魔王様のご帰還 其の一
愚劣なる第二八代魔王オルトロスにより『死の呪い』がかけられてから百数十年が経過した。魔王のかけた呪いは、不遜なことに『銀の毒』とその製法をこの世から失わせ、『銀の毒』を生産していた人々をも消し去った。ファタリテ王国が確認していた、人間との混血が数多存在していた村も消え失せたという。おそらくは魔王が自身の悪行がばれることを恐れたのだろうといわれている。
だが、寛大な英雄王・ラスターと、大いなる賢者・ペサディリヤはその忌々しい呪いにも負けなかった。事前にそのたくらみを察知し、呪いを不完全なものとしたのだ。その結果、賢者・ペサディリヤは知識とともに命を落とした。人間の歴史始まって以来の損失であると言われている。
そして、残された英雄王はこの土地を魔王から解放し、魔王に支配されていた憐れなる魔族に慈悲を与え、魔力を供出する代わりにこの地に住むことを認めるという許可を出した。さらには再び魔の国が起こらぬよう、自らを犠牲にしてこの土地に都を移したのである。
こうして、魔王の支配を受けていた憐れで野卑な魔族は、恐れ多くも平民の下に位置する三等国民の地位を与えられ、この土地に住むことが許された。ただし、魔力を供出するために寿命は半分以下になったという。それもまた、魔王に不承不承でも与していたのだから自業自得である。
ここにファテリテ帝国が誕生する。王国は魔王の国を併合し、帝国となった、その恩恵にあずかるべく、大陸に合った他の国もその傘下に下ったのである。
そう、得意満面に帝国史をとうとうと自慢げに歴史教師が語る。それを目の前に、この帝国の第二皇女であるステラ=リュールは、八歳児にはあるまじき大人びた冷めた目でそれを見つめていた。
「ご高説賜りまして、光栄ですわ。ところで先生、魔族が憐れで野卑とはどのような根拠に基づくものですの?」
肩に落ちる泡立つ滝の様な銀色の髪を払いのけながら、若干八歳の皇女は淡々と、海老の様な髭をねじり上げる教師に尋ねた。痩せた体格と妙な具合に動く様子と相まって、まるで本当の海老のようであった。煮ても焼いても食えなさそうだが。
「なんと姫様、あのような生き物は野卑に決まっているではありませんか。角や羽が生えたり、尾があったりしているのですぞ。獣の様な特性を有しているなど、とんでもないことです」
モノクルの奥の目を大きく見開き、心底驚いたように教師が言う。全く、魔族が野卑ということを疑ってもいない様子であった。
確かに魔族は、その身体的特徴からして、人間と異なる。所謂「ヒト族」よりも耳が長かったり、牙を有していたり、極端に体が大きかったり小さかったりする。
見た目や成長の度合いが「ヒト族」と異なるものは、須らく「魔族」となった。だから、実際には魔族でないものも含まれていた。エルフもドワーフも、はたまた偶に生まれる人とは少し異なる容姿を持つ人間もいたはずである。
「あら、そうですの。では、先生は実際には魔族とお会いになったことは?」
「ええ、魔力を供出する高位の魔族ならばあります。何ともみっともない、下賤としか言いようがありませんでしたな。遠目からでもわかるほど、醜い生き物でしたよ。性根が表れてるようでしたね!」
教師は魔族に関する罵詈雑言を言い放った。たとえ魔族が完全なる悪だとしても、こう悪しざまに罵る様子を見せるのは教育的にはどうなのか。
教師の様子を見ながら、猫のようにピッと張った、ステラ=リュールの大きな目がぐっと細くなる。皇帝の血筋特有の、菫色の瞳の色が少し赤みを帯びた。そして、それまで読んでいた歴史の本を机の上にパタンと置く。そして、傍にあった呼び鈴をちりんと鳴らした。
すると、先ほどまでいなかったメイド服姿の妙齢の女性が音もなくすっと現れる。地味でこれといった特徴はないようだが、よくよく見ると整った顔立ちの女性だ。
「……ツィーゲル先生、本日までありがとうございました。……ジネット、ツィーゲル先生がお帰りですわ」
「な、何をおっしゃっておられるのですか、姫君!どこか不都合でも…ッ」
「いいえ、これといった不都合はございませんわ。わたくしは色々な角度から物事を見る重要性を知っておりますので。ただ、一方的な意見を聞かされるのは好ましいものではありませんのよ」
にっこりと笑って言い放つ。とても十歳になる前の子どもが言う台詞とは思われなかった。その迫力と台詞に、教師も一瞬押し黙る。そして次の言葉を紡ごうとしたとき、ジネットと呼ばれた女性が教師の腕をグッとつかんだ。
「ツィーゲル先生。こちらに今日までのお給金とお礼を用意させていただきました。ささ、こちらに…」
ジネットに促されて穏やかに、されども確実にエビ教師が連れ出されていく。それでもなんだか叫んでいたが、つかんだ腕は緩むことがなく、次第に声は遠くなっていき、やがて聞こえなくなった。
実に優秀なメイドだ、とステラ=リュールは満足げにうなづいた。
「さて、ユーゴー。時間もできたことだし、オリヴィエお兄様の所にに伺うわ。先ぶれを出して頂戴」
振り返りもせず、彼女は扉のところから様子をうかがっていた三十代半ばほどの黒服の男に話しかけた。男の方も心得たように音もなく彼女に忍び寄っていく。男の名はユーゴー。第二皇女である彼女の専属執事であった。
「承知いたしました。何か持ってまいりますか?」
「そうね、トマゾの焼き菓子が兄さまはお気に入りだから、それでも詰めてもらえるかしら」
筆頭シェフの作る菓子は第二皇子の好物であった。彼は隙あらば、トマゾに引き抜きをかけている。引き抜かれてはたまらないが、褒められてトマゾもまんざらではないらしく、オリヴィエの時には凝った菓子を作ってくれる。きっと土産用に素晴らしい菓子を詰めてくれるだろう。
「すぐにご用意してまいります。ジネットもお連れになりますか?」
未婚の女性が供をなしに男性のもとを訪ねることは許されていない。母親が異なれば結婚することもできるこの国では、兄弟姉妹であっても同様である。第二皇子オリヴィエとステラ=リュールは母親が違っていた。
「いいえ、ユーゴーあなたとコンスエロを連れて行くことにしましょう。屋敷はブーレに任せるわ」
彼女はメイド頭の名を上げる。コンスエロならば兄の床に連れて行っても問題はない。慣れているし、安心だ。留守番役に、父からつけられている監視役で在り家令でもある男の名前を彼女は上げた。彼に任せておけば大丈夫であろう。
不愉快な教師を追い出したことで、兄と過ごす有益な時間に思いをはせ、ステラ=リュールはとても爽快な気分になった。




