仮婚約
ナイトレイ邸、夕日が差し込む応接間。
「ナイトレイ侯爵。ここまで参りましたら単刀直入に申し上げます。ご令嬢との婚約をお許し願いたい」
なぜかあたくしはレイの隣でお父様と向き合い、なぜかレイはお父様に真剣そのものの声色でとんでもない申し入れをしている。
「……ハァ」
小さく、本当に小さくため息を吐かれた。
どうしましょう、呆れていらっしゃる?それとも手順も何もなく謁見を申し入れたことを怒ってらっしゃる?
お父様がなにをお考えなのかなど、今までひとつだってわかったことなどなかったけれど、どうしても、顔色を伺ってしまう。
「エルヴィラ」
「はい……!」
ビクッとしてしまい、レイにチラと見られてしまった。恥ずかしい……。
「この話、お前は承知しているのか」
え……?
あたくし?
お父様の眼差しに揺れはなく、意思を問われていることに困惑を隠せない。だって、レイがこう言っているのだから、あとはお父様の了承があればよいのではないの?
「忘れたか。国王陛下はお前の意思を尊重すると、そう仰っているのだ。お前が承知していないものを私が許すわけにはいかん」
そん……、
……た、確かに、そう仰っていただけたけれど、でも、それはつまり、お父様のご意志ではないの?家のための結婚であればあたくしだってなにも文句はないのに。
「……ならば、ここは仮婚約ということでいかがか」
そんなあたくし達のやり取りを黙って見守っていたレイが、にこりと爽やかに微笑む。
「なんだと?」
それに、お父様が眉をピクリとさせるが、レイはレイでそれを歯牙にも掛けない。
「もちろん、俺から婚約破棄を申し出ることは決してない。お望みならば契約書でもなんでも言われるままに書いてもいい。むしろ、エルヴィラから婚約破棄を言い渡されぬよう全力を尽くす所存です。……しかし、しかしそれでも彼女が俺との婚約を取りやめたいと、そうおっしゃるのであれば、その時はきっぱりと諦めましょう」
か、仮婚約ってそういうことですの!?
なにそれ、そんなのじゃ、レイになんの得もないじゃない!
「レイ!」
「はい、なんでしょう」
「なんでしょう、ではありませんわ! それではあなたが損をするだけではなくって!?」
自分がどんな言葉遣いをしているのかもわかっていなかった。馬鹿げたことを、その上お父様の目の前で宣言してしまうなんて!これではもう言い逃れもできない。
「卒業パーティーでもそうでしたわ。国王陛下の御前であんなきゅ、求婚、まがいのことを宣言してしまって。国王陛下はあたくしとあなたの婚姻に立ち会うとまで仰ってますのよ!」
「俺が損をするなどあり得ませんよ。あのプロポーズをしたから今俺は貴女の隣に座っていられるのです。そして、この婚姻が結ばれれば、それ以上の幸福など俺にはないのですから」
エルヴィラ、と優しく優しく呼びかけられた。そんな風に名前を呼ばれたことなどないあたくしが、どうしてそれに抗えるというのかしら。
「貴女は選ぶだけでいいのです。そして俺は、貴女に選んでいただけるよう、持ちうる全てを賭して努力するのみです」
なぜ、なぜそこまでして。
わからなくて、どうしていいかも知らず、ただ呆然とレイの顔を見つめていた。
「……わかった」
ハッとした。
ああ、なぜ忘れてたのかしら。当然のごとくお父様がいらっしゃるというのに、あたくしはなんて言葉の使い方をしてたのかしら!人のことを言えないこの現状に、慌てて口を塞ぐももう遅い。
「スチュアート卿よ」
「はい」
「十日後の、王宮主催の舞踏会には出席なさるのだろう」
「……いえ、領地に引き上げようかと思っ」
「エルヴィラのエスコート役を私の代わりに勤めていただこう」
「もちろん出席いたしますゆえ、ご令嬢はお任せいただきたい」
今、領地に帰るって言いかけたじゃない!出席するつもりなかったんじゃない!
「ならば話は終わりだ。今後私への報告は必要ない。正式に婚姻を結ぶというときのみまたお会いしよう、スチュアート卿」
「近く再会できますことを、切に願います」
お父様はさらに返事をすることはなく、けれど、軽く目を伏せ会釈なさった。
レイもサッと席を立つと「それでは」と頭を下げた。
お見送りをとあたくしも席を立てば、彼はその綺麗なお顔に喜色を浮かべるのだ。令嬢として当然の礼儀としてしているだけなのに、どうしてこの方は。
玄関口に行くまで双方とも口をきかず、狭い屋敷でもないのにあっという間に辿り着いてしまった。
「レイ」
「はい」
すぐに返ってきた返事に思わず唇を噛んでしまった。
怯まずにきちんとしないといけないのに、何をしているの。レイと一緒だと何故こんなにもペースが狂ってしまうのでしょう。
「あ、えっと、……今日は、楽しかったです」
「よかった」
「十日後の、本気ですの?」
「本気です」
「王宮がお嫌いなのに?」
「嫌いではないですよ。苦手なだけで」
同じではないの。
そう思ったのはあたくしだけではないようで、レイは少し困ったように頬をかいた。
「確かにあまり好きではないですが、エルヴィラのエスコート役をさせていただけるなら、いっそ舞踏会に感謝したいくらいです」
言うや否や、真剣な顔つきをしてその場に膝をついた。
「レ、レイ?」
「エルヴィラ」
「え、はい」
そのままの態勢で懐から取り出したのは、小さな小さな四角い箱。
ちょっと待って、あなたそれ。
息を呑んで見守るしかないあたくしの前で、ゆっくりと開かれたそこには、ひとつの宝石をダイアモンドでぐるりと取り囲まれた美しい指輪だった。
玄関照明に反射してシルバーにもアイスブルーにも変わる真ん中の大粒は、まさにあたくしの瞳の色。
「まさか……」
「貴女の瞳を思い作らせた、正式な婚約指輪です」
この国の伝統的な婚約の証は、男性が女性の瞳の色を模した指輪をひとつ、贈ること。
そっと、あたくしの右手が持ち上げられ、薬指にするりと通される。呆然と眺めるそこには、初めからそこにあるのが当然であるかのように指輪が煌めきを放っていた。
「言ったでしょう、俺は本気です。……十日後、お迎えにあがります」
いつかのようにそのまま指先にキスを落とされ、颯爽と去っていく広い背中を、あたくしは、不快感どころか壊れそうなほど心臓を震わせていつまでも見送っていた。
#
「あたくしって、尻軽女だったのね」
「そのような言葉をお使いになってはいけませんよ」
「この十日間、レイの事しか考えていないの」
「良いことではありませんか」
「気持ちが簡単に変わってしまったのだわ」
「そうですねぇ」
「でも、違うの。指輪を見るたびに胸が苦しくって、こんなことオーウェン様を考えているときはなかっ、」
「エルヴィラお嬢様?」
「……なんでもないわ」
オーウェン様と比べるだなんて、そんな失礼なことをして何になるというのかしら。
「さ、それではドレスを」
振り返れば、今日の舞踏会用にトルソーに着せられていた真っ赤なイブニングドレスが取り外されようとしていた。
背中が大きく開いたホルターネックのデザインで、胸元と腰回りには花のモチーフが隙間なく縫い付けられた豪奢なもの。だけど。
「このようなドレスなんてあったかしら?」
覚えがない。確か、イブニングドレスは白いオーガンジーのものだったと思うのだけど。
そう言えば、ノーラはニコニコとそれはもう嬉しそうにドレスを広げて見せてきた。
「スチュアート卿からの贈り物ですよ」
「なんですって?」
「靴も、それから装飾品まで、一式全て用意してくださいました」
揃いの物を出され、言葉に詰まってしまった。
殿方から贈り物なんてこれが初めて。それも、こんなにも高価な物を、あたくしに?
「さあさ、のんびりしている暇はございませんよ。早くなさらないと迎えが来てしまいます」
「え、ええ……」
なんだか、少しずつ少しずつ取り込まれているようだわ。勘違いかしら。勘違い……してしまっていいのかしら。
遠くの方で家令がスチュアート辺境伯がいらっしゃいました、と知らせるのが聞こえた。
#
今夜開かれるのは王家主催の定期舞踏会。宰相であるお父様は必ず出席なさるから、本来であればあたくしはその隣でエスコートされて参加するはずだった。
それが今、レイの腕に手を添え、騒めく会場の中を突き進んでいる。
「とても美しいです、エルヴィラ」
空色の瞳は、周囲の視線を物ともせずあたくしに注がれている。それがどれだけ恥ずかしいか、この人はわからないのかしら。
「聞きましたわ。レイが用意してくださったと」
「お似合いだと思いました。やはり、想像以上です。着てくださってありがとうございます」
感謝の言葉はあたくしのものなのに、レイのほうが口にするなんて。
「指輪も、つけてくださっているんですね」
思わず、彼の腕に添えた右手に力が入った。それにレイは小さく微笑む。
「答えを急かすつもりはありません。ただ、つけてくださっているということが嬉しいのです」
甘く甘く、溶かされそうな囁きで、どれだけあたくしを想っているのかを言い聞かされているようだった。国王陛下の御前に進む最中なのに、みるみるうちに頬が色づくのを感じてしまう。
周囲のざわめきは、あたくし達が玉座の前で足を止めたことで自然と消えた。
「スチュアート卿、そしてナイトレイ侯爵令嬢。今夜はよくぞ来てくれた」
「両陛下におかれましては──」
「よい、スチュアート卿。そなたが王宮に足を踏み入れた、この事実だけで堅苦しい挨拶の代わりになるというもの」
王の言葉に、隣に座ってらっしゃる王妃様がクスリと笑みをこぼした。つられて、周囲の大臣方も苦笑されているのを見て、レイは胸に当てていた手を下ろした。
「それで、勝てそうなのか?」
「布陣を敷いているところです」
「そうか、てっきり単騎突入したと思うたが。騎士時代から得意であったろう」
「勝手が違うのです」
一体何の話をしているのか、レイの後に続くはずだったあたくしの挨拶も宙に浮いてしまい、どうしていいかわからないあたくしに王妃様がさらりと視線を投げかけてくださった。
「やぁね、男っていつだって戦の話ばっかりで」
戦の話だったの。それではあたくしがわからないのも当然というもの。政治や経済の話は男並みにできると自負していても、流石に女のあたくしがそこまで踏み込むことはしない。
「それにしても、あなたには悪いことをしたわね」
なにが、と聞かずとも何のことかはすぐにわかった。とんでもございません、と頭を下げようとしたあたくしを、けれど王妃様は手振りだけでお止めになった。
「今夜は素敵な彼と素敵な時間を過ごしてちょうだい」
そのお言葉と同じくして、国王陛下との会話を終えられたレイがあたくしの手を取り「では」と御前を下がる挨拶をする。あたくしも慌てて膝を折れば、国王陛下に小さく頷きで返していただいた。
……こんなにも御前で緊張したのは初めてだわ。なんとなく詰めていた息も吐き出して、知らず入っていた体の力も抜いた。
「緊張されていましたか」
流石は騎士様、これだけ近くてはすぐにバレてしまうのね。諦めて肩を竦めれば小さく笑い声を落とされた。
「笑いますか、デビュタントから何年も経っているというのにと」
「いえ、申し訳ありません、そういうわけではないのです」
ではどういう意味なのかしら。
肩を震わせる彼の振動が伝わってきてなんとなく面白くない。
大体、誰のせいで緊張していたのか知っているのかしら。両陛下の御前にふたり並んであることに対してだというのにこの人は。
「本当に違うのです。エルヴィラがあまりにも可愛らしかったので」
え…………。
思わず足を止めてしまい、するりと手がレイの腕から滑り落ちた。
ああ、なぜこうも、さらりと、前触れもなく、こんな言葉を投げかけてくるのだろう。事前に言ってくれればいいというものではないけれど、でもだって。
「ワルツです」
流れる曲に、レイが手袋に包まれた手を差し出してきた。
「一曲、お相手いただけませんか」
「…………喜んで」
踊り慣れたワルツ。苦手でもなんでもない、むしろ得意な方。なのに、乗せた手を引き寄せられて腰を支えられた瞬間、自然に動かせるはずのステップをすっかり忘れてしまったようだった。
ふわっと引かれ、すでにはじまっていることにも気がつかず、それなのにあたくしの体はレイの腕の中で綺麗にワルツを踊っていた。指の先からつま先まで、全てレイに任せっきりで。
不思議。本当に。
まるであたくしが羽になったように今まで踊ったどワルツよりも身軽に踊れる。
ドキドキする心臓まで置き去りにして、それでもスカイブルーの目に覗き込まれながら、あたくしは。
「……エルヴィラ」
名前を呼ばれただけで、頭の中がじんわりと痺れる。
瞳を和ませられ、見つめられ、ほんのりと香る爽やかな彼の匂いに包まれて。
「レイ……、」
──あたくしは、なにを言おうと。
気がつけば音楽は止まっていて。
ふたりでそのまま立ち竦んでただただ見つめあって。
「エルヴィラ」
彼の唇は動いておらず、別の方向から聞こえたあたくしの名前。
あたくしをそう呼ぶのはレイを除けばこの場でひとりだけ。サッとそちらに視線を投げれば、じっとこちらを見つめる藍色が。
「オーウェン様……」
そうして、その隣にぴったり寄り添っているのは当然あの女で。あたくしをどこか険しい目で見ていた。
まだ、あたくしに何かされたとでも言いたいのかしら。その目で見られるべきはあなただというのに。
「これは、オーウェン様」
半歩前に出たレイによって、彼らの姿は見えなくなってしまった。しかし、完全にその広い背中に隠されたわけではなく、全く自然な動作だった。
「お初にお目にかかります。北の一帯を治めております、レイモンド・ド・ラ・スチュアートと申します」
「……ああ。知っている」
「卒業パーティーではご挨拶できずじまいでしたので」
申し訳ございません、と笑顔を貼り付ける。そう、貼り付けているだけで完全に愛想笑いだった。
瞳の奥はなにか熱いものが燃えているようで、オーウェン様をそんな目で捉えて離さない。
「ご機嫌よう、エルヴィラ様!」
その時、突然女があたくしに声をかけてきた。
学院にいた頃はどんなに注意しても口にしなかった挨拶の言葉で、レイの陰からあたくしを覗き込む。
「お元気でした?」
どんな神経でそんな風にあたくしに話しかけるのでしょう。いくらオーウェン様の婚約者とて、未だあたくしの方が身分は上。あなたから話しかけるなど重大なマナー違反だわ。
胃がキリキリと痛い。あたくし、こんなにも弱かったかしら。
「エルヴィラ様って、とってもすごいんですね。だって、王太子に捨てられたのにすぐに辺境伯爵様に乗り換えるだなんて」
「リリィ、なにを」
「でも、レイモンド様はご存じないんでしょう? エルヴィラ様ったら学校でほんっとぉに酷かったんですから」
慌てるオーウェン様を気にもとめず、女はペラペラと止まらない。
「私、ずっとエルヴィラ様に虐められてたんです。それに、エルヴィラ様の取り巻きたちにも。学院中のご令嬢から睨まれ無視され、酷い言葉もたくさん言われました。それもこれも全部、あなたの隣にいるエルヴィラ様が命令したことなんですよ。権力と地位を振りかざして!」
顔を歪め、さも被害者ですといった風を装う女に、喉が締め付けられて腹部が切り刻まれたように錯覚した。
なぜこんなにもダメージを受けているのか。それはひとえに、レイが女の言葉を全て──真実のあたくしを──、聞いていらっしゃるから。
虐めだなんてものじゃない。あたくしはこの女を排除しようとした。
そんな、貴族の令嬢らしからぬあたくしの本性を知ったらいくらなんでもレイだってあたくしから離れてしまう。
離れられることが、怖かった。
──あたくしは、いつのまにかレイのことをこんなにも、好きに、なってしまったのだわ。