37連
現在、時刻は深夜を回っていた。
王としての職務を終えた男は寝室へと向かうところだった。
今日は久しぶりに妹と再会出来たというのに、大した会話も出来ず、結局今の時間になってしまった。
歩きながら彼はそんなことを後悔していた。
「―――国王様って案外忙しいんだな。てっきり玉座でふんぞり返ってるだけだと思ってたがな」
何処からともなく聞こえてきた声
否、聞こえてきた方向は粗方察していた。
振り返ることなく―――国王は目線だけを流す。
大きな柱に隠れていた、黒髪の男。
男、と言っても年齢はエミレスと同じくらいの若輩に見えた。
「エミレスの護衛をしてくれた…密偵か。その件では礼を言おう」
国王はそう言いながら彼の方へと踵を返す。
通路の奥からふんわりと流れ込んでくる風。
それが青年の黒い髪を靡かせる。
その前髪から覗く双眸は、国王を見るものとは思えないほどに、鋭い眼光であった。
「だが年長者として忠告しておく。目上の者への態度は改めた方が良い」
「あー、そりゃ失敬。あいにく田舎育ちなもんで」
「そうか…では物知らぬ貴殿に名乗っておこう。私はアドレーヌ王国国王、スティンバル・タト・リンクスだ」
そう言って口角を吊り上げるスティンバル。
しかし相変わらず、青年は睨みつけたままでいる。
「君の名前は?」
「―――ラライ」
「で、ラライ。私に何か用かな?」
スティンバルはそう尋ねながら、柱に寄りかかっていたラライの前へ、対等に立つ。
それは国王として、というよりは目上の男性の態度として見せているようで。
そんな彼の気さくと言える対応が気に入らないラライは、小さく舌打ちを洩らした。
「アンタが…噂では良い王様とは聞いている。が、そのわりに間近の声も聞き届けてないんじゃ名折れだな。それとも、国王ってのは大勢の声が集まらんと動かないものなのか…?」
「……どういう意味だ?」
「そのまんまの意味だ」
ラライは更に目つきをきつくする。
一方でスティンバルも眉を顰め、ラライの意味深な言葉に困惑を示す。
「随分と回りくどいな…単刀直入に言ってくれ。給与の話か?」
「…さあな」
それから無言になる二人。
沈黙は長く続くと思われた。
が、先に折れたのはラライの方だった。
彼は小さく舌打ちした後、スティンバルから目線を逸らした。
「―――アンタの目、その傷のせいで何も見えなくなったんじゃないのか」
「何…?」
スティンバルが遂に見せた、怒りの篭った表情と声。
ラライは彼のその顔を見るなり、不敵な笑みを見せつける。
と、彼はスティンバルが声を上げるよりも先に、素早く柱をよじ登る。
「面倒くせーから助言はここまでだ。悔しかったらしっかり言葉の意味を考えろよ」
そう言ってラライは開きっぱなしである窓から外へと勢いよく飛び出て行った。
ここは二階であるのだが、密偵である彼ならば平気なのだろうと、スティンバルは心配こそしなかった。
が、代わりに湧き上がる感情を抑えきれず、ラライの行方を追おうとする。
通路の先、渡り廊下へと辿り着いたところで彼はようやく外を見下ろせる窓を見つける。
が、時既に遅く。
月も欠けた暗闇の中、彼の姿を見つけることは出来なかった。
「本当に…不躾なことを軽く言ってくれる青二才だ―――この傷がどれほど重いことか、解りもせずに…」
スティンバルはそう呟きながら左目に手を添えた。
左側の額から左頬に掛けてまで出来ている傷跡。
その傷は左目を再起不能にさせてしまったほどのものだった。
決して軽んじて口にして良い傷ではない。
それは怪我に対しても、その経緯に対してもだった。
そんな傷口に触れられたスティンバルは、暗闇の向こうへと消えたラライを暫く睨みつけていた。




