第十二話 リヘーランの悪夢:下
リヘーランの悪夢当日、ガルドラットは主であるナック・シュワーカーと共に討伐隊の帰還を待っていた。
「武功を考えれば、討伐隊に加わるべきだったのでは?」
平民上がりと軽んじられる主に必要な物は何よりも武功だと考えていたガルドラットは不満からナックに質問する。
ナックはガルドラットに目も向けなかった。
「武功は付いてくるものだ。求めるものではない」
そんな考えだからいつまでも立場が悪いままなのだと指摘したくなる。だが、ナックの考えがあればこそ、奴隷のガルドラットが従騎士になったのだから指摘もできない。
不満に思いながらも、今は任務に集中しようと森へ目を向けた時だった。
「……なんだ?」
森の奥から人が走ってくる。装備から討伐隊だと分かったが、凱旋してきたにしては表情が必死過ぎた。
何か不味い状況になっている。
守備隊の隊長が全体に命令を飛ばした。
「総員、警戒態勢! 中央の部隊は左右に分かれ、討伐隊を通せ! 後詰めは負傷者の手当てを準備しろ!」
防壁の前に陣を敷いていた守備隊は隊長の指示に従い、左右に分かれる。
その瞬間を待っていたのだろう。
森の奥、敗走してくる討伐隊の後ろから大量の黒い獣があふれ出た。
黒いもこもことした毛に覆われた四足歩行の獣だ。足は太く、短く、胴体ががっしりとしている。カモシカのような頭部には二本の鋭い角がついている。毛と同様に黒いその角に衣類の切れ端らしきものや内臓が引っかかっていた。
頭を振れば角に引っかかったそれらは簡単に振り払えるはずだ。しかし、その獣たちはまるで見せびらかすように角を掲げて討伐隊の後ろへと突進していく。
だが、獣の走り方には余裕があるように見えた。討伐隊に追いつくかどうかのギリギリを見極めているかのようだ。
「……まさか、追い立てている?」
獣たちの意図を理解して、ガルドラットはその知能の高さに戦慄する。
獣、テロープの群れに追い立てられた討伐隊の生き残りが守備隊の中央へと逃げ込もうとする。しかし、一頭のテロープが先回りして生き残りたちを左右に分かれさせるように角を掲げた。
「――ひっ」
引きつった悲鳴を上げて、パニック状態の生き残りは後ろから迫るテロープの群れの圧力に二手に分かれて守備隊へと走り込んでくる。
危機感を覚えた守備隊長が慌てて声を張り上げた。
「待て! 中央へ走れ! 隊列に突っ込むな!」
無駄だな、とガルドラットは剣を抜く。
完全にパニック状態の生き残りたちは周りが見えていない。テロープも守備隊の隊列を崩すために生き残りを追い立てているのが明白だ。
身体強化を使って逃げ込んでくる生き残りたちによって守備隊の隊列がかき回される。そこにテロープが角を突き出して突進してきた。
もこもことした黒い毛のせいで牛よりも一回り大きく見えるテロープが群れを成して突っ込んでくるのだ。乱れに乱れた隊列が受け止められるはずもない。
生き残りたちがこじ開けてしまった穴を目掛けて突撃してくるテロープの前に立ちはだかろうとした騎士や冒険者が弾き飛ばされる。角に一突きされて即死する志願者までいた。
大混乱に陥る守備隊を抜けたテロープを追いかける者、隊列を維持しようと踏みとどまる者、命令系統が完全に崩れたその場所で、ガルドラットだけは唯一絶対の命令を聞いた。
「ガルドラット、来い!」
ナックがふわりと、乱れた隊列を抜けて前に出る。
ナックの命令だ。一切の疑問も挟む余地がない。
後に続いたガルドラットの前を行くナックが、突進してくるテロープの一頭へと軽く踏み込んだ。
決して、速くない長剣の横一閃。しかし、テロープは避けることができなかった。
思考が反応できても動けない体勢を的確に見抜いた一撃だった。
テロープの首を斬り落としたナックは守備隊を背後に庇うように、いまだに森からあふれ出てくるテロープの群れに対峙する。
「身体構造はシカと同じだが、脚が発達しているな。急制動からの方向転換に気を付けろ」
この状況下でも極めて冷静に、ナックはただ職務を果たそうとしている。
ガルドラットはちらりと後方を確認した。
すでに町へテロープが入り込んでしまっている。守備隊が態勢を立て直し、入り込んだテロープを処理するまで、これ以上の侵入を誰かが食い止めなくてはならない。
間違いなく、武功となる。
ガルドラットは意気込んで剣を構えた。
「お供いたします!」
※
ナックに叩きこまれた通りに剣を振るう。
シローズ流は個人技の傾向が強い流派だ。
医学、解剖学の知識を蓄えて活かせる者をあまり多くそろえることができないため、必然的に少数精鋭の流派となっている。
まして、獣、それも未知の獣に対して十分にシローズ流を振るえる者など、そうはいないはずだった。
突進してくるテロープが角を突き出してくる。
らせん状の角は伸縮自在らしく、見た目以上に間合いが広い。剣を持つガルドラットの間合いよりもテロープの角による突きの方が広いほどだった。
ガルドラットは長剣でテロープの角をいなす。
テロープの目が来るだろう位置へと長剣の刃を置き、突進の勢いを逆手にとって斬りつけた。
視界を奪われたテロープが地鳴りのような低い唸り声を上げながら、角を正面に突き出してなおも突進していく。
「――っ」
視界を奪えば止まると思っていたガルドラットはテロープへ背後から飛び掛かり、上段から剣を振り下ろす。
もこもこした黒い毛の奥にある肉を断つ感触。そのまま全体重をかけてテロープの背骨を叩き折り、剣を引き抜きながら反転して次の獲物に対峙する。
ぐるりと見まわした周囲の惨状にガルドラットは歯噛みした。
乱戦に持ち込まれた守備隊は立て直しもできていない。迫りくるテロープの群れに対して個々の技量で立ち向かうしかなくなっていた。
守備隊は半数まで数が減っている。町を守るために志願した住人がほとんどだが、騎士や従騎士にも死者が出ていた。テロープの死骸は数えるのも面倒なほどだ。
町の中からも絶えず悲鳴が上がっている。入り込んだテロープに住人が襲われているのだろう。
助けに行きたいのは山々だが、この場所を離れればテロープがさらに町へと入りこんでしまう。
森を見る。
入り口にひと際巨体のテロープが悠然と立っていた。黒いテロープの群れにあって白髪が混ざるその個体は時折り短く鳴き声を上げて群れを操っている。
「なんで退かないんだよ、あいつら!」
誰かが泣きながら叫ぶ。
ガルドラットも感じていた。
この状況はあまりにも不自然だ。
これほど組織立って動ける知能の持ち主が、仲間に犠牲を強いてまで町を襲う意味がない。
目的が分からない。ただ、群れのリーダーらしき白髪交じりのテロープの眼には仄暗い憎悪の光が宿っている。
目が合った気がして、ガルドラットは歯を食いしばった。
「クソがっ!」
悪態吐く。
生まれながらに自らの境遇を恨み、世界を憎悪し、閉ざされた生を呪う。
あの眼は、奴隷の自分と同じ眼だった。
醜悪な共感に苛立ちながらも、ガルドラットの剣はぶれない。閉ざされていた生はこの剣が切り開いてくれる。それを叩きこんでくれた師であり主が、今も最前線で剣を振るっていた。
シローズ流は元々カウンターを主体とする流派だけあり、敵が突っ込んでくるこの状況では無類の強さを誇る。
ナックは川の流れを止める堰のように、テロープの群れを斬り伏せ続けていた。的確に関節を断ち、動脈を斬り裂くその剣の冴えはこの窮地で鋭さに磨きがかかっている。
ナックがいなければ、とうに守備隊は壊滅していた。ナックが最前線でテロープの勢いを殺し、ガルドラットが残敵を処理して回っているからこそ守備隊はぎりぎり士気を保てていた。
だからこそ、戦術を理解するテロープの長が放置するはずもなかったのだ。
ナックが突然、大きく後ろに跳び、ガルドラットと並んだ。
何事かと、ガルドラットはナックの様子を確認する。
ナックは驚愕の表情で剣を握る手を見下ろしていた。
「主様?」
ただならぬ気配を感じて、ガルドラットは声をかける。
ナックは一度大きく息を吐きだし、テロープの群れを見る。
ナックが下がったのとほぼ同じタイミングで、テロープの突撃が止んでいた。
ついに損害を無視できなくなったのかと、守備隊がほっとしたのも束の間、静寂を破る音が響く。
鎧を着た人間が倒れこむようなその音に、ガルドラットは反射的に守備隊を振り返った。
一人、また一人と冒険者や従騎士が倒れていくのが見えた。
「……え?」
疑問の声を上げた時、突然膝から力が抜ける。咄嗟に剣を地面に突き立てて倒れこむのは免れたが、自分の体に起きた異常に理解が追い付かなかった。
膝が震えている。その震えはふくらはぎや太ももへと伝播し、剣を握る腕にまで伝わった。
倒れる音がしなくなった。守備隊が全滅したことだけは理解できたが、原因が分からない。
混乱しながらも、ガルドラットは歯を食いしばり、剣を支えに体勢を維持する。
足音がした。
ゆっくりと、しかし確固たる足取りでガルドラットの前に出た足音の主は激闘で刃こぼれが目立ち始めた長剣を一振りして血を払う。
「邪獣の固有魔法か。一杯食わされたな」
「主様?」
ナック・シュワーカーが倒れた守備隊と砦町を背後に一人、剣を構える。
なぜ、動けるのか。震えが喉や口にまで伝播して声にならないガルドラットの疑問に、ナックは知ってか知らずか、答える。
「守れと命ぜられた騎士なれば――倒れるわけにはいかない」
ガルドラットが見たこともない不思議な構えを取り、ナックは一人、死闘を繰り広げた。
――文字通り命を懸けて戦い抜いたナックの姿と仇であるテロープの長の姿を、今もガルドラットは忘れていない。
あたかもナックそのものが砦になったかのように、間合いに入ったテロープが両断されていく。
その間合いは砦町の門を完全に塞ぐ形となり、魔法と見分けがつかない剣技がテロープを寄せつけない。
ナックが振るう剣の異常さが、ガルドラットには理解できていた。
二頭、三頭と同時に襲ってくるテロープが、同時に斬り殺される。物理的にあり得ない現象がナックの周りで起きていた。
「……聖人化?」
人が神獣となる事例は少ないながらも報告されている。聖人と呼ばれるそれらは魔法では再現できない固有の魔法を使えるようになるという。
ナックが振るう剣技が、その固有の魔法にしか見えない。
未来を閉ざされた奴隷の自分に騎士への道を示した主が、騎士の先へと進んでいる。
目指すべき姿を見せられている。
ガルドラットは興奮と憧れを胸に、必死に立ち続けた。戦えずとも、ここで倒れるような無様だけは晒すまいと。
――どれほどの時間が経っただろうか。
まるで口減らしが目的だったかのように、テロープの長はあっさりと群れを引き上げた。
残されたのは死屍累々のありさまとなった戦場。
痺れて動けないままでも剣を支えに立ち続けるガルドラットを振り返って、ナックは小さく笑った。
「後は頼んだ……」
ナックはガルドラットに託して、力尽きた。
※
派遣した騎士が壊滅したとの知らせを受けたオルス伯爵家はすぐに増援を送った。
増援を率いるオルス伯爵家の長男、トーバン・オルスは被害状況に慄然とする。
騎士は全滅、従騎士は数名が生き残るも重傷者ばかり。唯一、戦える身体状況なのは奴隷のガルドラットのみというありさまだ。
トーバン・オルスは、騎士たちが命懸けで守ったこの町を簡単に獣に落とされるわけにはいかないと、防衛強化に私費を投じる決断をする。
騎士たちの遺体を故郷へと搬送する手続きをする傍ら、戦場での出来事を調査したトーバンはナック・シュワーカーとガルドラットの奮闘に行きつき、ガルドラットの下を訪れた。
「此度の働きに報い、奴隷身分からの解放と騎士へ取り立てようと考えている」
トーバンはそう切り出すも、表情を曇らせる。
「望んでいないようだな。今のお前では騎士にはなれんか」
ガルドラットは砦町の門でリヘーランの森を睨んでいた。その形相は今にも敵を食い殺さんとする獰猛な狼か、仇討ちに燃える忠犬だった。
トーバンはガルドラットの横に立ち、同じように森を見る。いまも邪獣に率いられるテロープの群れがいる森を。
「ガルドラット、何を望む?」
「……主君の墓を、この町に」
「主君か……」
奴隷らしい物言いにトーバンは嘆息し、ガルドラットの肩を叩いて背を向けた。
「お前自身を買い戻せるだけの金も残しておく。だが、復讐に走って無駄死には許せない。故に、身柄は冒険者ギルドに預ける。……ナック・シュワーカーは真に騎士だった。その名を汚すなよ、忠犬」




