嫉妬
貴族というイキモノは、結局どんなことを言っていても、権力の前には無力だ。
──あたくしはエルヴィラ・ディア・ナイトレイ。
それ以上でもそれ以下でもなく、だからこそ誰もがあたくしにひれ伏す。
王子に捨てられた、哀れな令嬢。けれども、未だお父様は国王陛下の右腕で、国王陛下ご自身の後ろ盾までもが約束されたあたくしを、“常識のある”貴族ならば軽んじることはない。
騒つく視線は、周りに紳士が誰もいなくなったことで大変直接的になった。
あたくしがすることといえば、壁際の椅子に腰掛け扇子を広げる。それだけ。
それだけで、何をするでもなくスルスルと周囲に人が集まりはじめる。
ま、悪くはない顔ぶれね。
「エルヴィラ様」
「まあ、ソフィアさん」
まずはじめにお声をかけてくださったのは、若草色のドレスに身を包んだソフィアさんだった。
「ソフィアさんもご招待されていたのね」
「はい、私のような貴族にも招待状をいただけましたの」
謙遜しているけれど、ソフィアさんも王都に屋敷を構えているだけあって、それなりに力を持った貴族の娘だ。
それだけに、伯爵もソフィアさんの結婚相手を探すのに、苦労なさっているのではないかしら。……もちろん、ソフィアさんの男性の好みが大変厳しいということも、あるにはあるみたいでしょうけど。
「スチュアート辺境伯のお姿を初めてきちんと拝見いたしましたけれど、やはり、大変見目の良い殿方ですわね。思わず溜息が漏れてしまいました」
頬に手を当てほう、と余韻に浸っているソフィアさんに、なんだか気恥ずかしくなってしまって、無意味にパタパタ扇子を扇いでしまう。
そんなあたくしに気づくことなく、次いで彼女はあたくしの全身をゆっくりと眺めて、再びうっとりと息をついた。
「エルヴィラ様の今日の装い、素晴らしいデザインですわ。さすがエルヴィラ様、大変よくお似合いで」
実は私も深緑のドレスと迷っていましたの。
サテンのドレスをつまんで、彼女は気恥ずかしそうにはにかんだ。
ところで、あたくしは彼女のこのはにかみ笑顔がとても好みですの。これはオルガさんと議論をしている途中ですけれど、くるくる動く表情の中でそれが一番魅力的だわ。
「この色でも微妙ですけれど、でも、同じ色のドレスでも着ていたら、私こんなにもお美しいエルヴィラ様のお隣になんて立てませんでした」
「まあ、ソフィアさん。きっと同じ色でも、あたくしでは絶対に出せない愛らしさになるでしょうね。そうだわ。次は同じ色のドレスで──、」
「エルヴィラ様」
不意に、あたくしの言葉に被さるように声がかかり、二人してぴたりと動きが止まる。
ソフィアさんの気遣わしげな沈黙に、目配せだけで彼女を留める。そうして、あたくしはにこりと微笑んで声の方に視線を向けた。
そこには、真っ青な目をしたご令嬢が立ってらした。にこやかにいらっしゃるけれど、見覚えはない。
主催者が違えば、顔ぶれも違う。見たことのないご令嬢がいるのもおかしな話ではない。
そんなことはどうでもよろしくて、なにより、あたくしの話を遮ったのが気に入らない。
彼女は全く気にした様子もない。最近のご令嬢は社交界のルールを無視するのが流行なのかしら。
あ、どこかの女はご令嬢などではなくてただの平民だったわね。
「……まあ、はじめまして」
感じの良い、柔らかな声でご挨拶をして差し上げれば、彼女はますます笑みを深めて膝を折った。
「ジョアンナと申します。実は、はじめましてではないんですけど」
あら、あたくしとしたことが、記憶にないなんてことあるかしら。
ジョアンナ……、なんて、よくある名前だもの。少し考えても出てこない。
少し赤味がかった黒髪に真っ青な目。見た目では、覚えられないほど地味ではない。
「ごめんなさいね、どこでお会いしたかしら」
彼女の柳眉がぴく、と上がったがそれっきり、表情は変わらない。あらあら、とんでもなくプライドが高いご令嬢だこと。
自分を棚上げにしているけれど、それはそれ。
「二年前、私の母の誕生日パーティーにご参加いただいたのですよね、ジョアンナ様。──カロ男爵家のご令嬢ですわ」
そこへソフィアさんが割って入ってきた。最後の言葉はあたくしにしか聞こえないように、低く声を落としてくださった。
なるほど。いえ、未だに記憶にはないけれど、あたくしは何度もソフィアさんのお母様の誕生日パーティーにお呼ばれしているし、何かですれ違っていたこともあるかもしれない。
ま、だからといってあたくしから言うことではありませんけれど。
「……エルヴィラ様は、いつもお美しいドレスですのね。ソフィア様のパーティーでも、素敵な藤色のドレスをお召しで。ルビーとダイアモンドが散りばめられた」
「ありがとう。あれはお気に入りの一着だったわ」
「そうでしょうね。だって、あのお色は一番エルヴィラ様にお似合いでしたもの」
何が仰りたいのかしら。
あたくしが濃紫のドレスしか着ないというのは、社交界では大変有名な話であった。そして、それがオーランド殿下のため、というのも同じくらい。
彼女の瞳は挑発的に輝いていた。
面識もなければ、もちろん話したこともありませんのに、なぜこうも喧嘩を売られるのかしら。
──ま、売られた喧嘩は買いますけれど。
「カロ男爵家のジョアンナ様」
「まあ、やはりお覚えで」
「いいえ、ソフィアさんに教えていただいたの。今」
ほんの一瞬、ジョアンナ様が真顔になった。
ああ、楽しくなってきた。この感覚は久しぶりだわ。
「とりあえずは、あなたの無作法を咎めはしないわ。代わりに教えてちょうだい。一体、あたくしの何が気に入らないのかしら?」
「ま。気に入らないだなんて。違いますわ。私はただ、エルヴィラ様と仲良くしたいだけですもの」
わかりやすい棘と敵意ですこと。かの女よりかはわかりやすい。
僻みか、嫉妬か。
大きな口で弧を描き、誰からも好かれるような表情をしているていの彼女は、あたくしからすればとても気味が悪い。
「第二王子殿下のお次は、将来有望な辺境伯の婚約者に即転職なさるなんて。どうやって彼の方をオトしたのか、ぜひお聞きしたいです」
権力に対してであれば、対処は簡単でしたけれど。これは、彼女のこの燃え盛る青い目は、どう考えても女の目。
──ああ、嫌だわ。
人知れず途方に暮れてしまう。
学院時代ならいざ知らず 、今のあたくしには、それと対抗するほどの気力、……それから理由も、ないんだもの。
ふと、レイの言葉が耳に蘇った気がした。
低く少し掠れた彼の声で紡がれた、あたくしが望まぬ答え。
そのようなこと、レイが知るよしもないのでしょうけれど。
「……そう。でしたら、これから仲良くしましょう。あたくしと同じ社交界に出られる機会が、あなたにもあればの話ですけれど」
ソフィアさんが静かに目を丸くしたのが、気配だけでもよくわかった。
驚かれてるでしょうね、こんなあからさまな挑発を黙って無視するだなんて、あたくしらしくない。
それでも、今は。
「…………」
ジョアンナ様はジョアンナ様で、艶やかな唇を噛み締め、不満気な目でじっとりと睨んでくる。
そうしていつまでもいなさいな。あなた程度でできることなど、それぐらいですものね。
視界の端で、フェルナン様がグラスを片手に佇んでらっしゃるのが見える。手持ち無沙汰、けれども、この明らかに面倒そうな女の争いの中に割って入りたくはない。大方そのようなことでしょうけれど、いい加減、来てくださらないと困るわ。
「あら、フェルナン様ではありませんか!」
不意にソフィアさんが大きな声を挙げた。
それに驚いて思わず扇子から顔を上げてしまったのと、フェルナン様がみるみるうちに表情を変えたのは同時だった。
あたくしたちを取り囲んでいたご令嬢方が、一斉にソフィアさんの視線の先へと集中したために、瞬時にそれは非常に柔らかな無表情へと様変わりしましたけれど。
「ご要望のカクテルです」
「フェルナン様」
「……もちろん、フルーツジュースの」
「まあ、ありがとう。ほんの少し、お時間がかかっていたようですけれど」
グラスを受け取り、ついでにやんわりとした毒を吐いて差し上げれば、にこやかな笑顔がお返しされた。
「御機嫌よう、フェルナン様。覚えておいででしょうか。私──、」
「ソフィア・ベルク伯爵令嬢、でしょう」
「ええ、ええ。まあ、感激ですわ。一度お話したきりでしたけれど」
「お二人はご面識が?」
驚いた。
てっきり、フェルナン様は貴族令嬢がお嫌いかと、勝手に思っていたわ。
いえ、というより、ソフィアさんのお顔が広いのかしらね。
「エルヴィラ様へはまだお伝えしてませんでしたね。私、一度フェルナン様とはお見合いをさせていただいておりますの」
瞬間、あたくしだけでなく、その場の空気が驚愕に固まった。
なにより、フェルナン様の表情が見る間に渋面へと変わっていく。
「ソフィア嬢」
咎めるような声に、しかしソフィアさんは肩をすくめるばかり。
あたくしも初耳なだけに声を出せなかったけれど、お見合いですって?フェルナン様とソフィアさんが?
唖然としてソフィアさんを見つめるけれど、彼女は彼女でこちらを見ない。まあま、このご様子だと、またベルク伯爵を困らせる返答をなさったのかしら。
突然だけれど、フェルナン様は見目がいい。
輝くブロンドは常にぴっちりと整えられ、同じ色の長い睫毛に縁取られたサファイアの瞳は、ほんのり眦は垂れているが、それが彼の端正なお顔に甘さを添えている。
騎士団に所属しているとのことで、背も高くしなやかな筋肉が隠しきれていないと、もっぱら侍女たちの黄色い噂の的である。
ソフィアさんも、学院時代は「見目だけならばフェルナン様がここでは一番」と恥も外聞もなく仰っていたのに、またも駄目だったのね。
「よろしくてよ。お二人で踊っていらしたら?」
呆れも混じったけれど、特に隠すつもりもなかったのでついでに苦笑と溜息も付けて差し上げた。
「エルヴィラ様、ご冗談を」
「……」
ソフィアさん、一考の余地もないのかしら。
これは、フェルナン様の惨敗かしら。
これはあたくしのせいでは決してないのだから、怖い目で睨まないでほしいものだわ。
「でしたら、私と踊っていただけませんか?」
そのとき割って入ってきた声に、ジョアンナ様の存在をうっかり忘れ去ってしまっていたなんて、口が裂けても言えない。
というかいっそ、この流れに乗じてどこかへ辞してくださっていればよかったのに。
あなたのお目当はレイなのではなくって?……ああ、あたくしへの当てつけかしら。注目してもらえないと気が済まないとか?無視されたことが我慢ならないとでも言いたいのかしら。
扇子で隠した下に、面倒そうな表情を見つけられてしまったのでしょう。フェルナン様と目が合った瞬間、ひょいと眉を上げられた。
なにかしら、その心底意外だとでも言いたげなお顔は。
彼は何を言うでもなく、けれど、あたくしが受け取るはずだったカクテルグラスを通りがかりの給仕に預けると、そのままその手をあたくしに差し出してきた。
「あら」
「……叔父上とは一度踊ったんでしょう?」
一曲目のワルツはパートナーと。
社交界のルールをわざわざこの場で確認してくださったのは、きっとあたくしがジョアンナ様を持て余していたから。
まさかの優しさに漏れた声に、フェルナン様は居心地が悪そうに身動ぐと、手を再度目前まで伸ばしてきた。
「一曲、お相手願いたい。レディ・エルヴィラ」
「ふふ、喜んんで」
笑ってしまったのはご愛嬌でしょう。
手を乗せれば、ふわりと席を立たされ、あっという間にダンスホールの中心に引き込まれてしまった。
「フェルナン様がダンスがお上手とは思いませんでした」
「母上に叩き込まれているんだ」
「ああ、アンドレア様に」
たしかに、彼女であれば教育に余念がないでしょう。付き合いは短いけれど、そういったことは完璧になさる方であるというのはよくわかる。
不安の全くないリードでステップを踏み、想定もしていなかった展開に思わず口が滑った。
「あたくし、フェルナン様のことを誤解しておりましたわ。ずっと、あたくしたちのことを見下しているかと」
「なんだ、その不名誉なイメージは」
それをどう勘違いなさったのか、フェルナン様の無言の圧にますます笑みが深くなる。自分でも、悪い顔だということは自覚がある。
「まあまあ、怒らないでくださらない? このあたくしが謝罪を述べているのだから」
「……その、どこまでも上から目線なところは、どうかと思うけどね。今も、前も」
「だってあたくしは──」
「エルヴィラ・ディア・ナイトレイ、でしょう。学院で耳にタコができるほど聞いた」
はくり、と続く言葉を奪われた。
まあわかっているじゃないの。なら、黙ってあたくしの話を聞いてくださらないかしら。
「話し方も貴族らしくしろと言うのか?」
「そこは……、別にいいですわ。学院では、身分の隔たりもなく、ですもの。それに、今更改められても遅いというもの」
顔を突き合わせたときから、あなた思いっきり学院時代のままという感じで、話しかけてきたじゃないの。
そう言えば、それもそうだなとあっさり肩をすくめた。
いえ、だからって少しは弁えなさいよ。
「…………調子」
「はい?」
「戻ったみたいだね。エルヴィラ・ディア・ナイトレイだ」
なにを言っているのかしら。
あたくしがあたくしなのはどこから見てもそうでしょう。
返事が見つけられずに、きょとりと見上げていたのがいけなかった。不意にフェルナン様が吹き出した。
「……ちょっと?」
「いや、ごめん。面白くて」
「フェルナン様」
「わかってるわかってる。あー、心配して損したなぁ」
心配ですって?フェルナン様が?あたくしを?
「叔父上を、だよ」
……どういう意味かしら。
フェルナン様はすでに笑いを収められていて、「感情ダダ漏れだよ」と余計な一言を添えられてからあたくしをくるりとターンさせた。
「あのエルヴィラ・ディア・ナイトレイってだけでも厄介なのに、ついでに第二王子の元婚約者ときた。とんでもないものをと思ったけど、なんだ、叔父上のいつもの暴走とでも思えば、少しは胃痛も治るかもしれない」
さらりと傷をえぐってくるところは、特に優しさを見せることはないのね。まあ、もう今更痛む場所もないけれど。
やはり、フェルナン様に対する学院時代の印象は間違いではないのね。こういう、一歩引いたような冷静すぎるところが、ソフィアさんは嫌だったのかしら。
ふと、疑問が浮かんだ。そして、やめておけばいいのに、足を突っ込んでしまった。気が緩んでいたのね。
「フェルナン様は、ソフィアさんのことどう思っているんですの?」
「………………………………は?」
たっぷり数秒。
固まってしまった瞳の奥は、思考停止の文字がありありと浮かんでいる。
あらあら、人のこと言えないんではなくって?
それでもダンスの足は止めないのはさすがというか、あたくしとしてはこのまま観察していられるからいいのだけ──ど!?
「きゃっ」
一瞬のうちにグイッと後ろに引っ張られた。
いくら体幹のレッスンを欠かさないあたくしとはいえ、そんな不意打ちに対応できるわけがない。視線の先でやっとのことで正気に戻ったらしいフェルナン様も同様でしょう。
ダンス中に、パートナー以外の女性を奪い去るのは御法度。
一体、そんな失礼なことをしたのは誰かしら。
両二の腕を後ろから掴んでいる手の主を、キッと見上げたその先に。
「随分と熱い視線を送ってくれるものだな、フェルナン」
────とんでもない勘違いをなさっているレイがいらっしゃった。
その場の空気など、当然のごとく凍っていた。