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乳母



 レイと別れる頃には精霊たちの声も感覚も遠ざかっていて、さっきまでの苦痛が嘘のように何事もなく立てるようになっていた。


「その、あたくし馬車でレイを待つわ」

「まあいけませんわ。レイモンド様に任されましたもの」


 放っておけばいいのに、そう言ったデボラに手を引かれ、さっさと家に押し込まれてしまった。


「改めまして、デボラと申します。レイモンド様と姉君のアンドレア様、お二人の乳母をさせていただいておりました」

「そう。はじめまして。エルヴィラよ」


 あたくしの簡単な挨拶にデボラはニコリと笑った。

 髪の色はスカーフで見えないけれど、よくある茶色の小さな瞳やふくよかな体格はあたくしの乳母のノーラにどこか似ているわね。

 ノーラは、元気かしら……。

 

「エルヴィラ様、横になられますか?」

「ああ、いえ。結構よ」


 質素なテーブルに椅子、よく手入れはされているようだけれど使い古された絨毯。ベッドは見えないけれど、想像に難くない。そんなところに横になると考えるだけでゾッとする。


「お顔の色もよくなられましたわね。でも、ご気分が悪くなりましたらすぐおっしゃってくださいませね。さあさ、お座りくださいな」


 デボラは手慣れた様子であたくしに椅子を引く。元乳母と言うけれど、侍女のような仕事もしていたのかもしれない。

 それにしても、どうしようかしら。街中で倒れるなどという失態を見られてしまうだなんて。

 口止めのための銀貨も金貨もないし、ネックレス以外の宝飾品も身につけていない。

 これを手放すのは嫌だけれど、背に腹はかえられないわね。


「今は手持ちがないの。これで許してちょうだい」


 そうは言っても、小さなダイヤやパールの飾りもチェーンの金だって上等なもので、売れば彼女が一年は生活できるほどの金額になる。十分すぎるほどだわ。

 彼女の手を取ってネックレスを握らせると、デボラは一瞬驚きはしたもののすぐに差し戻してきた。


「受け取れません。お気持ちだけで十分ですわ」

「えっ」


 ど、どうして?

 やはりお金の方がいいの?……ああ。ああ、そうね。売るのは手間だものね。


「では、あとでいくらか届けさせるわ」


 それなのに、デボラは首を横に振るばかりで了承してくれない。

 でも、それじゃあ何をあげたら黙っていてくれるの?平民が欲しい物って、何かしら……。


「レイモンド様の大切な方から何もいただくわけにはまいりません。わたくしは、ただレイモンド様のお力になれればそれで良いのです」


 あっ。そういうこと。

 つまり、恩のある元主人から金品を取ってしまうことを気にしていたのね。

 驚いたわ。そうよね。あたくしが何かを与えて拒まれたことなどないのだもの。


「このネックレスも、届けさせると言った金銀も、全てレイとは関係のないあたくし個人の私財よ」


 ね?と再びネックレスを渡せば、今度はデボラも返してくることはなかった。

 ああ。よかったわ。


「──デボラ?」


 気づけば彼女はあたくしの後ろに回っていた。

 キャラ、と音がして胸元にダイヤが戻って、ようやく、デボラがネックレスを着け直すために移動したのだとわかった。


「ご安心なさいませ。このデボラ、たとえ口が裂かれようとも、この手足が捥がれようとも、本日のことは決して誰にも漏らしませんわ」


 あたくしの思惑をきちんと理解した上で、まさかそう返されるなんて。

 だって、普通は素知らぬ顔で受け取るものでしょう。そのために手を貸してくれたのではないの?

 もうスチュアート家の乳母でもなんでもない、役目を終えて暮らしている身だというのに、それでは本当にただの親切心じゃない。


「……。……発想が怖いわ。そうまでして隠し通さなくてもいいわ」

「ふふふ、エルヴィラ様はお優しいのですね。比喩ですわ」


 わかっているわよ、そんなこと。

 それに、なにが優しいものですか。デボラといい、あの庭師の彼女といい、あたくしのことを見誤りすぎだわ。


「レイモンド様が戻られるまでお茶でもいかがですか?」


 家は小さく、玄関から応接間、キッチンまでがひとつの部屋にあって、デボラがお湯を沸かす姿もすべて視界に入ってしまう。

 庶民の家というのはみなこうなのかしら。

 階段があるから上にも部屋があるのだろうし、ドアも一枚だけれどある。それでも、あたくしの部屋と比べてすら余りあるよう。

 もし、もしも婚約破棄をされた時にお父様に勘当されていたら、このようなところで生活することになっていたのかしら……。


「…………」


 考えても仕方がないわ。やめましょう。

 とにかく大事なことはレイに愛想を尽かされないようにすること。そして、いつか飽きられてしまったときには、このような生活にならぬように手立てを考えないといけないのだわ。


「まあ、エルヴィラ様。胸が痛いのですか?」

「えっ? あ」


 いつの間にか胸元を押さえていた。もう精霊の声は聴こえないし、痛くも苦しくもないというのに、あたくしはなにを。


「やはり横になられた方が……」


 戻ってきていたデボラの心配そうな視線から逃れるように、慌てて手を下ろした。


「だ、大丈夫よ」

「本当ですか? 無理はなさらないでくださいませね」

「ええ。ありがとう。問題ないわ」


 もう一度繰り返して、誤魔化すように目の前に置かれた紅茶の入ったカップを手にした。

 あ……。飲むつもりはなかったけれど、こうなったら口くらいはつけないと失礼にあたるわね。ナイトレイ侯爵家の娘が、たとえ平民相手でもそのような礼儀知らずをしていいわけがない。

 カップは……、隅々まで磨かれているみたい。紅茶の香りもいいものだわ。ひとまず安心かしら。


「……」


 違う、違うわ。

 レイが親しくしている者の前で嫌な態度を取ってはいけないわ。思い出しなさい、エルヴィラ。今日街に来るにあたってなにを心に決めてきたのかを。

 表面上でもきちんとしていないと駄目なのに、すぐに忘れて駄目ね。

 できるだけ威圧感を与えないように意識して微笑みかける。


「ありがとう。いただくわ」


 そうしてゆっくりカップを傾けて、味わう前に飲み込んでしまおう──として、はたと目を見開く。

 え、だって。なにかしらこの香り。

 期待もしていなかった湯気から運ばれてきていたものとは違って、口に含んだ途端鼻に抜ける豊かなハーブのそれ。


「こ、こちらはどの茶葉を使っているのかしら?」


 大した茶葉など使っていないとたかを括っていたのに、思わず尋ねてしまった。それもだいぶ前のめりに。


「まあ、お気に召されましたか? そちらはレイモンド様もお好きな物ですので、きっとお屋敷にもございますわ」

「レイが? そうなの?」

「ええ、ええ」


 デボラはにこにこと微笑むばかりで、あたくしの醜態は気にも留めていないよう。

 そう。これがレイが好きな味なのね……。知らなかったわ。

 ああいけない。頬が緩んでしまいそう。


「…………聞いてもいいかしら」

「ええ、はい。私でお答えできることでしたらなんなりと」

「あなたはレイの乳母と言ったわね? その……」


 レイの幼い時の話とか。聞いてみたくて仕方がないけれど、でも、本人のいない場でなんてはしたないかしら。

 言い淀むあたくしをきょとりとした茶色の目が捉え、そうして徐々に徐々に緩められていく目尻に、もうどうしようもなく居た堪れなくなってくる。


「そういうことでございますか! そうですね、そうですねえ……。ではひとつ、老婆心ながらご助言を」


 何を感じ取って何を納得して、一体何を言うつもりかしら。


「こほん」


 と、ひとつ咳払いをして改まるものだから、元々伸びている背筋を正してしまったじゃないの。

 ノーラに似てるからかしら……。乳母というのは、人に無意識に気持ちを正させる才能がないとなれないの?


「わたくし実は手先の器用さだけが取り柄でして、それをを幼いレイモンド様に褒めていただいたことがございました。ではいつかお店でもはじめようかしらと呟き、その時はそれで終わったのです」


 思わず瞬きをしてしまった。

 デボラも、なんの脈絡もない話をしていると自覚しているのでしょう。「まあお聞きくださいませ」と笑った。


「数年後、わたくしがお屋敷を辞する時にレイモンド様がおっしゃったのです。『なんの店を出すつもりなのか』と。まさか、あのような些細な話を覚えていてくださるとは思ってもみませんでしたわ」

「……そう。レイは、会ったこともない馬丁の息子の誕生日も把握されているみたいだものね」


 不意に思い出したことが口をついた。

 すると、一体何がそんなに嬉しいのか、デボラは「そうでしょう、そうでしょう」と声色を明るくした。


「エルヴィラ様はレイモンド様をよくご存知でいらっしゃるのですね」

「……それで? なんと答えたの?」


 頬が熱い。赤くなどなっていないかしら?この上、みっともない姿など晒せないわ。

 その生暖かい微笑みはどういう意味なの、デボラ。


「魔法のオーナメントを売るお店にします、とお答えしました」

「魔法のオーナメント?」

「ええ。それほど特別なものではないのですが、光の魔法得意でございまして」

 

 あのような、と示された壁際にはいくつか光る飾りがあった。

 砂のように細かな光の粒子を纏わせているもの、七色に点滅するもの、ゆったりと回転するもの、様々でひとつとして同じ形のものがない。けれど、なんだか見たことがある。


「……あ、家の飾り」

「ええ! この街の飾りはいくつかはわたくしの作ったものですわ」


 魔法でできているものだからかしら。雰囲気が似ているような気がした。

 あら。魔法……ということは。


「もしかして、浮遊魔法が使えぬ者でも高い所に飾れたりするの?」

「やはり、王都のご令嬢様でございますわね! おっしゃる通りです」


 大したものね。

 光という無形のものに形を与えるだけでもセンスが必要なのに、加えて希少な浮遊魔法を誰でも使えるようにしたなんて、素晴らしい才能だわ。


「レイモンド様には毎年この時期にお買い求めいただくのです。厩舎の飾り付けにとまとめて。お陰様で、飾ればスチュアート家のような強く速い馬になると話題になり、領地を超えてご注文いただくようになりました」


 デボラは謙遜しているようだけれど、いくらあやかりたいとはいえ、中途半端なものに継続的なお客がつくということはないでしょう。やはり皆この発明に価値を見出しているのね。


「わたくしのような者の何気ないひと言も覚えていて、よくしてくださる。その理由は、きっともうエルヴィラ様はご存知でしょう」


 ええ、そうね。

 彼はただ優しいというだけでなく、貴族も平民も関係なく懐に入れた者達に対して温かな心を向けられる方。

 毎年一度、同じ時期にというのも彼女の負担を考えた上ででしょう。

 厩舎の飾りだけというからそれほど多くはないけれど、すぐに用意できるほど少なくもないから、一年かけて準備ができるように。

 きっと、数だってデボラの助けになるほどを考え抜いておられるはずだわ。だって、そういうことを気遣える方だもの。


「どんなことでも直接お伺いしてみればよろしいですわ。きっとエルヴィラ様でしたらレイモンド様は拒否なさいませんし、真摯に受け止めてくださいます」

「……そうね。不躾な質問だったわ」


 そう言えば、デボラは大袈裟な仕草で「あら!」と目を見開いた。


「エルヴィラ様からはひとつもご質問はいただいておりませんわ。お節介な話を一方的にお聞かせしてしまっただけですもの。何も不躾なことなどありません」


 デボラはそれから、随分と明るい顔で胸を撫で下ろした。


「ああ、それにしてもこのデボラ、気掛かりがなくなり安堵いたしました。レイモンド様が素敵なご令嬢をお迎えになられるなんて。ご結婚なさらないばかりか、ロリコンではないかとのお噂を耳にした時は、本当に、心臓が止まるかと思いましたもの」

「………………ねえ、ちょっと? その噂については尋ねたいのだけれど」


 その話、確かオルガさんも言っていたわね?ソフィアさんだって知っているようだったわ。

 噂?噂が広まっているというの?この辺境の地にまで?エルヴィラ・ディア・ナイトレイが、社交界ではほんの少しだって耳にしたことがないのだけれど。


「エルヴィラ様、この家の飾り付けももちろんわたくしが作っております。ご覧になりませんか?」


 誤魔化すつもり?顔色も変えずに強引に話を逸らさないで。

 ちょ、ちょっと腕を引っ張らないで!あたくしの腕を!そのような無礼、いくらなんでも許さなくてよ!?

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