夜会
馬車で揺られること一刻ほど。
あたくしは、もちろんレベッカのデザインしたドレスに身を包んでいた。
レベッカがあんなにも体型維持を念押ししたのは訳があった。
太るのはともかく、痩せるのまで禁止されて何事かと思ったけれど、完成したドレスを見て納得した。これは、ほんの少しだって体型が変わってしまったら、大変に不格好になるに違いなかった。
ダークグリーンのドレスは、彼女が言っていた通りホルターネックの胸元が隠されるものであった。けれど、夜会にふさわしく肩から先は露出され、特に背中などは腰まで大胆にざっくりと開かれている。本当にギリギリを攻めている。このあたくしが、何がとは言わないが、見えてしまいそうなほどの露出具合に、はしたなく悲鳴をあげてしまったほどに。
──こほん。
光沢のある生地で作られたドレスは、体のラインにぴったり沿うように流れ、足首から先は裾が大きく花開いている。
レベッカが人気の所以は、この前衛的なデザインにあった。こんなデザインのドレスは見たことがない。
きっと、この夜会でもあたくしだけでしょう。ただでさえ注目を集める身の上、これは確実に社交界の話題になる。経験上、確信の苦笑が漏れてしまう。
さて、アンドレア様の邸宅に着いたあたくし達は馬車を降り、会場へと続く廊下を進む他の招待客を横目に、別の方向へと案内されていく。
「どうも姉上は、この夜会で徹底的に俺達を目立たせたいらしい」
曰く、会場へと続くメインの廊下の他にあるここは、大広間のど真ん中から登場する扉に続いているらしい。
そのような特別な演出がなくとも、あたくしのせいで嫌という程目立つというのに……。
やはり、これはアンドレア様からの挑戦状ということかしら。
「姉上がこうして夜会を開くのは、初めてと言ってもいいくらいですからね。それにしたってすごい招待客の数だが……。姉上め、手当たり次第に招待したな」
最後にボソリとなにか悪態をつかれたように聞こえたが、生憎と聞き取れなかったばかりか、ちらりと見上げればすぐに気づかれて、ニッコリと誤魔化されてしまった。
そんなレイは、あたくしとお揃いのタキシードにそのたくましい身を隠し、艶やかな黒髪も綺麗に後ろに撫で付けていた。
あたくしと同じ、シフォンベルベットを使ったジャケットで、金色の刺繍をあしらった黒の生地の襟が、見事に締め色の役割を果たしている。ベストは大胆にシルバーグレーを、シャツに至ってはミッドナイトブルーである。黒のスカーフがあるからいいようなもので、あまりにも大胆すぎるものに仕上がっていた。
レベッカの代名詞とも言える個性的なデザインは、確実に着る人間を選ぶ。けれどレイは、違和感などどこかに投げ捨ててしまわれたかのように、平然と全てをモノにしてしまった。
流石のあたくしでも、一瞬この方の隣に立つことに気後れしそうになってしまった。いえ、まあ、すでにその腕に思い切り手を乗せて歩いていますけれどね。
「俺の何か、おかしいでしょうか?」
まだ見てはいないけれど、確実に言い切れる。今夜の舞踏会に参加する紳士方の誰よりも、レイは注目を集める危険な美しさを孕んでいる。
だというのに、そのようなことをお尋ねになる。さては、屋敷を出る前に姿見をご覧にならなかったわね?
喉まで出かかった嫌味のような言葉は、しかしなんとか飲み込んで、自信をたっぷりと含んで笑って見せた。
「いいえ? レベッカは大変腕のいいデザイナーですわね。思わず見惚れてしまうほどの……、あたくしをエスコートするにふさわしいお衣裳ですわね」
………………。
やってしまった…………。
ひくり、と口元がひきつりそうになったのをなんとか押しとどめて、しかし、内心はこの口の裏切りに冷や汗が止まらなかった。
なんてことを言ってしまってるのかしらあたくしは!あまりにもどこから目線で、通常運転すぎる。ドレスまで用意していただいた身で、こんな……。
────、
と、いうか、いつからあたくしはこんなにも人の顔色を伺う、気弱な令嬢になったのかしら。おかしい、絶対におかしいわ。
そう、そうよ。思わず言った瞬間後悔してしまったけれど、一体なぜこのあたくしが後悔しなくてはならないの?
「そうですか。ああ、よかった。それならば、安心だ」
なんて、あたくしの内心のせめぎ合いなど、軽く吹き飛ばすような気の抜けたお声に、思わず「は?」と不躾な声をあげそうになってしまった。
そこには、とろりとその瞳に熱をはらませ、心底安堵したように胸を撫で下ろした男がいた。
「なにぶん俺は見た目など頓着しないもので。貴女が今夜は一段と、その美しさを際立たせていらっしゃるから、そのお隣に立ち、その上エスコートをする権利が俺にはあるのであろうかと、今までとても自信がありませんでした」
どうか見た目に頓着してくださいませ。そうして、そのお顔の良さを自覚してくださいませんこと。でないとあたくし、あなたの無自覚に殺されてしまいそう。
だなんて、軽口を叩く暇もなかった。
「デビュタントで白いドレスに身を包んだ貴女も、卒業パーティーで濃紫のドレスに身を包んだ貴女も、まるで霞んでしまわれる。いえ、もちろん、過去の貴女が美しくないなどと、この世の理を疑うようなことを言っているのではありませんが……。ただ、感動してしまうのです。エルヴィラと同じ色の服を身にまとうことができるなんて、と。貴女を見初めた頃の俺には、このような幸運を、想像すら赦されなかった」
遠慮がちに伸ばされた手を、あたくしは拒まなかった。いいえ、拒めなかった。
この、エルヴィラ・ディア・ナイトレイが、あまりのことに体が固まって動けなかったのだ。
そうこうしているうちに、確かめるように無骨な指があたくしの頬を滑る。
「よく、お似合いです」
全ての感情を、その一言に集約されてしまった。
そして、完成したドレスを見たときに私室であげた悲鳴が、今もまた戻ってきそうで仕方がないのだけれど。
全身で、『愛されている』と勘違いしてしまいそう。
「まぁ……。自信がおありでないのなら、どなたか別の殿方に、今からエスコートをお願いした方がよろしいの?」
あまりにも熱すぎた。彼の視線が、あたくしには。
だから、苦し紛れに、レイの言葉尻をとって強がって見せただけなのだ。それなのに。
「他にあてが? 俺以外に美しい貴女をエスコートさせるぐらいなら、何を捨ててでもその男を排除しなくてはいけませんね」
場の温度がガクリと下がったのを痛いほど感じた。
むき出しの肩を無様に固まらせて、指一本も動かせないでいるあたくしを、きっと誰も責めることはできないでしょう。迫力のある謎の笑顔を前に、一体何を言えるっていうのかしら。
「冗談です」
ぜっったいに冗談などではないでしょう?!
でも、あ……、よかった。あたくし、もうあと一秒でも顔に見つめられていたら、どうなっていたかわからない。
「それを抜きにしても、誰にも見せずにこのまま帰ってしまいたいというのは、ありますが」
「え」
と、話は終わったと思っていたのが甘かったらしい。
「そんなことをすれば、姉上が何をおっしゃるかわからないからできはしないが」
「え」
「ああ、こんなにも美しい姿のエルヴィラを、他の男どもに見せでもしてうっかり惚れられでもしてしまったら……、そんな不遜な輩は斬って捨てればいいか」
やはり本気でしたわね、さっきのセリフ……!
「レ、レイ!?」
「ははは、冗談ですよ」
嘘だわ!二度目じゃないその言葉!
その一切笑っていない目と乾いた声で、ごまかせるとでも思ってらっしゃるの!?何を持ってして冗談とか言ってるのかしら、この人は!
「いや、申し訳ない。自分でも、思った以上に浮かれているらしい。そのようなこと姉上の屋敷で実行に移せば、本当に、どんな報復が待っているか知れたものではありませんからな……。もちろん、冗談ですとも」
レイの中でアンドレア様は思っていた以上に治外法権な方らしい。
……これ、失礼かしら。
「──と、戯言を戯れているうちに着きましたね。では、エルヴィラ、失礼いたします」
勝手知ったる様子で足を進めてきていたレイが、不意に歩みを止めた。目の前には重厚な白い扉が現れ、その先の大勢の気配に会場に続くそれだとわかった。
一言の断りとともに、あたくしが手を乗せていた腕がするりと腰に回ってきた。
入場時は令嬢が腰を抱かれ、手はエスコート相手に預ける形を取るのが夜会でのルールだった。
どうしても密着する形になるこの行為は、思っていたよりも相手の体温や匂いが伝ってきて、必要以上に緊張してしまう。もちろん、それはレイに伝わってしまい、クスリとかすかに漏らされた。
……こんなことで動揺させられて、あたくしのプライドが許せない。
「もう少し、お時間が必要ですか?」
「結構ですわ。参りましょう」
からかわれているとわかる声色に、ツンと返せばまた笑われた。本当に、その足踏んで差し上げようかしら。
「レイモンド・ド・ラ・スチュアート辺境伯並びにエルヴィラ・ディア・ナイトレイ侯爵令嬢」
決まり切った読み上げ文句とともに、目の前の扉が大きく開かれた。
太めの半円を描く特徴的な広間は、本来であれば両脇から入場するようになっているらしい。その片側のみが開かれ、招待客が今も入ってきている最中だった。もう片側は閉じられたまま──おそらく、主催であるガブリエル伯爵夫妻のための扉でしょう。
そして、あたくし達はそのどれでもない、半円の最も膨らんでいる場所からの入場というわけで。なるほど、レイが先ほどおっしゃっていた通り、ここなら全ての招待客が注目できる。ご丁寧に三段ほど周りより高くなっている。
一歩、会場に足を踏み入れた瞬間にぶわりと空気の塊が襲いかかってきたまでは、予想の範囲内だ。
好奇、嫌悪、驚愕、困惑、憐憫、嘲笑。
人によりそれは様々だけれど、誰も彼もがあたくし達に──あたくしに、注目しているのは明らか。
そんな、言ってしまえば非常に居心地の悪い空気の中を、レイはどこ吹く風で、むしろどことなく甘さを含んだ眼差しで、あたくしだけを見つめながら進んでいく。
先に階段を降りた彼に手を差し出され、それに引かれるようにして一段一段あたくしも降りていく。
「……」
「……」
「……レイ」
「なんでしょう」
「あの、」
「はい」
他の人間の反応なんて、全くもって響かない。そう全身で言い表しているかのようだ。いえ、実際そうなのでしょう。
卒業パーティーであんな醜態を晒した令嬢が、どの面下げてと皆様には思われているかもしれないけれど、大した問題ではない。
そんなことよりも、なによりも、レイの、このなんとも言えない、擽ったくなるような視線の方が、よっぽど落ち着いていられない。
だからやめていただきたい……のに、言えない。
だって、あたくしの呼びかけに答えるその目が!なんてキラキラと輝いているの!
何故だかその目を見ていると言葉が出てこなくて、結局黙り込んでしまう。
「……ああ! 一曲目のワルツですね。申し訳ありません、俺としたことが、美しいあなたに見とれてばかりで、女性に待ちぼうけをさせてしまうなどとは。大変失礼をいたしました」
そして、あたくしのその態度に何を勘違いしたのかしら、言葉とは裏腹にどこまでも自然な動作で手を差し出され、視線を合わせたままほんのり甘く笑みを向けられた。
「一曲、踊っていただけますか」
ワルツが流れはじめた。未だ突き刺さるような視線は消えない。
ついでに、どこからか、ほう、と誰かが溜息をついた。
「……」
……これは、あたくしではなく、この完璧な騎士様のために漏らされた、ご令嬢方のもの。
「ええ、喜んで」
だからあたくしは、あたくしの持てる最上級の笑顔でお応えした。
独占欲なんて、何を必死になっているのかしらね。
自嘲を隠したあたくしを置いて、力強く引き寄せらた。
それだけで、場の空気が一気に変わった。より正確に言えば、あたくしの視界がレイでいっぱいになってしまった。
いつだかの、ワルツを踊った時のように、不思議なくらいにこの身が羽根になったかのように軽やかに舞う。
確実にワルツ向きではないドレス。それなのに、ひとつもステップを間違えることなく、つまずくことすらもないのは、確実にレイのおかげ。レベッカはこれすらも見通していたのかしら。
「……」
見つめ、見つめられ、そのなんとも言えない生ぬるい空気に、この口は自然と言葉がついて出た。
「なぜ?」
今なら、何を言われても受け止められる気がした。根拠のない、どこからくる確信なのかもわからなかったけれど。
「……なぜ、あたくしなの?」
レイの空色はどこまでも澄んでいた。先ほどまでの、勘違いさせる熱も、冗談を言っていた悪戯な輝きも、何もなかった。どこまでもどこまでも。
「その質問は、なぜ貴女をこんなにも愛しているのかと、その理由を聞きたいと、そういう理解でよろしいでしょうか」
優しく優しく。
今のレイは、まるであたくしのお兄様のような、おじさまのような、知らない貴族の大人のような、そんな顔をしていた。そうしてあたくしは、ただの『十六の少女』だった。
「……ええ」
レイの眼差しは、わがままを言う幼子を仕方がなさげに見るようなもので、しかし、隠しきれない慈愛に満ちていた。
「貴女は、俺の百の愛よりも、ひとつの理由を欲するのですね」
くるり、とターンをし、再び相対したお顔は、息をのむほど真剣で。
「では、エルヴィラにもお答えいただきたい。──貴女の、俺への愛には、どのような理由があるのですか?」
なんですって?
どちらからともなく踊りを止めた、あたくしの耳には鳴り終えた音楽と、同時に湧き上がる人の話し声と、それから唖然としたあたくしの顔が映る空色に、答えの出ない自分の吐息ばかりが響いた。
「それを、俺の答えといたしましょう」
「そんなの」
「言葉にできない?」
正解だった。
あたくしが、レイを好きな理由?
そんなもの、言葉で表すことができない。だって、何もかもが唐突で、衝撃の最中に生まれたと同時に気がついた感情だったのよ。
それを、正確に言葉で表すことができると思うのかしら。
「エルヴィラは、俺の愛に対する理由を、本当に欲しているのですか?」
すでにレイは、他人の顔を剥ぎ取り、どこまでもどこまでもあたくしに、残酷に訴えていた。
わかっているでしょう──と。
もはや少しだって、彼の愛を疑う余地など与えてはくれず、逃れる方法を探すことすらもさせてくださらないよう。
本当に欲しているか、ですって?
当たり前じゃないの。
だって、あたくしは、理由のない愛がどこまでも不安定なことを、この身をもって知ってしまっているのよ。
目に見えない、形のない、いつ消えるともしれない愛を、あたくしが受け取ることのできる理由を知らないまま、受け取っていいというの?
「もう……、あたくしは間違えられないのよ……?」
呆然とした独り言は、主役入場のファンファーレが高らかにかき消した。