2案
―――だが、キ・シエだけはそれでもだめだと、思っていた。
彼は老人へ歩み寄り、深く頭を下げた。
「…頼みがあります長。僕を、外に出してください」
「なっ!?」
驚いたのは長である老人だけではない。
周りに居た女子供はもちろん、キ・ネカも驚きに目を見開かされる。
キ・ネカは老人から腕を放し青年と向き合った。
「だめよ! 近くに奴らが来ているかもしれない…そんな所へ出てしまったらあなたは…!」
飛び付き、キ・シエの腕にしがみ付くキ・ネカ。
暗闇の中であったが、涙を流していることは容易に想像出来た。
彼女が涙もろいことはよく知っていた。
キ・シエは心を痛め、眉を顰める。
しかし、だからといって彼女の涙に負けて此処に残るわけにはいかない。
「この洞穴も完全に安全であるとは言えない。奴らが見たこともない力を使ってくるやもしれない…」
キ・シエの発言は晶の力を疑っているものともとれた。
本来ならそれは伝の教えに反する発言であったが、今重要なのはそこではなく。
長は彼の失言を聞き流し、そのまま静観を続ける。
「だから、出来るだけ此処から奴らを遠ざけてこの洞穴を…避難している仲間を守りたいんだ」
「そんなことしなくたって良い!」
彼は自らの命を犠牲にしてでも、仲間を―――彼女を守ろうとしていた。
そしてそれが解っているからこそ、キ・ネカは何が何でも彼を止めようとしている。
服袖を力強く引っ張り続け、涙ながらに彼女は訴える。
「お願い…私と一緒にいて…」
泣き崩れ、その声は洞穴内に響き渡る。
キ・シエはそんなキ・ネカを優しく抱き寄せた。
互いの鼓動が聞こえるように、力強く。
「愛しているよ…キ・ネカ」
そっと、囁くように呟いた。
彼女の引く力が、徐々に弱まっていく。
「僕は君に生き残ってもらいたいんだ…これから生まれる我が子のためにも」
彼の言葉にキ・ネカは目を丸くする。
「気付いてたの…?」
驚きながら彼女はキ・シエと視線を交える。
その暗闇の中でも映える、大輪の花のような真っ赤な双眸を見つめながらキ・シエは微笑む。
「なんとなくだけどね…」
と、彼はキ・ネカの腹部へ優しく手を添える。
まだ大きくは無いそのお腹には、二人の愛の結晶が宿っている。彼らにとってそれは何よりも尊くて守りたいものであった。
「…だからこそ行かせてくれ…大丈夫、必ず生きて帰ってくると約束するから」
静かに、そして優しくそう語るキ・シエ。
だがその言葉とは裏腹に、彼の双眸には強い覚悟が覗いていた。この命に代えても愛しい者たちを守ろうとする、最期の覚悟であった。
彼女はしばらくの沈黙の後、根負けしたように小さく頷いた。
「……わかったわ…でも、必ず生きて帰って来るって約束して! 大地を監視せし父神に!」
「うん、約束する。大地を監視せし父神に…」
キ・シエはもう一度笑顔を見せた後、長の方へと視線を移した。
老人も渋々と言った様子であったが、了承してくれたらしく静かに頷いた。
「お前の賢さは我が集落でも随一…だからこそ、無謀なことだけは考えぬように」
「わかっています」
そう言うと老人は岩肌に両手を当て、何かを念じ始めた。
先ほどから行われていたそれは『晶への祈り』と一族では呼ばれており、晶の力を借り、意のままに操ることが出来るという御業だ。
だが、その祈りは『晶使い』と呼ばれる選ばれた者にしか許されておらず、この集落で『晶使い』は長だけであった。
「絶対に生きて帰って来て!」
低く轟く音と共に洞穴の岩戸が開き、そこから光が射し込み始める。
朱く黄色く白くも見えるその明かりの彼方へと、キ・シエは歩き出していく。
「この子のためにも…私のためにも……お願いだから…」
振り絞るようなキ・ネカの、か細い声が耳に届いてしまった。
そんな彼女の方をキ・シエは振り返ることが出来なかった。
この選択に悔いがないと言えば嘘になるからだ。
だからこそ、キ・シエは愛する妻の顔も見ることなく、開かれた岩戸の向こうへ急ぎ飛び出て行った。
後悔のないように。
これが正しい選択だったと思えるように。
そうしてキ・シエが出たことで再度、岩戸が閉じられていく中。
その遠く洞穴の奥から、最後にキ・ネカの声が聞こえてきた。
「愛してるわ、キ・シエ!」




