5項
男たちが撤退した後、森林は元の静寂さを取り戻していく。
絶体絶命と思われた危機が過ぎ去ったことで、ソラの身体も少しずつ動けるようになっていく。
「た、助かった…」
まだ立てはしなかったものの、ソラはゆっくりとその上体を起き上がらせ救世主の方を見た。
「あ、あの…助けてくれて、ありがとう!」
ソラは身体に付いた土汚れもそのままに、丁寧に頭を下げる。
一瞬だけ見えたその人影に、ソラの胸が思わず高鳴りときめいた。
(なんだか…困ってる人を助けてくれるなんて…まるで王子様だ…!)
普段は兄以外にはピクリとも反応しない乙女センサーが、こんな状況―――吊り橋効果もあってか、心臓が高鳴るほどに反応していた。
「ふぅん…」
男性にしては高めの、しかしながら透き通るような凛とした声。
ゆっくりとソラへ近付く足音に、彼女の鼓動はより一層と高鳴っていく。
居ても立っても居られず、ソラは顔を上げて救世主を見つめた。
「―――怪我はないみたいね」
彼と目を合わせた瞬間。ソラの身体は硬直した。
それと同時に、彼女はこんなときではあるが、不意に祖母から聞いていたもう一つの話を思い出していた。
『……あの採掘跡…坑道には決して近付いてはいけないよ。村の者だって近寄ろうとはせん…何故ならあの辺りにはね…髪の毛から足の先、唇までも真っ黒で、三つの目を持った.…大男にも負けない巨体の魔女が住んでいるんだよ。そして魔女に捉まったら最後、全身を真っ黒にされて魔女に喰われてしまうのさ』
それはよくある子供に言い聞かせるための寓話の類なわけだが。それでも子供にとってはトラウマになることもある。
ソラもこの話を聞いた幼少時代は恐怖のあまり泣いてしまい、兄を困らせた。
そんな思い出を、彼女はまさに今思い出していた。
というのも、その原因は目の前に立つ救世主にあった。
細身ながらも引き締まった長身の体格。風に靡く一つに束ねられた長い黒髪。
ファーの付いたダークメタルに輝くコート。その内に着るタートルネックの服も、革製のブーツも全て黒色に統一されている。
それだけならばまだ全身黒尽くめコーディネートのイケメンというだけで済んでいた。
が、しかし。救世主は爪も唇も黒色―――というよりはまだ赤みが映える色だが―――に塗っていた。その外見は明らかに男性であるはずなのに。というのはソラの偏見であるのだが。
奇抜とも言える出で立ちの救世主は、ソラの幼少のトラウマを蘇らせてしまうには充分であった。
「あ、うっ…!!?」
ソラは思わず驚愕の声を出してしまう。
ガチガチとソラの歯が音を立て、先ほど以上の恐怖心で全身が震え出していく。
そうして、かつて思い描いた魔女と、男性が重なった次の瞬間。
ソラの足は勢いよく地を蹴っ飛ばした。
「うわああああぁぁぁぁっ―――!!」
彼女は先ほどの男たちたちと同じような叫び声を上げながら逃げ出した。
しかも何処にそんな力があったのかというほどの全力疾走で。それは所謂『火事場の馬鹿力』というものなのだろうが、今のソラにはそんなことを考えている余裕すらなく。
ただただ必死に、がむしゃらに走っていった。
そして一人取り残された救世主は、鳥たちが羽ばたき囀る森林の中で目を細めて呟いた。
「何、あれ…」
アドレーヌ王国最南端に位置する山麓の村、シマ。
簡素で質素。まさに寂れた村であるが、今から八百年近くも昔に作られたという歴史ある村でもあった。
元々は秘湯から発展した湯治場として作られたのだが、一時期は近隣の山でエナ石採掘が盛んだったことやとある事情もあって大いに賑わっていたこともある。
他にも、近年は村の南方に聳えるエダム山の登山客で、その界隈では重要な拠点ともなっている。
がしかし、結局のところは人口の大半が老人という、寂れた村に他ならない。
「ありがとうございましたぁ!」
村の外れ、森林に囲まれた大きな館。それがこの村唯一旅館『ツモの湯』だ。
そのツモの湯から出て行く人たち―――宿泊客へ丁寧に腰を折り曲げる青年が一人。旅館の前にいた。
宿泊客は満足した笑顔を青年に向けながら何度か手を振りつつ、村の方へと消えていく。
客人たちの姿が見えなくなった頃合いで、ようやくと青年は頭を上げた。
「良い人たちだったなあ…」
一人うんうんと頷き満足しながら青年は旅館内へと戻る。
旅館内。そのエントランスは広さこそ十二分にあるものの、良く言えば味のある、悪く言えば古臭い木造づくりで。それ故に歩く度に床はギシギシと軋む音を立てており、すきま風も酷い。
次に酷い嵐が来ようものならば、まず間違いなく旅館は崩壊するだろうと青年も自覚しているほどだ。
何度か修繕作業はしているものの、ちゃんとした改装や建て直すということは全くしない。しようともしない。
その原因は青年の背後へ迫るその者にあった。




