壁を叩く音
昭和半ばの頃の話。
夏休みになろうかという頃、とある病院に入院することになった一人の少年…仮にHとしよう…がいた。
さほど大きくもないその病院は、病室など入院施設は整っていたが「帯に短し、たすきに長し」という中途半端さが災いし、その時も入院患者は数えるくらいだった。
ある熱い夏の日。
そんな病院に、もう一人の男の子が入院して来た。
その少年…仮にIとしよう…は、Hとも年齢が近かったのに加えて「せっかくの夏休みを入院でふいにした」という仲間意識も手伝い、すぐに仲良しになった。
二人は隣同士の個室に入院していたが、昼間はお互いの部屋を行き来し、他愛のない話に花を咲かせたり、買ってもらった漫画を交換したりして、退屈になりがちな入院生活をそれなりに楽しんでいた。
ただ、二人には唯一ある不満があった。
それは夜間である。
昼間はお互いに顔を合わせて時間を潰せるが、夜間になるとそうはいかない。
個室とはいえ、消灯時間がくればお互いの部屋に戻り、大人しくしているしかない。
そうなると、夜は本当に退屈な時間だった。
そんな状況を何とかできないか、と二人は相談し合い、ある方法を思いついた。
それが「モールス信号」だ。
二人の病室は、壁を境に左右対称の造りになっていた。
そして、内装も同様で、お互いのベッドは枕元が境界になっている壁にくっついていたのだ。
その壁は、叩けば隣の部屋にも音が届く程度の薄さになっており、それで交信ができそうだった。
とはいえ、彼らは子供である。
本格的な信号などを学ぶことは出来なかったから、二人で独自の信号を考案し、それぞれノートに書いた叩き方を共有することで、交信を行う事にした。
この試みは大成功だった。
夜間、消灯時間になってから、HはIからの交信を待つ。
コン・ココン・コンコン
待っていた合図がやって来た。
最初は聞き間違いが多く、意思疎通もままならなかったが、徐々に慣れ始めると、二人はこの素晴らしい交信に夢中になった。
そして、お互いに夜遅くまで交信を楽しんだ。
ある夜。
消灯時間がやって来てからしばらくして、Hの部屋の壁にIからの交信が届いた。
(起きてる?)
「うん」
(暑いな)
「そうだな」
(眠れない)
「俺も」
(涼しくできないかな?)
少し考え込んだ後、Hは返信した。
「窓を開けてみたら?」
(禁止されてるよ)
「少し開ける。寝る前に閉める」
(そうか)
それから、少しして交信が途絶えるが、ややもすると、
(開けた。涼しい)
「良かったな」
(窓、開けた?)
「俺は大丈夫」
(強いな)
そう言うと、Iは沈黙した。
「起きてる?」
(…)
「起きてる?」
(…)
応えが無くなった。
時計を見ると、もう11時になる頃だ。
Hは「きっと涼しくなって、寝てしまったんだろう」と考え、自分も横になった。
そうして、ウトウトしかけた時だった。
コンコンコン…!
突然、Iの部屋から、そんな信号が送られてくる。
目を覚ましたHは、寝ぼけ眼で壁を見た。
コンコンコン…!コンコンコン…!
音は止まない。
ノートを開き、内容を解読しようとするH。
しかし、音はひっきりなしに続く。
コンコンコン…!コンコンコン…!
コンコンコン…!コンコンコン…!
「何やってんだ、あいつ」
解読を諦めた、Hは、
「どうした?」
と、叩こうとした。
が、その矢先、
コン…
と、小さく一回叩かれた後、音はしなくなった。
半分寝ぼけていたHは「Iの奴も寝ぼけていたのかな?」と思い、そのまま寝てしまった。
それきり、壁の音はしなくなった。
翌朝。
昨晩の遅寝が祟り、いつもの起床時間より遅れて目を覚ましたHは、院内が慌ただしいことに気付いた。
理由は分からないが、何人もの人間が隣室…Iの部屋に出入りしている。
医師や看護師の他に、見慣れない大人の姿もあった。
部屋にやってきた看護師に「何があったのか?」と尋ねると、その看護師は一瞬逡巡した後、
「昨晩、Iが亡くなった」
と、告げた。
Hの顔から血の気が引く。
昨晩の壁の音を思い出したのだ。
呆然となるH。
その後、Hの部屋に見知らぬ男達がやって来て、昨晩、何か異常が無かったか聞かれた。
あまりのことに恐怖したHは、つい「何も無かった」と答えてしまった。
元々、二人の壁越しの交信は秘密だったし、それ以降は誰からも尋ねられることも無く、Hはお盆を前にその病院を退院した。
それから何年も後になって、HはIの死の真相を知った。
あの夜。
Iは、閉め忘れた窓から侵入してきた変質者に乱暴され、挙句、最後に絞殺されたという。
Hが聞いたあの壁を叩く音は、恐らくIが助けを求め、叩いていた音だったのだろう。
翌日、Hに話を聞きに来た男達も、警察関係者と思われた。
そして、犯人の男は夏の終わりに逮捕されたとのことだった。
それから、しばらくしてから本格的な「ナースコール」の運用が始まった。
果たして、Iの事件が引き金になったかは定かではない。
Hは、あの夜の事を今も時折思い出す。
そして、図らずしも自分の提案で命を落としてしまったIの冥福を祈る。
「もし、あの時、自分が余計な事を提案しなければ…」と、後悔しながら。
同時に、こうも考え、身を震わせるそうだ。
あの時。
Hが壁を叩き返していたら。
もしかしたら、H自身も…Iと同じ運命を辿っていたかも知れない…と。