鍛錬之輪
ここは、下町に建つ雑居ビルの一室。
入り口には、ごくごく平凡な名前の会社名が書かれている。
スチール製のドアを開けて中へ入ると、町工場にありそうな広さ八帖程の小さなオフィスが眼前に広がる。
ここに作業着姿の従業員でもいれば、至極普通の事務所だと勘違いするところだ。
「なぁ、リー。ボスって、ゴリゴリのマッチョ系が好きな感じだったりする~?」
「無駄口をたたく暇があったら、表計算ソフトの使い方でも覚えてくれ、ヒュン。あと、その間延びした口の利き方を改めろ」
土足のままソファーに横臥している襟足の長い髪をした青年が、オールバックに撫で付けて細縁の眼鏡を掛けた神経質そうな青年に話し掛けた。リーと呼ばれた方の青年は、事務机の上に置いてあるノートパソコンのキーをたたきながら言葉を返した。
その後、リーは薬指でターンとエンターキーを押してからファイルを閉じ、立ち上がってソファの方へ移動した。リーが立ち上がったことに気付いたヒュンは、見るともなしに眺めていた雑誌から目を離すと、身体を起こして座り直した。
「こちらへどうぞ~。若社長、入りま~す!」
「僕は、高級ワインではない。前職を引き摺るな、ヒュン」
「それは、こっちのセリフだよ~。リーだって、お堅いまんまじゃん。もう、お役人でもないのにさ~」
「一緒にするな。こちらは、あくまで仕事に真面目なだけだ」
リーは、油断すると己のコンフォートゾーンにずかずかと踏み込んでスキンシップを図ろうとしてくるヒュンに睨みを利かしつつ、ソファーの前のローテーブルに投げ出されていた雑誌を手に取り、パラパラとページをめくった。雑誌は二月九日の発売にちなみ、ボディビル大会の特集記事が組まれている。
ヒュンはこの記事を見て冒頭の発言に至ったのかと、リーは納得した。
「あっ、そうだ! この前、お客さんからお預かりしたゲームがあったんだった~」
「待て、ヒュン。薬代は回収できなかったのではなかったのか?」
「うん。あのブタ野郎、逆さにして振っても小銭ひとつ落とさなかった~。でも、俺は手ぶらで帰りたくなかったから、おみやげをもらってきたんだ~」
「まったく。カネ以外はゴミだから持って帰るな言っただろうが」
「怒んないでよ~。おもしろそうだったんだもん」
ソファから立ち上がったヒュンは、自分の名前が書かれたロッカーを開けると、中から据え置き型のゲーム機を取り出した。箱には「鍛錬之輪」と書かれており、髪が赤々と炎のように燃えている筋肉質な青年とリング型のコントローラーのイラストも描かれている。
「じゃ~ん! ボスもいないことだし、ちょっと遊ばね? なんか、こいつをプレイすると身体がいい感じにきたえられるぞ、みたいなことを書いてあるんだ~。イッセキニチョーじゃん」
「はいはい。言い出したら聞かないのは分かっているから、付き合ってやろう。一時間だけだからな?」
「フウ~、イエ~イ!」
ローテーブルを端に寄せたり、部屋の隅からキャスター付きの台に乗っているテレビをソファの向かい側にセットしたり。諸々の準備は、リーが慣れた様子で手早く済ませた。準備が終わるやいなや、ヒュンはリング型のコントローラーを両手に持ち、ニューゲームをスタートした。
最初のうちは、物珍しさも手伝ってか、ヒュンは快調にミッションをクリアしていたが、ステージも中盤に差し掛かると、弱音を吐くようになってきた。
「もっと二の腕に力を入れろ。全然、敵に効いてないぞ」
「あ~、ダメ! これは、俺に大ダメージだ~」
選手交代。疲れと飽きからギブアップしたヒュンに代わって、リーが操作する番となった。
ヒュンよりは体力も筋力もあるリーだったが、リズム感覚が絶対的に欠如していたため、なかなか思うように進まない。そのことを、リーは苛立たしく感じている様子だが、ヒュンは面白がっているようだ。
「ヘイヘ~イ、リー選手。そんなにドタバタしてちゃ、ムラサキウシコウモリは倒せないぜ~」
「煽るな、馬鹿。集中できないだろうが」
加えて、リーは身体も固いらしく、特に股関節周りの柔軟性に乏しく、開脚の角度は見本と違って鋭角になっている。
そこへ休憩して体力が回復したヒュンが、マッサージを称してちょっかいをかけはじめる。
「お客さん、だいぶ凝ってますね~」
「押すな、ヒュン。それ以上やったら、筋を痛めるから」
「ダイジョブ、ダイジョブ~。ちょっと痛いくらいが、気持ちいいんだって~。先生に任せなさ~い」
「素人が真似するな」
ニヤニヤしながら、ヒュンはリーの背中に乗せた両手に体重を掛けた。すると、リーはギッとカエルの潰れたような声を上げたあと、背中を丸めて太腿を押さえた。ヒュンは、心配するどころか、その情けない姿を滑稽に感じたようで、シンバルをたたく猿のゼンマイ人形のように両手を打ち鳴らして大笑いしている。
そこへ、ドアが開く。ドアの向こうからは、ビビットな赤に染めた長髪が目を惹く女性が、つかつかとヒールを鳴らして現れた。
「あら? いつから、この事務所はフィットネス施設になったのかしら?」
「あっ、おかえり~。ボス、早かったっすね~」
「ただいま。留守中、ずいぶんとお楽しみだったようね。さぞかし、仕事の進捗が順調なのでしょう。報告が楽しみだわ。まさか、まだ書類が整っていないなんてこと、無いわよね?」
「も、もちろんですとも」
この日、ボスは暗くなる前に帰宅したが、オフィスには翌朝未明まで煌煌と灯りが点り続けたそうな。
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※おまけイラスト
■ゲームプレイ中のヒュンとリー
■特集記事のイメージ写真