緒にいたい的な思考に、後ろ向きなカッコでなっちゃうんだ。無条件で合法的にコバンザメでいられるだけでも、かなり贅沢だっていうのに。

「舟田……今日はいったい、どうしたの。私だけがひとりで喋ってるじゃない」

 とか考えていたら、また千知岩さんのお喋りをスルーしてしまっていた。これには雇い主も呆れ気味だった。

「いや、特に、なんとも……」

 と、わたしは口ごもるものの、こうやっていろいろと考えてしまう理由に心当たりがある。ただ、この境を超えてはいけない、という自制があった。言ったが最後、戻れなくなる。「ダメ、ゼッタイ」という標語が頭の中を巡る……原典は麻薬乱用防止のためのコピーだけど、似たようなものだ。

 曖昧な態度をとるわたしに、千知岩さんはむっとしたように詰め寄る。

「そんな調子でいられたら、私との付き合いがうまくいってないんじゃないかと民衆に邪推されるじゃない。ただでさえ、私は注目度が高くてゴシップに気をつけなければならない身なのに、付き人への冷遇なんて誤解されたが最後、私は──あっ」

 千知岩さんは忙しく動かしていた口を、ぴたっと止めてしまった。

 私がその手を握ったからだ。

 昼休みで賑わっているはずの学校が、突然静寂に包まれたようだった。千知岩さんは、顔を赤くして、追い詰められた子猫のような顔でわたしを見ていた。

 その弱ったような表情が──わたしの琴線に触れて触れて、しょうがなかった。

 いつか、千知岩さんは言ってたっけ。

『巨大なものが指先一つの操作で従順に動くと思うと、なんだか愛おしく思えて……』

 わたしはかなり遅れて、そのことに共感していた。

 肌が触れあうことの恥じらいから、静かになってしまう千知岩さんを、わたしは無性に愛おしく思っていた。

「千知岩さん、うぶなんだって、思って」

「こ……これは……その……」

 かくいうわたしも、当然のようにスキンシップに関してはうぶな方だけど、千知岩さんはそれ以上だった。自分よりビビっている人を見ると却って冷静になれるように、自分より恥ずかしがっている人を見ると、むしろもっと恥ずかしがらせたいという気が起こる。

 わたしは千知岩さんの手を、両手を使って包み込んでみた。

「ひ……ちょ、ちょっと……」

 千知岩さんが細い声を出す。冬に自販機で買ったホットココアみたいに、その細くて滑らかな手がほかほかと熱くなる。

 やばい。めちゃくちゃかわいい。

 元の顔面の良さもあり、普段との著しいギャップもあり、そして何より、わたしがごとき一般市民がお嬢様という巨大な存在を、ほんの少しの力で押さえつけている、という状況から、アドレナリン分泌量五十%アップだった。

「ふ、ふねた……」

 千知岩さんが涙目でわたしの名字を呼ぶ。いかん、飛ぶ。これ以上摂取したら依存症になる。名残惜しさもありつつも健康の方が大事なので、大人しく手を引いた。

 わたしが手を離してあげてからも、千知岩さんはまだ恥ずかしがるように身を縮こめていた。黙っていると本当に可憐で優雅なお嬢様にしか見えないのに。

「も、もう……な、なんて破廉恥ことするの……」

「手つなぐくらい普通だよ。マンガでも死ぬほど出てくるでしょ」

 少し触れて破廉恥なら、満員電車とか絶対乗れないじゃん。まあ、千知岩さんは乗らないんだろうけど。

「う、うう……わ、私、子供のころから、どうしても慣れなくって……」

「海外はスキンシップ激しいんじゃないの」

「うん……だから、挨拶のたびに恥ずかしがってたらすごくからかわれて……それでいっそう苦手になったの……」

 それを聞いてしまうと、手を握って静かにさせるのは、ちょっとひどいことなのかも知れない、と思う。でも、ちょっとひどいことをしている、と考えるとなんか興奮する。やばいな。

「日本ではそういう機会は少ないと思ってたのに……舟田相手にしているだけで、これだものね。こんなんじゃ、将来はもっと広く恥を晒してしまうことに……どうしましょう……」

 千知岩さんは本気で不安に思っているようだった。まずい、落ち込ませるのは本意じゃない。もっと恥ずかしがることに自信を持ってもらわないと。

「千知岩さんはちょっと完璧すぎるとこがあるし……そ、そのくらいかわいいところがあって、いいんじゃない?」

 わたしは少し踏み込んで言った。千知岩さんは首を小さく傾げる。

「そ、そう?」

「うんうん、そっちの方が親しみやすいというかさ、かわいいと思う」

 かわいいって二回言ってしまった。でも、事実だしな。

 わたしの言葉に、千知岩さんの表情にいつもの調子が少し戻った。

「舟田がそう言うなら……そうなのかもね。真剣に考えてくれて、どうもありがとう」

「えっ……いや、お礼を言われるようなことじゃ……」

「私、これから先は、この弱みを活かす方向で生きていくから」

「おいそれと言うことのない構造の台詞だ」

 なんか、わたしの性癖と千知岩さんの前向きなところがかみ合って、パワーのある方向性ができてしまった。それでいいんだろうか。まあ、悪くはないんだろうけど、元を質せばわたしが千知岩さんのお喋りをコントロールしたい、という欲望からの流れだったから──なんだか、悪いことをしてしまったような気がしてならない。でも、千知岩さんが満足そうだから、私が気を揉む必要はないか。

 と、千知岩さんは時計を見て「あっ」と声を漏らした。

「もうこんな時間。教室に戻らないと。舟田、このミートパイの始末は任せたからね」

「げっ……」

 わたしはその後一日、ミートパイ配りの少女として過ごすことになった。


  三


 新生活が始まって数週間後、ゴールデンウィークに入った。今年は五連休の大豊作だ。そのうちのある日の朝、わたしは地元の駅のロータリーに立っていた。

 わたしが時計と道路と、振り子のように交互に見ていると、そのうち見慣れたセダンがやってきた。後部座席の窓が開いて、千知岩さんが顔を覗かせる。

「ごきげんよう、さ、乗って」

 うちの車とは比べものにならない上品なガチャっという音とともに、扉が開かれる。

「お邪魔します……」

「ふふふ、家じゃないんだから」

 首をすぼめて乗り込むわたしを見て、千知岩さんはくすくす笑った。

 その日は、千知岩さんに連れられて、都心にお買い物に行くことになっていた。たぶん、買った荷物を持たされるんだろう。ただ、そのために送迎車に乗せてくれるのは、とてもありがたい。

 正直、高級車ってなんで高級なのか知らなかったけど、乗り心地が桁違いに良くて驚いている。運転手の腕前もあるんだろう。こんなのに慣れてしまったら、うちの父親の運転する型落ち一般乗用車なんか、乗ってられなくなる。

「なんだか質素な服を着てきたのね。せっかく東京に出るっていうのに」

 千知岩さんは窓枠に頬杖をつきながら、わたしの方を見て言った。

「動きやすいカッコがいいかと思って」

「あなた、東京をなんだと思ってるの? 昔のお上りさんだってそんな発想には至らないと思うけど。人口密度がえげつないほどぎゅうぎゅうといっても、服の端を取られて身動きがとれなくなるほどのものじゃないって。それこそ、朝の満員電車に乗らない限りはね」

「そ、そんな勘違いしてないから。荷物持ちなら身軽な方がいいと思ったの」

「荷物持ち? あら、舟田ったら、勘違いしていないと言い張ってるのに、大きな勘違いをしてる。今日は単に、あなたといっしょに遊びに行くの」

「え?」

 わたしはびっくりして、千知岩さんの方を見た。そうなの? わたしはてっきり、千知岩さんはそういうプライベートの過ごし方をしないものかと思っていた。

 お出かけの意味がわかった途端、自分の何も考えてない服装への恥じらいが生まれてきた。千知岩さんは、エメラルド色を基調にしたエレガントなワンピースを着込んで、いかにもお上品でいるのに、わたしは地元のスーパーに行くようなパーカーとジーンズ姿。既に落差がすごい。こんな姿で都心にいったら、ボコボコにされちゃう。

「まあ、いいか。今日は舟田に服を見繕うつもりでもいたから。先にそちらを回りましょう」

 怯えるわたしの横で、千知岩さんはなんでもないように言った。

「え、わたしの服……そ、そんなにダサイ……?」

「違うって。舟田はこの一ヶ月、付き人として私と多くの時間を過ごしてくれたから、見返りとして何か施してあげないとって思ってたの」

「わたしはそんなつもりじゃ……」

「いいのいいの、気にしないで。お年玉だって十年分貯まってるし、今日一日遊ぶ程度なら利息分だって使い切れないから。あなたみたいな庶民が心配することじゃないよ」

「ええ……」

 定期預金でも利息って0.5%とかなのに、いくらお年玉もらってるんだと、ドン引きしてしまう。まあ、普通に考えて冗談だってわかるのに、高級車の静かでいてパワフルなエンジン音のせいで信じてしまった。


「うんうん、似合ってる。さすが私が懇意にしているブランドなだけあって、どんな芋っ子でもこなれた感じに仕立ててくれる──けど、なんか物足りないというか……あ、あなたの姿勢の問題か。ほら、そんな辛気くさいえへえへした感じの猫背なんてやめて、しゃんと胸を張って」

 千知岩さんはさっそく、懇意にしているという服屋にわたしを連れてきて、新しい服を見繕ってくれた。桜色のカーディガンに暖かみのある赤いスカート。デザインは大人しいけど、色合いは派手だ。こんな目立つものを着たのは小学生ぶりで、なんだかむずむずして背筋を伸ばすどころではなかった。

 いろいろ何かを言いつつも、最終的には満足げな千知岩さんは、最後に思いついたようにその場から立ち去ると、ベレー帽を持ってきてわたしの頭にぽんと載せたので、肝が冷えた。

「ここ、こんなおしゃれグッズ! わわ、わたしにはとても……」

「いいえ、抜群に似合ってるから甘んじなさい! ま、どのみち、あなたの着てきた服はわたしが没収しているから、それを着て、街を往く選択肢しか残されていないけどね」

「え、没収したの? 窃盗じゃ?」

「人聞きの悪いことを手軽に言わないで。ドライバーに頼んで、あなたの家に向かわせてるだけ」

「それだけのために、あのセダンを……」

 というか別に、トランクかどっかに保管して、後で返してくれればいいのに。ガソリンが余ってしょうがないのか。親もびっくりするだろうな。高級車から出てきた人が、娘の抜け殻渡してくるんだから。百十番しないことを祈る。

 それからお会計ということに相成り、どんな金額になるのか恐ろしくて、わたしはひたすら目を背けていたけど、レジのお姉さんが丁寧に万札の数を数え上げてくれたので、何の意味もなかった。


「こんな、受け取っちゃっていいの……」

 改めて街を出てからも、慣れない服の感触にそわそわしてしまう。なんだか通りすがりの人からの視線も増えたような気もして、落ち着かない。

 そんなわたしの様子に、千知岩さんはまったくもう、という風に首をすくめる。

「さっきも言ったけど、これは付き人をしてくれるお礼……というか報酬だから、受け取ってくれないと私の方が困るの。無賃金で働かせるなんて論外だし」

「付き人って言うけど、わたしほとんど何もしてないよ」

「何もしてないなんて、人間にはできないでしょ。舟田は私に文字通り付いてきてくれてる」

「誰だってできるから」

「そんなことない」

 わたしはびっくりして、思わず立ち止まった。千知岩さんが短く言い切るのは珍しい。それもいつものように陽気なお喋りとは違う、川面にそっと薄紙を流すような言い方だったから尚更だった。

 千知岩さんは歩みを止めなかった。わたしは慌てて後を追う。隣についたわたしに、千知岩さんは言う。

「いや、わからないけど。たしかに本当に誰にでもできることかも。そうかも知れない、わからない。だって、試したことないもん。でも、舟田は付いてきてくれてる。そのことに感謝を示すのはダメなこと?」

「……もったいないかな」

「確かに、もったいないかも」

「そのコメントは凹む」

「でも、それで私は良いと思ってるの」

「……なら、いいか」

「そう。いい」

 わたしは自分の着ている服を見下ろして、裾をつまんでみた。今まで着てきた服のどれよりもいい触り心地で、発色もかわいくて、なんだか心がほわほわしてくる。嬉しい、とわたしは今更のように思った。

 その様子を見てか、千知岩さんはまた揚々と話し始める。

「学校で過ごしている間、ずっとあなたがいるものだから、今まで通っていた学校でどう過ごしてきたのか忘れちゃった。いろいろと頭の中で思ったことがあって、喋ってみたいことがあって、それをすぐに伝えられる相手がいるってとても素敵なことだと思って、ひ」

 子犬みたいな声を出して、千知岩さんは静かになった。わたしが手をつないだからだった。

「……ちょ、ちょっと……」

 千知岩さんはあわわ、という顔でわたしを見る。その愛らしさにわたしの頬が緩んだ。

「あまり喋らない方が、伝わることもある」

「どういう意味……」

「こういう意味」

 そう言ってから、きゅっと、千知岩さんの腕に抱きついてみる。快い温もりがお腹の辺りに、ふわっと広まった。

「……!」

 千知岩さんは息を詰まらせたような音を立てると、何かを堪えるようにうつむいてしまった。その拍子に揺れた髪の間から見えた首筋は、上気して桜色に染まっていた。

 わたしは至福を覚えた。


 しばらくそんな感じで歩いたあと、我慢できなくなったようにわたしの腕から逃げ出した千知岩さんは、その後、わたしに香水とか、リュックとか、ぬいぐるみとか、いろんなものを買ってくれて、極めつけにはロブスターが水槽で泳いでる店に連れて行ってくれた。

 今度はわたしがガタガタ震える番だった。

「千知岩さん、メニューに載ってる値段が……」

「今更、そんなこと気にするの? 原価で考えれば、この前食べたミートパイだって、さして変わらないくらいのものなんだけど」

「ヒエッ……そんなものをわたしは、いろんな人に分け与えちゃったんだ……」

「……別にいいでしょ」

 寡聞なもんだから、ロブスターについてはでかいエビ以上の知識はなかったんだけど、実際に食べてみたらめちゃくちゃおいしい海老だった。千知岩さんのお喋りを聞きながら夢中で食べていたら、一瞬でなくなってしまった。

 食後に出てきたチーズケーキに舌鼓を打ちつつ、今日という日の充実感に思いを馳せる。まさか、高校に入ってこんな思いができるなんて。ゴールデンウィークが明けてからも、千知岩さんの付き人として頑張ろうと志を新たにした。相も変わらぬコバンザメ生活なんだろうけど、千知岩さんもご満足みたいだからそれでいいのだ──。

「それでなんだけど、舟田、あなたはもう少し、自由に振る舞ってもいいと思って」

「え?」

 わたしはフォークを取り落としそうになった。千知岩さんは、チーズケーキを小さい欠片に区切って、丁寧に口に運んでから言う。

「私が一日中付き従え、なんて最初に言っちゃったものだから、ずっと私に付いてきてくれているんだと思うけど、その、そこまで忠実でなくていいというか、元はといえば私が日本でやっていけるかどうかっていう不安をごまかすためにわがままで言っていたことだから、これ以上は私に付き添わなくても、他に仲良くしたい人がいたら仲良くしてもいいし、入りたい部活があれば入ってもいい──なんて、私が許可を出すまでもなく、あなたはあなたのしたいことをしてほしいなって、最近のあなたを見て思うようになってきたの」

 他の交友関係を持ってもいい、と言うことだ。なんてまっとうな感覚を持ってるんだろう、とわたしは感動する。その配慮は嬉しいといえば嬉しいけど、でも、わたしの心にはどうしても寂しさと、不安が芽生えてしまった。

「……わたしは別に、永遠に千知岩さんの付き人でもいい」

「でも、それじゃあ、あなたは」

「千知岩さんほど、わたしは明るくもないし、自信があるわけでもないし、人間を信じられるわけでもないから。千知岩さんがわたしを大事にしてくれるなら……自由なんていらないよ」

「……もしかして、舟田は人付き合いが苦手?」

 わたしは苦笑する。

「苦手じゃなかったら、入学二日目の朝に裏門のベンチで時間潰してないって」

 千知岩さんはまっすぐにわたしを見た。

「そうなの。どうして苦手なの?」

 どうやら詳しく聞く気らしい。たいていの人は、予防線引いてると思って、鼻で笑うようなことなのに。

 逃げ道を探すようにわたしはチーズケーキの断面を、フォークでなぞった。

「まあ、よくある話だけど……中学の時に人間関係で嫌な目にあって」

 吹奏楽部に入ってたんだけど、活動を通して思ったことをズカズカ言ってたら、シンプルに嫌われて孤立したっていう、ただそれだけのよくある話。誰も予定を教えてくれないとか、合奏練習の時に私の席だけないとか──まあ、長々と喋るようなことでもない。

「そう。大変だったのね」

 千知岩さんも深掘りはしてこない。短い台詞だったけど、苦い記憶をきちんと共有できたような、不思議な安心感があった。

「まあ、あの頃のわたしも悪かったし……集団の中でも誰とも話さず、じっとしている忍耐力を培えたから、結果オーライというか」

 苦い経験を思い返して、こういう風に思っちゃいけないのはなんとなく知ってる。自尊心の問題かなんかで。

 ただ、その忍耐力のおかげか、または神様が同情したのか知らないけど、高校受験ではわたしの実力とは不相応なレベルの高校に合格できてしまった。中学の知り合いとは距離を置けた代わりに、「不相応」のコンプレックスも一緒に抱えてくることになるわけだけど。

「私と一緒にいるのも、付き人として、だから?」

 千知岩さんは訊く。わたしは答えあぐねて、少し黙る。答えたくない質問だった。でも、何か言わなくちゃ。

「……うん。でも、これでいいの。付き人として千知岩さんと一緒にいれば……人間関係を気にしなくて済むから」

 結局、正直に言ってしまった。はっきり言っちゃう癖は相変わらずだ。これだから、誰かの心にさざ波を立てるんだ。

 でも、千知岩さんは「そう」と気にした様子もなく言った。

「現状にあなたが満足してるならそれでいいの。これからも引き続き、付き人として私に従ってもらうだけだから。ただ──」

「ただ?」

 千知岩さんが口ごもるのは珍しい。なんだか、今日は珍しいことが多い。千知岩さん自身も驚いたのか、取り繕うように小さく首を振ってみせた。

「……いいえ、なんでもない。ともかく、不満はないみたいだから一安心してる。腹の中にしまいこまれることの方がよっぽど困るから。あいにく、私は環境に恵まれてきてしまっているから、実際に体験したわけじゃないことなのが歯がゆいのだけど……でも、こういうことは舟田の方が、よっぽどわかってることよね」

「うん、まあ、ね」

「私も思ってることを伝えた。うん、これで大丈夫。私たちの、雇用者と労働者の関係は良好ね」

 千知岩さんは本当にそう思っているように言ったけど、わたしには、本当にそう思っているように見えるように言っているように思えた──なんていう冗長な印象は、千知岩さんのお喋りに影響されたのかもわからない。

 とりあえず、わたしはその日以降、あの時は面白くもないことを長々話してしまった、というおなじみの後悔を引きずることになる。そういうものだ。


  四


 わたしは、芸術を書道に選択した。これもたまたま千知岩さんと同じだった。

 音楽・美術・書道、工芸から選ぶわけだけど、千知岩さんは、ピアノもできるし、西洋美術なら鑑賞できる知識があるし、お茶碗は自分で作ったものを使っているけど、日本の文字はあまり書いたことないので、書道を選んだらしい。わたしは、簡単そう、という理由で選んだ。浅ましさの極みだ。

 実際、簡単じゃなくて、憂鬱な授業のひとつとしてわたしの中に確立されていた。ゴールデンウィーク明け一発目の授業だったので、よっぽど仮病で休もうかと思った。

 でも、行った。千知岩さんがいるので。

 千知岩さんの字はわたしよりもずっと下手くそだ。その小学生みたいな字を見るのは、わたしにとって癒やしの一時だった。

「もー、今日も今日とて全然書けないー! せっかく良い筆を用意してもらったのに、これじゃあいたずらに消費するばっかり。むう、舟田の字とも比べたら、私のなんかお子ちゃまみたいにぐちゃぐちゃな字、こんなのが廊下に張り出されてしまった日には、嬉しくない評判が立っちゃうじゃない……」

 字が下手なくらいで千知岩さんが黙ることはない。わたしは千知岩さんの字を横目で見やりつつ、言う。

「味があっていいと思う」

「それは、本当にどうしようもない出来だけど、褒めなければいけない場面で持ち出す、究極の汎用ワードでしょ! 悔しすぎて海外の市民権を得てしまいそう」

「外国籍を言い訳にしようとしないで」

「でも、例えばアメリカの市民権を得るには、永住権を得てから更に数年の期間が必要……その間、必死に書写に励んでいた方が、よっぽど経済的だし、スキルになるような気がしてきた。先生はそのあたり、どうお考えで?」

 千知岩さんは友達みたいなノリで、ちょうど近くにいた先生に話を振った。先生は「そうねえ」と口元に手を当てる。

「千知岩さんは、筆の扱い方を身体で覚えた方がいいかも」

 千知岩さんのフリを承けているようで、無視していた。まあ、千知岩さんの発言は戯れ言だったし、仕方ない。

 先生の言葉に千知岩さんは首を傾げる。

「身体で覚えるって、そんなスポーツじゃあるまいしッ──!」

 わたしは息を呑んだ。先生は千知岩さんの背後に回ると、その手に自らの手を重ねて、ゆっくりと文字を書き始めたのだ。

 書道の先生はもともと偉い流派の跡取り娘で、すごい業績を立てたらしいけど、いろいろあって高校で教えることになった人らしい。ウィキペディアにも名前が載ってる。

 それくらいの人なので、他人の手を使って書いた字でも、お手本の文字のように立派で美しいものになる。あんまりにもうまいので周りの子たちも興味を持って、のぞき込んでは

「すごーい」と声をあげている。

 わたしは先生の作品よりも、千知岩さんの顔色の方を凝視していた。人肌に敏感な千知岩さんは、わたしが触れたときと同じようなどうしたらいいのかわからないような顔をして、ことの成り行きをただただ見つめていた。とてもかわいい。いつもなら心がときめいて、素晴らしい思いを抱く表情、なんだけど。

 今回は、心がざわめいていてしょうがなかった。

「はい、完成──って、千知岩さん? 静かになっちゃった」

 仕事を終えた先生が千知岩さんに声をかける。ほどなくして周りの子たちも、その静かさに注目し始める。いつもだったら、自分の手からすごい作品が生まれた感想を、すごい勢いでまくしたててもおかしくないのに……。

「千知岩さん静かだ」「前もそんなことあったよね」「英語の時間じゃない?」「もしかして、手を触られるの恥ずかしいの?」「なにそれ、ギャップ萌えじゃん」

 そんな感じのひそひそ話が聞こえてくる。わたしはひどく落ち着かない気分になる。

「もしかして、触られるの苦手?」

 先生が心配そうに訊いてきた。わたしは慌てて口を挟む。

「う、うまい字ができた衝撃で、キャラがブレてしまったんだと思います」

「そう……? この感覚を覚えてほしかったんだけど……」

「もう完璧に覚えたと思います。千知岩さんはすごいので」

 それじゃあ後で書いたの見せてね、と言い置いて先生は別の子の様子を見に行った。千知岩さんは耳まで真っ赤にして、窺うようにその背中を見送った。わたしが触った時と、ほとんど変わらない反応だった。

 それはそうだ。千知岩さんが照れちゃうのは、わたしが触ったからというわけじゃない。そのことにモヤモヤを覚えるのはお門違いのはずだった。


 五月の連休明けにもなれば、みんな新生活にも慣れてくる。わたしのような人間はともかくとして、千知岩さんのように活動的な人が、他の人と接触する機会は思ったよりも多いのだと、今更のようにわかってきた。

 体育のバレーボールが始まり、何かとセンスのいい千知岩さんのスパイクで試合に勝った時、チームメンバーがわいわいとハイタッチに詰めかける。千知岩さんはMVPとは思えないくらい、あっあっ、と人肌の刺激に縮こまっている。

 そういうチャンスがなくたって、普段の生活でも「千知岩さんの手って綺麗だよね」という所感を表明さえすれば、誰でも気軽に千知岩さんの手に触れることができ、びっくりするくらい静かになっちゃう千知岩さんを拝むことができた。

 書道の時間での出来事も相まって、千知岩さんってスキンシップ苦手なんだ、という認識が広まるのはあっという間だった。

 お嬢様でいつも付き人(即席)を従え、何かとハイスペックでお喋りな千知岩さんが、そんなかわいらしい一面を持っているということで、にわかに千知岩さん人気が沸騰し出した。

 今日も今日とて、昼休みになった途端に占い大好きな子たちが千知岩さんの手相を見たいと、席までおしかけてきている。千知岩さんも占いが好きらしいので、快く乗ってあげていた。

「幼い頃はまだ日本にいたんだけど、その時にも見てもらったことがあって、その時はかわいいおててだね、なんて、子供向けの台詞しか言われなかったから、ずっと私の手は一体何がどうなっているのか、気になっていたところだったの。ちょうど良かった──って、ちょ、ちょっと……そんなに触ると、恥ずかしいでしょ……」

 照れる千知岩さんを、占い集団はほんわか顔で見ている。周りを窺うと、そんな様子の千知岩さんをこそこそ盗み見たり堂々と凝視したり、いろんな勢力がいる。

 わたしの心のうちのモヤモヤは、広まっていく一方だった。

 スキンシップへの恥じらいがあってもいい、そっちの方が親しみやすいから、といつしかわたしがアドバイスした通りのことが進行している。

 でも──それは、千知岩さんがスキンシップを克服しないようにするためだ。親しみやすさなんて、咄嗟に口から出た方便みたいなものだった。わたしが、静かな千知岩さんを見たいがための。

 そして、今、わたしはこの欲望には更に先があると知った。

 わたしだけが、千知岩さんを黙らせたい。

 わたしだけに、その表情を見せて欲しい。

 あんまりにも独善的な欲求にわたしは自己嫌悪している。そんなガキ大将じゃあるまいし、人気者の千知岩さんを独占しようなんて、どうかしてる──けど「どうかしてる」と自分を制するほど、狂おしくなる。

 そんな屈託した思いのわだかまる複雑な心持ちで、千知岩さんが手相そっちのけで手をふにふにされている姿を見ていたら、ふいに千知岩さんがわたしの方を見た。困り果てた目で「どうにかして……」と訴えかけてきている、ような気がした。

 その弱々しい眼差しに、わたしの感性のどこかがヒリついた。連れ去りたい、という言葉が閃いた。

 そう、わたしは、この千知岩さんを誰の目にも届かないどこかに連れ去りたいんだ。そう気づいた瞬間、頭の中がクリアになった。恐れとか気遣いとかいう余計な感情は消え去り、純粋な欲求がわたしを行使する。

「千知岩さん、そ、そろそろあの件の時間だけど」

 声をかけると、占いっ子たちがぱっとこちらを見た。集まる視線に嫌な思い出がよぎって、舌の奥にじんわりと胃液の苦さが滲んだ。

 でも、大丈夫。わたしには千知岩さんがいるから。

「な、なんの件……?」

 千知岩さんはぽかんとしていた。わたしは焦った。

「せ、先生に呼ばれてたでしょ」

「そうなの?」

「そうなの!」

 ピュアかよ! と突っ込みそうになった。でまかせに決まってるのに。お腹痛いって言って早退したりサボった経験ないのか。まあ、ないか。

 わたしは立ち上がると、ばっと千知岩さんの腕を掴み、占いっ子たちに言う。

「ご、ごめんね、占い結果はあとで教えて……」

「え、あ、うん」

 戸惑う彼女たちを置いて、わたしたちはバタバタと教室を出ていく。廊下に出てから、どこに行けばいいのか迷った。人気のない場所、と考えて、ぱっと浮かんだのは裏門だった。

 とにかく千知岩さんを遠くに連れて行きたくて、勢い余って門から出てしまった。いつも迎えの車を待っているところだけど、向こう数時間はあのセダンはやって来ないだろう。

「舟田、えっと……先生は……」

 千知岩さんがおどおどしている。見ると、わたしは知らぬ間にその手を、ぎゅっと握っていた。それでも頼りなく感じて、もっと強く握った。

「千知岩さん、やっぱりこれ、克服しようよ」

 千知岩さんは困惑の表情を浮かべた。

「ええ……そのままでいいって、前に……」

「うん、いい。いいと思う。だけど、前にそう言ったのは、千知岩さんのこんな姿をわたしだけが知ってたからだよ」

「どういうこと……」

 千知岩さんはチワワみたいにうるうるな瞳で見つめてくる。わたしはこの純粋なかわいさを、どうにかこうにかしようとしている。もはや犯罪だ。でも、ここまできたらどんな罪名がついたって、しょうがない。受け入れるしかない。それくらいのところまで、わたしの覚悟はついていた。

「さ、察してよ。みんなには見られたくない。わたしだけが見てたい。だから、克服して欲しいって……そういうこと」

 言ってしまった。千知岩さんは既に真っ赤っかだけど、わたしも負けず劣らず耳とか目頭に熱を感じ始める。こんなに緊張して、こんなに怖くなるなんて思わなかった。こんなのまるで、告白でもしてるみたいじゃないか──。

 千知岩さんは静かになった。裏門の田んぼ道には風の通る音だけが、柔らかに響いている。握りしめた手の脈がドクドクとうるさいくらいだった。静かな千知岩さんを見るのは好きだけど、今ばかりは喋って欲しかった。キモッとかそういう素直なのでもいいから、その声を聞きたかった。

 やがて、千知岩さんは口を開いた。

「……矛盾してる」

「矛盾……?」

 その言葉に気を取られた隙に、千知岩さんの手がするりと逃げ出した。空いた手のひらに五月の涼しい風が吹き込む。

 わたしの体温を離れてなお、千知岩さんは恥じらうように言う。

「みんなに見られないようにって、私がこの弱みを克服したら、あなたも……見られなくなってしまうじゃない」

 心臓の鼓動が高まっていくのを、わたしは感じた。

「それはよくない」

「そうでしょう……」

 千知岩さんは、わたしをまっすぐに見ている。その眼差しの裡には、不安のような、希望のような、複雑な感情の色が旗のように揺らめいていた。

 その綺麗な瞳を見て、わたしはようやく、地に足をつけられたような気がした。

 わたしは言った。

「それなら、わたしにだけ、見せてくれるようになればいい」

「えっ……」

「みんなに見られるような場所では、誰かに触れられても、千知岩さんらしく、いいとこのお嬢様らしく、堂々と振る舞えるようになってよ。逆に……触られて、恥ずかしくなって、静かになっちゃうのは──わたしだけにして」

 言っているうちに、頭の中がぶわんとしてくる。アドレナリンがえらい勢いで出ているんだろう。確かに、正気でこんなことは言えない。あまりにも正直すぎるし、わがままがすぎる。でも、言わなくちゃ──どうしてm言わなきゃ、という気持ちだけが、わたしを後押ししていた。

「そ、そんなこと、ムチャだって……こ、これは、生理現象なんだし……」

 千知岩さんは胸元でぎゅっと、自分の両手をつなぎ合わせる。そのいじらしい様子に、わたしの中で、何かのフタがバッと開かれた。

「ムチャじゃないよ」

 わたしは、千知岩さんの肩に触れた。ぴくりと震える感触が指先に届く。

「他の人が密着しても、その体温がほど遠く感じるくらい、どうってことないって思えるくらい……わたしに、近づけば」

 わたしだけが、千知岩さんを黙らせたい。

 その唇の動きを止めてみせたい。

「でも……こんなの、付き人としての職分を超えてる、かな」

 わたしは千知岩さんに問う。半分意地悪で、半分躊躇いだった。こんなところまで来ても、怖さだけは拭えなかった。そんなわたしの意気地のなさのせいで、千知岩さんは泣きそうな顔になってしまった。

「い、今更ぁ……? わ、私をここまで追い詰めておいて……」

「だ、だって、千知岩さんも望んでくれないと……ムリヤリになっちゃうし……」

「こんなところで、わ、私に主導権を押しつけないでよ」

「でも、雇い主だし……」

「あ、あのね、私はっ」

 突然に、千知岩さんは口調を強めて言った。

「最初から、あなたと、友達になれればいいと思って……話しかけたんだけど」

 不意打ちじみた告白に、わたしは絶句する。

「え……でも、やけに高圧的に、付き人になれって……」

「それは……し、仕方なかったの」

 ぷいとそっぽを向いてしまう千知岩さん。

「私は、これまで千知岩の関係者による、用意された友人関係の中でしか暮らしてこなかったから。つい最近までいたアメリカの日本人学校もそう。みんな知り合いで能力や性格もはっきりしていて、家族ぐるみの付き合いがある。そんなあったかい環境から、ポーンと日本に連れ戻されたものだから、新しい環境での友達の作り方なんて知らなかったの。だから、その……とりあえず、マンガとかドラマとか参考にして、話せる人を作ってみようと思って」

「それで付き人……?」

 ──最初に出会ったってことを私は大切にしたくて。

 わたしは千知岩さんが、そう話していたのを思い出す。あれは混じり気のない、本当の気持ちだったのだろう。

「でも、そうやって誤魔化すように舟田と話すようになっちゃったから……私が、あなたのことを縛ってしまったんじゃないかと、心配になってしまって……」

「ロブスターをごちそうしてくれたの」

「あの時は本当に、あなたへの感謝の気持ちを伝えたくって、あわよくば、その……付き人という関係を解消して、改めて、対等な友達同士になれたらって思ってたんだけど……」

 あの時、千知岩さんは、わたしの心の傷を感じ取って、差し出そうとした手を引っ込めてしまったのか。そうして、雇用主と被雇用者の関係を継続せざるを得なくなった。

 がっかりしただろうな。

 と、わたしは、今になってその時の千知岩さんの気持ちを思い、胸が苦しくなった。

「そうだったんだ……」

 千知岩さんはそこで、ようやく顔をあげてくれた。

「だから、私は、今……あなたがそう言ってきてくれて、少なからず、嬉しく思ってるって、そのことだけは伝えたい、かな……」

 ドギマギとした表情で、落ち着かないように視線を泳がせながら、それでも照れや恥ずかしさを押し通して言ってくれる千知岩さんは、ただひたすらに可愛くて愛おしい存在になり果てていた。

「千知岩さん……」

 感情がドライブしている。

 わたしが、わたしだけが──千知岩さんを静かにさせられる存在でありたい。そして、たぶん、おそらく、きっと、この欲望は千知岩さんが人肌を克服するための、たったひとつの処方箋なんだと思う。

「わたしは……千知岩さんの、特別になりたい」

 わたしは告げる。千知岩さんは驚いたように、ちょっと目を見開く。

「……そう言ってくれるのね。よかった。自分で言ってしまうのもなんだけど、私はどうしても浮世離れしているというか、人の感情に疎いと思っていたから、あなたとのこともこれでいいのかどうか、いろいろと心配してひとりで悶々としていたから、本当に素直な言葉で、私に思っているところを吐き出してくれて、とても嬉しく思って──んんっ!」

 千知岩さんの、息を呑む音がすぐ近くで聞こえた。

 千知岩さんの、花のような香りがいっぱい飛び込んできた。

 千知岩さんを静かにする方法、その中でもとびきりのもの。

 それは、ひとひらの口づけだった。

「あっ……」

 唇を離すと、千知岩さんは子供みたいな声を漏らした。その可憐な手で咄嗟に口を隠して、まん丸な目をしてわたしをまっすぐに見る。

 なんて愛くるしいのだろう。

 わたしは、その固まった身体を抱き寄せて、耳元でささやく。

「これで……わたし以外の誰かが触れてもへっちゃらだよね。こんなにわたしが、深く、近づいたんだから」

「う、うん……」

 千知岩さんは、こくんと小さくうなずきながら、か細い声で答えた。

 こうして、わたしは千知岩さんと、お嬢様と付き人を超えた関係になることができた。それを友達同士というにはあまりにも淡泊すぎ、かといってそれ以外になんと表現すればいいのか知らないし、あんまり興味もない。別に、それでいい。

 一応、その後、千知岩さんの毛筆の字が飛躍的にうまくなったのは、わたしのお陰であるといって過言ではないことは強調しておきたい。


  五


 時折、あの時の香りと感触が彗星のように閃く。あれから何十年も経ったようで、指折り数えるとたったの三年にも満たない。もう、卒業も近い。

 なんてエモーショナルに思い成したりしてるけど、いまトイレ中なんだよな、と真顔で思う。この狭い空間でやけに気分が落ち着いちゃうのは、習い性みたいなものだった。

 お手洗いから戻ったら、待っていてくれているはずの千知岩さんがいなかった。カフェとか飲食店でやられていたら真っ青になるけど、ショッピングモールで散策中、行きがけのトイレだったので、「えっ?」くらいで済んでいる。

 スマホにも連絡がないので少しその辺を探してみたら、すぐに見つかった。千知岩さんは手相占いを受けていた。人生経験豊かそうなおばさんに、ぷにぷにと手を弄ばれている。出会ったばかりの頃の千知岩さんだったら、それだけで顔の汚れたアンパンマンみたいになってたな、と懐かしい気持ちになった。

 第三者が占いに首を突っ込むのもどうかと思って、近くのベンチでスマホいじって待ってたら、しかつめらしい表情の千知岩さんが寄ってきた。

「待たせてごめんなさい」

「いいよ。手相占いなんて突然だね」

 立ち上がりつつ何気なく言うと、千知岩さんはなぜか面食らったような顔をして、それから照れるように視線を逸らした。

「……あなたに初めてキスされた日、連れて行かれる前にクラスの子に手相見てもらってたけど、その結果を聞いてなかったのをなんとなく思い出して」

「あ、あー……そんなこともあったね」

 千知岩さんも同じ風に思い出していたらしい。あんまりにも初々しい、若き日の記憶にわたしは猛烈に恥ずかしくなる。裏門でやったんだっけ。誰かに見られてたら、どうするつもりだったんだ。

「それで、なんて言われたの」

 あんまり長く浸る記憶でもないので、わたしは先を促す。千知岩さんは、はっとしたように喋り始めた。

「それがね、私たちって入試が終わって大学も同じところに決まったばかり、もういろんな肩の荷が下りて、これから一生安泰みたいな気持ちで、今はこうして羽目を外して遊んでいるわけだけれども、あなたがふっとお花摘みに立ってしまって、ひとりきりになった途端に、これからのことをひとしきり考えて、なんだか焦りが出てきてしまったの。そんな時に、あの占いの看板が目に入ったのだから……」

 千知岩さんは話を中断して、わたしの目を見た。手元でわたしは、その滑らかな彼女の手を握っている。

 千知岩さんは、わたしの手を握り返しながら、いたずらっぽく笑った。

「今は長台詞をお望みじゃないのね」

「占いの結果って、わたしにも関係あるんでしょ」

「ええ。大事にしているものがあるなら、いつでもどこでも常住坐臥、近くに置いておきなさいってアドバイスされて」

「なんか情熱的だね」

「それで、心に決めたの。舟田、高校を卒業したら、大学に信じられないくらい近い家を借りて、一緒に住みましょう」

「え……え?」

 わたしは、ぽかんとして立ち止まってしまった。過剰な情報量につき、脳みその処理ストップ。先に進もうとした千知岩さんも、わたしの手がついてこないことに気づいて、一緒に足を止める。

「お金のことなら心配しなくて大丈夫。家賃だって私の方で負担するし、面倒な手続きとかもこちらで全部なんとかする」

「いや、いやいやいや! そこまでは流石に甘んじられないって!」

 ただでさえ、たまのお出かけで貢がれまくっているのに、衣食に加えて住のお世話までされてしまったらわたし、人としてダメになっちゃう。

 血相を変えるわたしに、千知岩さんはふふ、と笑ってみせる。

「舟田ならそう言うと思った。でも、これは私のワガママとも受け取って欲しいの。甘んじたいのはむしろ、私の方」

「ど、どういうこと?」

 困惑するわたしに、千知岩さんは秘密を打ち明けるように言った。

「私、家の管理は今まで全部人任せだったから……家事がなーんにも、できないの」

 目が点になった。ここに来て、また新しい属性が出てくるの?

「ねえねえ、お願い、舟田! 私専属のメイドさんになって、朝起こしてご飯作って洗濯して掃除してニュースまとめてタスク管理して!」

「ほ、ホントにワガママだーっ!」

「ねえ、お願いお願いお願い!」

 お願い、と無限に連呼しながら、ぐいぐい詰め寄ってくる千知岩さん。

 こんなくだりを最初の最初にやったような気がするけど、あの時と違っておでこは既にくっついてるし、手は万力みたいに握りしめてるし、もう手のつけようがなくなっている。わたしも罪なことをしたものだ。

 なんせこの世界で、千知岩さんを静かにする方法を持っているのは、もうわたししかいないのだから。

「お願いお願い、六本木でも新宿でも飯田橋でも月島でも、どこでも良いとこ住んでいいから──ん!」

 ほんの一瞬、よく動くその唇を、唇で押さえつける。

 それだけで、千知岩さんは電池が切れたように静かになる。耳の先まで赤くして、ぎゅっと口を固く結んで、目を潤ませてわたしをじっと見ている。その姿は何年経っても色あせない、国宝級のかわいさだった。

 わたしは優しく諭すように、言った。

「わかった。いいよ。お世話してあげるから」

「う、うん……ありがとう……」

 しおらしくお礼を告げる千知岩さん。愛おしい。こんな子が、わたしを常に傍らに置いておきたいと駄々をこねてくれるなんて、大好きな感情が溢れて止まらない。

 その駄々を、こんなちょっとした行為で抑えられてしまうという、少しの背徳感も含めて。

「わたしの方こそ、ありがとう、千知岩さん」

 幸せだな、とわたしは思った。

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