逢瀬
スチュアート辺境伯がお見えになりました。
そう言われたまさにその時に、ちょうど支度が終わったところだった。
仕立てたばかりのツーピースドレスにテーラードのジャケットを合わせた、生まれて初めての乗馬服に身を包み、申し訳程度に結い上げた髪にサファイアを散らした。
「ごきげんよう、スチュアート卿」
彼もまた、モーニングコートにトラウザーズというシンプルな乗馬服という出で立ちだった。
黒髪を後ろに撫で付けている様は、どこからどう見ても上流階級の貴族で、けれど少し剣のある眉間や、ぴったりとした服からわかる分厚い筋肉は彼が騎士であることを象徴していた。
「おはようございます、エルヴィラ様。本日も素敵な装いですね。いつもと雰囲気が変わってより魅力的に見えます。……と、言ってもエルヴィラ様は単純は乗馬服をお選びになっただけでしょうが」
この方はまたなんで出会い頭にそうさらりと口説き文句が言えるのかしら。まさか、出会うご令嬢全てにそうしているわけではないわよね?
……違う、違いますわ。落ち着きなさいな。だからと言って、なにも問題はないでしょう。なにをやきもきしているの。
「では、参りましょう」
自然に腕を差し出され、手袋に包まれた手をするりと絡ませた。こういうところは、騎士様なのね。
「ああ、夢のようです。エルヴィラ様をエスコートできる日が来ようとは」
そこまでかしら。
本当に、なぜあたくしなのかしら。いつまでたっても疑問が解消されぬまま、ただただ口説き落とされている。
いっそ聞いてしまえばいいと思うけれど、どうしてもその勇気が出なかった。そうして、もしも言葉に詰まられたら、きっととてもいたたまれなくなってしまう。
「昨日はあいつをご紹介できませんでしたので」
外に出ると、すでに我が家の馬丁がスチュアート卿の愛馬の手綱を取り待っていた。ゆっくりと黒馬の前へと導かれると、かの馬は知性の見え隠れする瞳をじっとあたくしに向け、また、主人の一挙一動を見守っていた。
「オブリビオンです。幼き頃から俺と共にしてきた、家族のような馬です」
「ごきげんよう、オブリビオン」
あたくしもまた、彼を見つめたままそっと膝を折った。そうして、あたくしはいつも出会う動物にするように瞳を軽く伏せて魔力を送った。
ちょっとした彼らへの挨拶のようなもの。あたくしは魔法の技術は芳しくなかったけれど、言葉を操らぬものと魔力を基に通じることができるのです。
まあ、通じるといっても一方的にあたくしが気持ちを送るだけですけれど。でも、それだけで彼らはほんの少しだけ気を許してくれるか、もしくは襲わずに見逃してくれる。
だからそのまま、挨拶を終えてスチュアート卿を振り仰ごうとした、そのとき。
「オブリビオン……?」
ブル、と彼が小さく唸り声を上げた。
一瞬の出来事で、スチュアート卿ですらあたくしの肩を抱くのが精一杯で、オブリビエンの鼻面があたくしの頬に思い切りぶつかった。
「きゃっ!?」
「オブリビオン!」
焦ったようなスチュアート卿の声を遮るように、オブリビオンはしかし何をするでもなくあたくしから少し離れ、深々と、お辞儀をした。
「な……」
驚いたのはあたくしも同じだった。
だって、このような形で挨拶を返してくれた子はいなかったし、それより何より、あたくしを清々しい魔力が包み込んだのだから。それが、スチュアート卿の愛馬から送られてきていることに、あたくしはたっぷり数秒後にやっと気がついた。
「あなた、あなたは、あ、あたくしに礼を尽くしてくださるの……?」
信じられない。
まさか、彼らが人間の礼に則ってくださるなんて。なんて賢く、そして主人思いの素晴らしい馬なのでしょう。
オブリビオンはそのままなんのことはないように膝を折り、あたくしに鞍を向けて座り込んだ。
「……まさか、オブリビオンが膝を突くとは。エルヴィラ様、貴女は馬と会話ができるのですか?」
「いえ、いいえ、スチュアート卿。あたくしは、ただ彼らに挨拶をするのみで、こうして心を返していただけるなんて、初めてですわ。彼は……、いいえ、あなた方は本当に素敵な信頼関係を築いていらっしゃるのね」
あたくしたちの間には、暫く奇妙な沈黙が続き、それを最初に壊したのはオブリビオンの小さな嗎だった。
どこか、主人であるスチュアート卿を責めるようなその響きは、彼をハッと引き戻した。
「あ──、申し訳ありません。どうぞ、オブリビオンにお乗りください」
手を引かれ、横座りになるとオブリビオンがゆったりと立ち上がった。彼が完全に起き上がるまであたくしの手と腰を支えてくださっていたスチュアート卿は、戯けたようにオブリビオンに目を向けた。
「お前がこんなに紳士的だとは知らなかったぞ。その気概をフェルナンにも向けてやってくれ」
言うや否やヒラリとあたくしの後ろに跨ったスチュアート卿は、一度もあたくしの腰を支える手を外すことなく、オブリビオンも慣れたように、成人男性を乗せても微動だにしなかった。お陰であたくしは少しも不安を感じることなくスチュアート卿の腕の中に収まった。
収まったのだけど。
近い……!
ああ、なぜ考えなかったのでしょう!相乗りということはつまり、こうして密着するということで、一寸の隙間もないくらい、いっそ硬い彼のベスト越しにすら体温が伝わってしまいそうなほど側に彼を感じてしまうこの状況。
お、お、落ち着けませんわ………。
「大丈夫ですか? どこか、ご不快なことや、痛みを感じるようなことは?」
スチュアート卿はただ話てらっしゃるだけなのに、その吐息が結い上げたあたくしの髪に触れて思わず肩を跳ねさせてしまう。
「エルヴィラ様?」
「あ、だ、大丈夫ですわ……」
なんとか返せば、そうですかとホッとされた。
「では出発いたしましょう」
あたくしの心臓が五月蝿く跳ねたまま、不安と緊張しかないデートがはじまった。
♯
途中の街で昼食を買い、暫く馬上で揺られながらあたくし達はいろいろな話をした。
初めてのお茶会の日と同じで本当に他愛のない話ばかりだったけれど、なぜか何もかもがキラキラとして聞こえて、退屈を感じることなどなかった。その上、いつの間にか緊張も頬の赤みも消え失せていた。
「オブリビオンに湖に突き落とされた、その時のフェルナンの顔と言ったら。あ、どうかこの話はフェルナンにはご内密に。エルヴィラ様にバラしたと知られたら顔を真っ赤にして斬りかかってくるに違いない」
「ふふ。大丈夫ですわ。フェルナン様とは学院でも話したこともございませんの」
ガブリエル伯の御令息であり、スチュアート卿の甥であるフェルナン様は大人しく、どこか達観したように周りと一歩引いているような印象だった。
オルガさん曰く、「まるで女の争いを、言い方は悪いかもしれませんが、くだらないと思っていらっしゃるよう」な方で。
ああこれは、近づかぬ方がお互いのためだわと思ったのを覚えている。
だから、こんなにも生き生きとした話を聞かされて、なんだか印象が変わってしまった。
「見えてきました。あそこが目的地です」
スチュアート卿の声でふっと前を見て、そうして言葉を失った。
今の今まで駆けてきた道は街から遠く離れた森の中で、まるでどこにいるのかわからなかった。
しかし、今やっと開けた景色は、眼前いっぱいに空とそこに輝く太陽に照らされた色とりどりの花が咲き乱れる草原がどこまでも続いていた。
「いかがでしょう。この辺りで俺の勧める景色のひとつなのですが……。お気に召していただけましたか?」
ほんの少し心配そうな声色で伺ってくるスチュアート卿にすぐには頷けなかった。
だって、こんな大自然を目の当たりにしたことなどなかったのだもの。あたくしの知っている景色はどこまでも続く石畳と邸の塀で、首筋を通り抜ける風がこんなにも心地よいものだとは知らなかった。
「ええ、素敵ですわ。とても……」
「よかった。そう仰っていただけて安心いたしました。もう少し行った先にもまたお見せした景色があるのですが、まずは昼食としましょう。この先の小さな湖のほとりに木陰があります。そこで座ってゆっくりと休みましょう」
スピードを落としたオブリビオンは、勝手知ったる様子で草花に埋もれて微かにしか見えない小道を進んで行った。
「オブリビオンとよくいらっしゃるんですか?」
「そうですね。滅多に王都に来ることはありませんが、例えば偶の王宮に嫌気がさした時はふらっとふたりで駆けてきては、家の者たちを右往左往させていますね」
「まあ。ふふ」
そうこうしているうちにオブリビオンが足を止めた。スチュアート卿のおっしゃる通り、静かな湖のほとりには木陰がしばらく広がっていた。
先に下馬したスチュアート卿の手を借りてあたくしも降りると、彼はオブリビオンの鞍を取り外してその汗を拭き取りはじめた。
「ありがとうオブリビオン。暫く好きにしててくれ」
そうして身軽になったオブリビオンは一度大きく首を振ると、挨拶でもするようにスチュアート卿に擦り寄った後、湖へと歩いて行ってしまった。
「立ちっぱなしにさせてしまい申し訳ありません」
「いいえ。オブリビオンにはお世話になりましたもの。お気になさらず」
凪いだ水面に鼻先をつけて静かに水を飲む彼を眺めていたら、バサリと側で音がした。
「どうぞこちらへ」
持参してくださったのか、草原の上に敷物を敷いてスチュアート卿があたくしを座らせてくれた。
「スチュアート卿は……」
「俺はそのままで充分です」
そうおっしゃって、本当にそのまま地面に座ると、先ほど買ったサンドイッチの包みを広げた。
「そういえば、エルヴィラ様」
「はい」
あたくしのぶんを受け取りながら彼を見やれば、何処となく真面目な顔つきをしてらっしゃって思わず固まった。え、なにかしら。
「フェルナンのことは名前でお呼びになるのですね?」
「えっ」
「面識はおありなのですか?」
「あ、ありませんわ。お話ししたことも、一度も」
な、名前?
え、だ、駄目だったかしら?ガブリエル伯爵令息とお呼びしたほうがよかった?
「俺のことはスチュアート卿と、そうお呼びになるのですか?これは、この先変わらず?」
「……え? ……あ、えっと、あの」
あたくしともあろうものが、突然のことに頭の処理が追いつかず無様に狼狽えてしまう。そんなあたくしをどうお思いになったのか、フッと眉を下げて微笑まれた。
「すみません。困らせたかったわけではないのです。ただ、エルヴィラ様には……、好きな方には名前で呼んでいただきたかったのです」
なん……っ、
え、あ、す、好きな……?
「はは。お顔が真っ赤だ」
「そ、そ、そ、そのようなことを言われたら、誰でもそうなるわ!?」
自分でも何を言ってるのかわからない言い訳を叫んで、けれど手はサンドイッチで塞がっていて顔を覆うことも叶わない。
「それで、エルヴィラ様。どうか、呼んでくださいませんか?」
う……。
確かに、あたくしも名前を呼ばせている。もちろんこれは、レディ・エルヴィラと形式張った呼びかけがあまり好きではないからという、全くもって深い意味はないお願いだったのだけれども。
そう、そうね。確かにこれではフェアではないものね。ええ。深い意味はないのよ。
「……では、レイモンド様と」
「レイ、と」
「はい?」
「レイと呼んでいただけませんか?」
愛称で呼べと!?そうおっしゃるの!?
「……」
「……」
「……レイ、様」
「いえ、どうぞレイと、そのまま」
いえいえいえ、ちょっと、あの、待ってくださいま。あまりにも、そんな、だって、殿方を愛称でお呼びするなんてそんな……!
「………………レイ」
「! ありがとうございます」
瞬間、あまりにも綺麗に破顔されて、ヒュッと息を呑んでしまった。
あああ、なんで、どうして。確かに端正なお顔立ちだけれど、あたくしの好みはどちらかと言うと王子様のような綺麗系の甘さが滲むような、そういうお顔だったのに……!
一体、あたくしのこの心臓のざわめきはどういうことなの!?
「あ、あたくしばかりズルいですわ!ならば貴方もあたくしに敬称を付けるのをお辞めになったら!?」
「よろしいのですか? ……エルヴィラ」
ぼ……、墓穴を掘ったわ…………。
名前を呼ばれることが、呼ぶことが、こんなにも気恥ずかしいことだったなんて。
オーウェン様のことはずっと殿下とお呼びしていた。あの方にはエルヴィラと、そう呼ばれていたけれど、幼い頃からの呼び名だったからそれに対して何か思うことなどなかった。
「エルヴィラ」
はっとした。
見上げた先には、どこか緊張なさった表情のスチュアート卿──レイ、が、あたくしをじっと見つめていた。
あ。また、あの、熱くて熱くて焼かれそうなほどの灼熱が。
「冗談も、遊びも、なにもかも一切ないと俺はこの国を護りたる全ての神々と精霊に誓いましょう。本気で、心の底から、俺の魂を懸けてまで、貴女を、エルヴィラ・ディア・ナイトレイを愛します。突然のことです。信じられぬことも重々承知です。ですが、俺の心は永遠に貴女に捧げます。今は貴女の二番でもいい。それでもいつか、俺がきっと貴女を幸せにいたします。俺を……どうか選んでいただけないでしょうか」
ざあざあと、水音がいやに耳に響いた。結い上げた髪に刺した宝石たちがキャラキャラと音を立てて風にさらわれていく。
そうして、一体どのくらい見つめあっていたか。レイが空色の瞳を閉じ、そうして、もう一度開かれた時にはもうどこにもあの熱はなかった。
……あ。間違えたのだわ。
瞬時に思った。
何をどう間違えたのかなどわからないけど、少なくとも今あの瞬間に黙っているのは、それは申し出を断るのと同じ。
あたくしは、あたくしは口を開かなければならなかった。でも、何を言えばよかったの?だって、あたくしは、レイのことが──。
「サンドイッチ、食べましょう」
「ッ、レ、レイ!」
「はい?」
困った顔をなさってる。彼だって、勇気を出しておっしゃってくださっている。なんどもなんども。それに、あたくしは答えて差し上げなければいけないのに。また、名前を呼ぶのが精一杯で、その次を繋げずにいる。
「……エルヴィラ」
「はい」
「考えるのは、後にしませんか?」
「え?」
「俺と、お試しの婚約をいたしましょう」
……………………は。
「…………え?」
レイは、いっそ清々しほどの笑顔であたくしの右手をとり、薬指に柔らかくキスを落とした。
「実は婚約指輪は用意してあるのです」
なんですって?