6項
「こりゃああぁっ! カムフ!! 何をサボっておるか!!」
旅館内に響く怒声。
エントランスを一望できる階段から勢いよく駆け下りてくる老人。
持っていた杖を振り上げ、曲がっているはずの腰を真っ直ぐにさせながら。老人は急ぎ青年へと駆け寄る。
が、その無茶が良くなかったようで、老人は階段を下りきるなり、むせ返りながら腰を丸めた。
「あーほら、無理すんなって、じいちゃん」
怒りの矛先である当の青年ことカムフは狼狽えることなく。むしろ苦笑を浮かべて返す。
そんな余裕ぶった言動がまた老人―――彼の祖父の怒りを逆撫でてしまい、彼は睨みながら言った。
「ば、ばかもん…わしゃあ、まだまだ、いけるわい…!」
呼吸を整えながらも反論する老人はカムフへ杖の先を突きつけた。
「お客様を見送った後は直ぐにシーツの取り替えじゃ! それと風呂場の掃除もまだ残っておる!」
カッカと顔を真っ赤にしている祖父に対して、カムフはため息交じりに突き付けられた杖を退かす。
「言われずともわかってるって、じいちゃん。けどさ、今日から暫くは予約も入ってないし、こんなとこにお客さんが突然来るわけもないんだし…そう慌てなくっても大丈夫だって」
そう言って呆れた顔を見せる孫に対し、益々顔を紅くさせる祖父は弾かれた杖を再び引き戻し、その頭を殴った。
「いてっ」と、カムフは頭を押さえる。
「ばかもん! いつお客様が来ても良いように、いつでもお出迎えの準備をしておく……それが『ツモの湯』の基本なんじゃ!」
「じいちゃん、暴力は良くないって…」
頭を押さえるカムフを後目に、祖父は杖を下すと旅館の玄関を一瞥した。
両扉の玄関上に飾られた、いくつかの古びた絵画。そこには歴代大将の肖像画が飾られていた。
「そもそもな! この旅館は今を遡ること八百年も昔から続いておる由緒正しき旅館でな…」
そう言ってくどくどと語り始める祖父。
その様子にカムフは呆れ顔のまま、また始まったとばかりに吐息を洩らした。
祖父にとってこの『ツモの湯』は、何よりも代え難い宝であった。
歴代大将が守り続けたこの旅館が誇りであり人生そのものである祖父は、旅館の伝統と歴史を次代の大将である孫に教えるが生き甲斐と言っても過言ではなかった。
それ故に、こんなにも口うるさく頑固な性格になってしまったようで。
そんな性格故に、旅館を新しく建て直すなんて以ての外。というわけであった。
「その話はもう耳に胼胝ができるくらい聞いてるって…」
しかし、毎度延々と聞かされ続けているカムフにしてみれば、もう退屈で苦痛で仕方がなかった。
仁王立ちで語る祖父を横切り受付カウンターに座ると、カムフは頬杖をついて「早く話終わらないかな」と切に願うのが日常茶飯事であった。
「更にこのツモの湯にはその昔、『花色の教団』の開祖と謳われている聖人、『花色の君』が訪れたこともあると云われておってだな……おい、聞いておるのかカムフ!?」
「はいはい、聞いてますよ」
カムフは適当に返事をし、退屈そうにもう一度ため息を洩らす。再度長い長い旅館の歴史を語り始めた祖父を見つめつつ、カムフは今日の晩御飯はどうしようか。などと考えに耽っていた。
そのときだ。
旅館の扉が突如勢いよく開いた。
「大変だよ! カムフ! ノニ爺!!」
何事かと一瞬目を丸くして玄関を見た二人であったが、その正体に気付くなり、二人はいつもの表情へと戻っていく。
「村に帰って来たんだな。おかえり、ソラ」
「こりゃソラ! 扉は静かに開けい! まだまだ現役でも流石に寿命が縮まるじゃろが!」
穏やかにソラを迎え入れるカムフとは対照的に、彼女に向かって杖の先端を向けて叫ぶ祖父―――もといノニ爺。
「そんなことより大変なんだって! ホントに!」
しかしノニ爺の怒声に恐縮する様子もなく、ソラは彼よりも大きな声で訴える。
よく見ると村で一番体力のある彼女が肩で呼吸をし、その表情は真っ青に染まっていた。
と、直後。ソラは力無くその場に座り込んでしまった。
ただ事ではないようだと、ようやくカムフは慌てた様子で彼女へと駆け寄った。
「ど、どうしたんだ?」
蹲るソラの身体を起こしつつ尋ねるカムフ。
緊張が走り、思わずノニ爺も息を呑む。
「まさか…セイランの身に何か―――」
「や、山に魔女が! 真っ黒魔女が出たっ!!」
ちなみに、『真っ黒魔女』とはソラが祖母から聞いた伝承の通称だ。
その単語をソラが叫んだ直後、カムフとノニ爺は顔を合わせ、それから声も合わせて言った。
「はあ?」
「はあ?」




