北の領地
実を言うと、あたくしは平民の暮らす町におりたことない。
いままで全く興味がなかったのと、わざわざ自分の足で歩く理由がなかったのと、馬車から眺めたことのある城下町の人々があまりに品のない話し方でいるから。
とにかく、行きたいと思わなかった。
「国境にばかり詰めているのですが、時間を見つけては様子を見に来るようにしているのです」
馬車で向かい合わせに座ったレイが道中に領地のことを教えてくださるその話ぶりから、彼が領民との仲が良好なことが伺える。
まあ、それはそうでしょうね。
マシューや彼のお父様と良い関係を築いているのだもの。レイはもちろん自身の管轄となる領民を気遣うでしょうし、そんな人柄や行動に人々は惹かれて慕うでしょう。
「普段は農地などの様子を見るのですが、本日は町の方へ参りましょう。もちろん、この北の地の美しい自然も見ていただきたいのですが──」
そこで少し言葉を切ったレイはほんの少し目元を和らげた。
「せっかくのデートですから。あなたが少しでも楽しんで、我が領地を好きになっていただければいいなと」
言動全てから、あたくしのことを想ってくださっていることがわかる。
レイがシェーン様へ放った『こんなど田舎』という言葉。
領地を愛してらっしゃる方が、その地を下げるようなことを思っているはずがない。
きっと、あたくしが王都でしか生きられない箱入り令嬢と思われてこその言葉なのだわ。
間違ってはいないのだけれど。
今も、馬車の外の景色は「緑が多いわね」という感想以外なにも出てこない。
もちろん、辺境伯の妻としての勤めはきちんと果たすつもりだけれど、それは別に領地に頻繁に通わなければいけないということではないはず。
最低限、今日くらいは楽しんでいるように見せなければ。
──と。
どの口が言ったかしらね。
「まあ、道の木々全てに魔法をかけておりますの? 光の飾り付けがされているわ」
町が近づくにつれキラキラと増える金色は、よく見れば魔法による光の装飾でした。
道の両脇に並ぶ木々はもちろん、ぽつぽつと見えはじめた建物や通り過ぎる馬車までも同じく細かな粒子を纏う金で美しく飾り立てられている。
「実は今はルーシア祭の時期なのです」
「ルーシア祭? 光の女神ルーシアのことですの?」
「ええ。ここ北方領は光を司る神々への信仰が厚く、こうした光にまつわる神の誕生を祝う祭が盛んです」
地域柄、日照時間が短いことで有名ですものね。
だからこそ光がある時間を大切にし、それ故に太陽神や光の女神への信仰心が強いというのは、王子妃教育の一環で地理や国史を学んだ時に知っておりました。
「それもあって、エルヴィラにも少しは楽しんでいただけるかと思い」
その思惑は大成功だわ。
実際にこの目で見てみると、教本には書かれていなかったものが次々とあたくしの興味を引いていく。
「あちらの家のドアにかけられているのは何かしら? 女性の像のように見えたわ。あら、こちらは屋根の上にも。あんなに高い所にどうやって飾ったのかしら? 浮遊魔法は大変高度ですけれど、もしかして平民でも扱える者が……、レイ?」
お返事がない。
はたと見上げれば、レイがあたくしをひどく穏やかな瞳で眺めていらっしゃるのにようやく気がついた。
「どちらですか?」
そう言って、あたくしが示す方を覗き込むようにして身を乗り出してきたおかげで、触れてしまいそうになるほど近づいてその体温すら伝わってくるよう。
「え、あの……」
「はい」
なにを見ていたかなど、すっかり頭から飛んでしまった。
息が苦しいくらいバクバクと心臓が高鳴っているのが自分でもわかる。
「も、申し訳ございません。はしたない真似をいたしました」
ああなんてこと。
馬車で窓に張り付くばかりか、あんなにもはしゃいだ姿を見せてしまうなんて。
こんなこと、侯爵家にいた時は一度もなかったのに、これではレイに誤解されてしまうのではないかしら。
ハッ……!
それよりも、また年相応の子供のようだと呆れられるかしら?そちらの方が嫌!
「エルヴィラの在り様を否定するつもりは毛頭ないのですが、俺には──」
「旦那様、到着いたしました」
御者の声に遮られる形でレイはぴたりと口を止めた。
それでも数秒、続きの言葉を待ってみたけれど、彼は結局笑って首を横に振り、代わりに御者へ返事をした。
「いえ、過ぎたことでした。どうぞ、お手を」
「……ええ」
あたくしを否定するつもりがなく、それで一体なにを飲み込んだのかしら。
「……」
でも、今はなにを言っても教えてはくれなそう。忘れた頃に何気なく聞いてみましょうか。
なんだか腑に落ちないけれど、ほんの少しの苛立ちを胸の奥にしまいこむ。
「ここからは歩くのですが……」
「よくてよ」
決して狭いわけではないけれど、王都に比較すれば馬車など到底馬車が通れるような広さはない。
加えてお祭りの準備なのか、人の往来が大変なことになっている。
「では、はぐれぬように俺の腕へお手を」
「えっ」
思わず声を上げてしまった。
当然のように曲げた腕を差し出され、それとレイとを交互に見てしまう。
確かに、見るからに賑わっている街道へこれから足を踏み入れようというのだから、レイのおっしゃる通り一度離れてしまっては再会に時間がかかってしまうでしょう。
けれども、街中で結婚もしていない殿方と腕を組んで歩くというのは、ど、どうなのかしら……!
「エルヴィラ?」
だけれどレイは不思議そうな表情をなさって、ちっとも違和感を感じてらっしゃらないの?
こんなに意識しているのは、もしかしてあたくしだけ!?
……それはそれでなんだか癪だわ。
こほん、とひとつ咳払いをして、ツンと他所を向きつつ彼の腕に手を絡めた。
「せいぜい離さないでちょうだいね。知らない街で放り出されるのはごめんだわ」
あたくしったら、なんてかわいくないことを……!
ついつい口をついて出た余計なひと言を、けれどもレイは笑みをただ深めて「もちろんです」と大きく頷いただけだった。
「もし、なにか気になるものがございましたらおっしゃってください」
などと言いながら、いよいよ人混みに踏み入れた。
街道はまっすぐ一本道で両脇には家々が立ち並ぶ。その前にはところどころで露店が展開されて、それらも全て馬車から見た光の飾りで輝いている。
あたくしが欲しいと思うものはないけれど、それでも初めて見る光景に次々目移りしてしまう。
《クルシイ……!》
──え?
な、なにかしら。今何か突然、……声?
これ、これは……もしかして精霊の?
でも、でもあたくしもう子供の頃と違って、精霊の声は言葉としては聞こえないはずなのに……。
《イタイ、イタイ、クルシイヨォ……》
ぐうっと胸の辺りが急激に押しつぶされたような感覚。
カヒュ、と息が漏れ、息が、できない……?
嘘、なに、どうして。
「エルヴィラ? どうかなさいましたか?」
けれどもあたくしの胸は上下し、きちんと呼吸ができている。そのはず。
なのにこの苦しさは……。
まさか。もしや。精霊が今これを感じているの?
でも、声は聞こえても感覚まで共有されることなんて、今までは……。
「……!」
「エルヴィラっ!」
その瞬間、鋭い痛みが身体中を稲妻のように走った。戸惑う暇もなく目の前がチカっと明滅している。
と、思えば、至近距離でレイが覗き込んできているのが視界に入り、背に伝わる掌と彼の心配一色の顔と共に、青天が見えることからようやく己の今の体勢を知る。
あたくし、今倒れそうになったのかしら。それを、寸前でレイに抱き止められたのだわ。
「大丈夫ですか!? 一体どうなさったのです。いや、それより早く医者を……!」
「ま、待って、待ってちょうだい! 静かになさって!」
「エルヴィラ?」
精霊の声が薄れていく。
彼らがあたくしから遠ざかっている。苦しみを訴える声を発し続けながら。
どうして、どういうことなの。
精霊が苦しむ事態に、この国が普通でいられるはずがない。
けれども、周囲の人々は話し、笑い、そして建物の飾りの魔法は絶えていない。
──シェーン様のあの話と、これは、果たして同じかしら。
レイを見上げれば、心配そうな顔であたくしの言うことを守って静かにしてくださっている。
「レイ」
「! はい、どこかで休まれますか」
「ええ、でもそれより、今からあたくしが言うことを、どうか聞いてくださらない?」
「ですが」
「時間がないの。まだ聞こえるけれど、でも今もどんどん遠ざかっていくの……」
「聞こえる? 一体なにが……」
告げるにはとても勇気がいる。
けれども、あたくしに苦しみを伝染させてまで訴えてくる妖精たちのことを、見捨てることはできない。
幸い、この国で一等腕の立つ男が今、あたくしのそばにいるのだから。
ひとつ息をして、覚悟を持って見上げる。
「精霊たちの声が、頭の中で響くように聴こえてますの」
突拍子もない告白に、レイは空色の瞳を大きく見開いて沈黙してしまった。
無理もないわ。
だけれど今頼れるのはレイしかいない。その胸元を縋り付くように握り締めた。
「子供の頃は制御もできなかったけれど、今では精霊の声を聴く耳だけに蓋をして、聴かないようにできていたはずなの」
完璧なはずだったそれを越えてまで、精霊があたくしに助けを求めているのだとしたら。
「苦しい、痛いと言って精霊たちが今感じているその痛みを伝えてきている。それなのに、彼らはあたくしから遠ざかっていってしまっているの」
レイはただ黙ってあたくしを覗き込み、微動だにしない。
表情に出されないだけまだマシかしら。あたくしだって、我ながらおかしなことを口にしている自覚はあるもの。
だけど。
「お願い、レイ。きっとよくないことが今彼らに起こっているの。どうか助けて」
「……」
そっとあたくしの手が取られて、そのままレイから離される。
ああ、やはり信じてもらえない。
顔を見るのが怖くて、それでも俯けないのはレイにしか頼れないのと、物理的に身体を起こすことができないから。
「……わかりました」
「え?」
「ですが、今の状態のエルヴィラをおひとりで置いてはいけません」
取られた手をきゅっと握られ、空色の目を心配気にしかめられた。
まさか、信じたのかしら。
自分から言っておいて唖然としてしまった。
「まずは馬車へあなたを運びます。それから、その精霊とやらを追いましょう」
「……でも、こうしている今も、もう声が聴こえなく……」
馬車になど移動していたら、その間に声も聞こえなくなるでしょうし、そしたらきっと方角もわからなくなってしまう。
「あらあらまあまあ! レイモンド様! どうなさいました!?」
パン、と張ったような快活な声が飛んできた。
レイと共にそちらを見上げると、ふくよかな女性が茶色の目を丸くしてパタパタと近づいてくるところだった。
「デボラ……!」
「お久しぶりでございますねえ。……などと、呑気に言っている場合ではなさそうですね」
どうやらレイと知り合いらしい彼女は、ふっと黙り込んだ後、再びぱっと笑顔を作った。
「実は、ちょうど息子が帰って参りました折に飾り付けをしたもので、昨年よりも見応えあるかと思いますわ。ぜひいらしてくださいませ」
なんの話かしら。
などと思えば、一転、声を低く落とした彼女がそっとレイにささやいた。
「お加減が悪いのですか?」
「……」
「私の家はこのすぐ近くです。なにか、このデボラがお役に立てることがございましたら、なんでもおっしゃってくださいませ」
あたくしの体調が悪いのを周囲に知らせないために、わざと家に誘うような話で声を張り上げたのだわ、彼女。
このような気遣いができるなど、一体何者なのかしら。
同じく彼女の意図を汲んだらしいレイは、ほんの少し迷うそぶりを見せたけれど、それも一瞬のことですぐにあたくしへ視線を戻した。
「今もまだ、どちらの方角かわかりますか?」
精霊の声を追っていただけるのかしら。
声が遠ざかるにつれて、痛みも薄れていっている。けれども、息苦しさが変わらず残っているものだから、震える指で方向を指すので精一杯でした。
そちらを見据えたレイは、ふと「……まさか」と呟いた。
「エルヴィラ。デボラは俺の乳母をしていた者で、信頼のおける人間です。とはいえ──」
「ええ、ええ。大人しく待てますわ」
このあたくしの話を聞いてくださったばかりか動いてまでいただけるのだもの。これくらいの我慢はしなくては。
いやだ、ますます心配そうな顔で見ないでちょうだい。待てますし、もう立てそうですし、とにかく早く行って帰ってきてくださいませ。
「すぐ戻って参ります」
余裕がないのも相まって、あまりにも可愛げのない態度でしたのに、レイは丁寧にあたくしの手にキスを落としてから、あっという間に先ほど指し示した方角へ走り去っていってしまった。