第三十九話 奥儀
実戦で魔法は斬れない。
領主配下の魔法使い、オッガンの言葉だ。
理屈を込みで教わったからリオも分かる。
猿の邪獣の濁流魔法はまさに斬れない規模の魔法だった。
だが、日頃の訓練でシラハの魔法を斬っていたリオはこうも考えていた。
魔法の規模を縮小させるか、核の規模を拡大させるように外部干渉できれば、理屈の上では魔法を斬れる。
オッガンは言っていた。
『防御魔法は核を破壊するわけではなく、それ以上進ませないようにする』
すなわち、魔法の核には外部から魔法で干渉できるのだ。
だが、魔法の核の規模を外部から変える方法となると、リオにはさっぱりわからなかった。
いや、今まで分からなかった。
濁流に呑まれたカリルが地面に叩きつけられるのを横目に、リオは腰だめに剣を構えて走り出す。
カリルが見せた行動を、その目的を、最適化の方法を、一歩毎に頭の中で整理する。
膨大な量の思考が頭を埋め尽くす。
身体強化を限界まで発動する。
目的は、余剰な魔力を外部に放出するため。
オッガンは言っていた。
『魔法は魔力を変換して発動する』
だが、身体強化についてこうも言っている。
『魔力を体に巡らせる』
身体強化の魔力は変換していない純正の魔力なのだ。
猿の邪獣がリオに手を向ける。当然の選択だろう。暴れまわっていたカリルでさえ濁流魔法の餌食だったのだから、リオなど物の数ではない。
まして、リオの動きはカリルと比べてかなり遅い。
当然だ。リオは身体強化の魔法を体全体には及ぼしていないのだから。
身体強化を胸部と喉、口に集中する。
目的は、声に純正の魔力を乗せるため。
カリルは見抜いていた。
『リオは外部放出が得意』
邪獣の手から甲羅状の石が飛ぶ。
カリルに習い、しかしより洗練された足捌きでリオは石を避けた。
石を避けられるのは想定していたのか、邪獣は慌てる様子もなく濁流魔法を発動する。今まで以上の規模だ。
その濁流魔法の規模は、リオを遥か下流まで押し流したあの日の濁流と変わらない。
あの日脳裏に浮かんだ死のイメージを振り払って、リオは口を開いた。
陽炎のような魔力を乗せ、迫りくる濁流へと声をぶつける。
「――失せろ!」
陽炎をまとう声が濁流に衝突し、濁流の内側から何かが膨れ上がった。
視認できないその何かへと、リオは腰だめに構えていた剣を逆袈裟に振り上げる。
濁流の表面で布を裂くような感触があった。
その感触は、シラハとの初期の訓練で斬った光の玉に似ていた。
ぶつけられたリオの魔力を吸収して膨張した濁流魔法の核がリオの剣に斬り裂かれる。
陽炎が見せた幻のように、核を斬られた濁流魔法が消失した。
邪獣が驚愕に目を見開く。
「お前も失せろ!」
リオは走り込んだ勢いをそのままに邪獣へと剣を振り下ろす。
渾身の一撃だった。
だが――致命の一撃ではなかった。
才能がないといわれる由縁、リオの腕力の無さ。
邪獣の左胸から入ったリオの剣は木板を二枚切り落とすも、邪獣の厚い胸板に阻まれ内臓まで届かない。
猿の邪獣が吼える。その手に持った鉄製の剣を一気に振り上げた。
「――っ!?」
リオは慌てながらもほぼ条件反射の領域で繰り出した足捌きで邪獣の剣を躱す。
見誤っていた。
通常の猿とは異なり、邪獣の猿は身体強化を使うことができる。その体の頑強さは通常の猿とはまるで違うのだ。
筋肉を斬り裂くのは難しい。
邪獣もリオの弱点に気付いたのだろう。鉄製の剣を大きく振りかぶった。
絶対にリオには防げない。避けるしかない。
避けて邪獣との距離が空けば、周りの猿が援護に入ってくる。
距離を空けてはならないのなら――縮めて避ける。
リオは覚悟を決めて邪獣の間合いへと深く右足を踏み込む。
邪獣も読んでいたのだろう、後ろへと下がりながら剣を振り下ろした。
軌道を読む。剣術の知識のない邪獣の腕力頼みの振り下ろし。
邪獣の剣の行きつく先までが一条の線として思い描ける。
――見切った!
リオは踏み込んだ右足を軸に左足で弧を描き、邪獣の剣閃から逃れる。
空を斬った邪獣の剣を無視して、リオは両手持ちした剣で邪獣の左脇の下を正確に突き刺した。
邪獣が大量の血を脇の下から流して左腕をだらりと下げる。
無力な獲物だと思っていたリオから急所を突かれ、邪獣が初めて怯えたような顔で振り返る。
だが、リオはすでに次の一撃を繰り出すべく左足で踏み込み、邪獣の斜め後ろに回り込んでいた。
高速で振り抜かれたリオの剣は邪獣の膝裏を両方とも斬り裂き、強制的に膝をつかせる。
もはや立つこともできなくなった邪獣に対して、リオは剣を振り上げた。
右足で邪獣の背中を踏みつけ、首の後ろへと剣を突き下ろす。
邪獣が悲鳴にもならない空気を口から漏らし、地面に突っ伏す。
絶命した邪獣を見下ろして、息を吐きだそうとしたリオは喉からせり上がる鉄臭さに顔をしかめて咳き込んだ。
ぱたぱたと、邪獣の上に血が降る。
限界以上に強化した喉で大声を発したことで、喉から出血したらしい。
リオは邪獣から剣を引き抜き、周囲を見る。
「……なんだよ?」
群れのリーダーを殺された猿たちは怯むどころか今まで以上に激高し、リオに武器を向けていた。
だが、リオは猿たちに対して笑顔を返す。
不可能と言われる魔法斬りをやってのけ、気分は最高潮。酷使した体はもはや痛みも覚えていない。
限界はとうに超えている。それは喉から出た血が証明している。
「だからどうしたってんだよなぁ」
戦意は衰えない。覚悟はとうに決まっている。
リオは剣を構えて猿たちに向き直った。
その瞬間、鈴を転がすような澄んだ声が響き渡った。
『雲霞を祓い、静々と雫を迎え、慈雨へ祈れ――日向雨』
シラハの詠唱だと気付いたリオは、猿たちの注意がシラハに向かう前に動き出す。
シラハの魔法を止めようと猿が投げつける石を剣で捌き、槍を持って突っ込んでくる猿の攻撃を躱し様に脇腹を深く斬り裂く。
リオがシラハの前で剣を構え直した直後、空から雫が降ってきた。
小指の先ほどの小さな水がぱらぱらと天気雨のように降ってくる。殺傷能力はなく、周囲の木々を濡らす程度。
なぜ、この局面で殺傷力のない魔法など使ったのか。
リオは訝しんでシラハを振り返る。
シラハはカリルのそばに立ち、小さく頷いた。
「――来る」
なにが、と聞こうとした瞬間、山の上から濃厚な死の気配が吹き付けてきて、リオは背筋を凍らせる。
猿たちも気付いたのか、全員が山の斜面を見上げた。
斜面の上にオッガンが立っていた。
「儂の弟子に何しとるんじゃ」
声と同時に死の気配と強烈な冷気が吹き下ろす。
冷気は猿たちと邪獣の死骸を飲み込み、白く染まり、まるで絹のベールのように猿たちを取り囲んだ。
猿たちは逃げない。いや、逃げられない。足が地面に氷漬けにされ、身動きが取れなくなっていた。
オッガンが片手を猿たちに向ける。
『鋭利怜悧な棘持つ雪花、連ね氷柱の大雪華』
聞き覚えのある詠唱の後、オッガンの手の先に無数の氷の刃を持つ氷の結晶が出現し、猿たちへとゆっくり進みだした。
それは雪が降るような速度だったが、足が凍結している猿たちは避けることもできず、ただ迫り来る氷の結晶と死の瞬間を見つめることしかできない。
恐慌状態で泣き喚く猿たちをゆっくりと切断しながら、氷の結晶は群れを通り抜けていった。




