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婚約破棄

 


 濃紫色のドレスは、あたくしの中で唯一柔らかな印象を持つ淡い金髪に、よく似合う色だと褒められたもの。

 その褒めてくださった男は、真っ直ぐあたくしに強い藍色の目を向けて立っていた。そこに甘さは欠片もなく、いっそ凍りつきそうなほどに鋭い怒りが湛えられていた。


「エルヴィラ・ディア・ナイトレイ。お前との婚約を破棄する」


 ああ、ああ。なんてこと。

 オーウェン様の隣にはぴったりと張り付くようにしてブルネットの女が怯えた目をして立っている。それを、さも大事であるかのように彼がぎゅっと抱き寄せた。

 なんて忌まわしい女。


「お前はこれまで、リリィ──リリアナ嬢に数々の嫌がらせと暴言を吐いてきた。見苦しくも浅はかな器量で王子妃の座に就こうなど、その考えがすでに相応しくない」


 でも待って。あたくしにだって言い分はある。

 オーウェン様は今、女を愛称で呼び捨てた。今だって愛おしそうに肩を抱いて。この瞬間ですら、未だあたくしが貴方の婚約者なのに!

 王立魔法学校に彼女が入学してきた頃から全てが狂いはじめてしまった。

 百年にひとりの、すべてを浄化すると言い伝えられる魔法界最強の白魔法、その使い手というだけの平民に、婚約者がとられるだなんて思ってもみなかった。けれど、彼はいとも簡単に心を開いていってしまったのだもの。

 あたくしは物心つく前からオーウェン様と婚約をしていて、そうして気がつけば好きだった。

 好き、愛してるの。そして婚約者になれるのはあたくしだけだったのに。その生き方しか知らなかったのに、結婚を目前にしてそれが揺らぐだなんて誰が思うものですか!

 ええ、ええ。確かにやり方はいけなかったでしょうね。

 品性のカケラもない態度にあたくしが嫌な顔ひとつすれば、誰もが彼女を遠ざけると知っていて、わざと彼女を孤立させた。人の婚約者にべたべたとくっつくはしたなさを、それはもう厳しい態度で牽制したもの。

 それでも、あたくしにはそうするだけの権利があった。権力だってあったのだもの。

 他に誰も、あたくしからオーウェン様を奪おうとする者はいなかったのに、守り方も知らないでどうすればよかったというの?

 彼が盗られゆく様を黙って見ていればよかった?

 淑女のルールもめちゃくちゃにする女に、優しく一から教えればよかった?

 別の女を愛しはじめた貴方に微笑みかけろと?


 ──冗談じゃありませんわ。


「……それでは、オーウェン様のお隣で婚約者のいる異性に愛想を振りまくその方が、あたくしよりも第二王子妃に相応しいと、あなたはそうおっしゃるのですね」


 ざわり、と空気が動いた。

 まさかあたくしが口答えするなどと、誰も思っていなかったのでしょう。

 ええ、そうですわ。こんな大衆の面前で、卒業パーティーというこんな場で、このように辱められて、いつものあたくしであればショックで倒れていてもおかしくはないですわ。

 けれど、何故かしら。いやに頭は冷静で、なんとなく、この状況を受け入れていました。

 受け入れるだなんて。

 なんてこと。だってあんなに愛していたのに。

 オーウェン様の、驚きの色に塗り替えられた怒りだけが、今度はあたくしの目に浮かんでいた。

 そう、あたくしは心底怒っていた。


「あたくしはナイトレイ侯爵家が娘ですわ」

「……だからなんだというのだ。いくら国の重鎮である大貴族の娘とて、彼女に対する悪行の数々が赦されるわけないだろう」

「いいえ。そのように小さなことを申しているわけではありません」

「な……にそれ。小さいって」


 思わず、といった風に彼女が苛立ちの声を漏らしたが、大嫌いな女のことなど気にかける暇などない。


「そこの礼儀知らずな『ご令嬢』であればいざ知らず、あたくしとの婚約解消を、なんの手順も踏まず、またこのように荒々しく辱められるなど、貴族の娘として到底許せるものではありません」


 言い切った瞬間、この場でもわかるほどの賛否両論の声が上がる。

 けれど、直接何か野次を飛ばしてくる貴族などこの場にはいない。それはもちろん、あたくしの家名と第二王子に遠慮してという意味だけれど。


「本性を現したな。学校では女王のような振る舞いをしてきたそうだが、ここは王宮だ。お前が許すなどと私に言える立場では──」

「もうよい。少し黙れ」


 不意に重厚な声が落ち、場が一気に静まり返った。

 張り詰めた空気に、王のいらっしゃる間でなんて無礼を働いてしまったのかと、その時になってさあっと血の気が引くのを感じた。

 なぜ、冷静さを保てなかったのだろう。けれど、今更遅い。

 やっと、お父様がこちらをじっと見つめていらっしゃることに気がついた。

 あたくしと同じアイスグレイの瞳が厳しく顰められるのを目にして肩をすくめる。

 あたくしは、なによりもお父様が恐ろしい。

 こんなに醜態を晒してしまって、あまつさえ王族に口答えまでしてしまって、ナイトレイ家の娘として相応しくない態度をとったあたくしはきっと破門だわ。

 そうしたら修道院へ送られるのかしら。不敬罪まで付いているでしょうから、この大陸一戒律の厳しいというあのローズマリア修道院送りね……。

 覚悟を決めて背筋を伸ばし、王の次の言葉を待った。

 だって、あたくしは名門貴族ナイトレイ侯爵令嬢エルヴィラ。誰よりも高尚なプライドを保たなければ。


「オーウェンよ、そなたはエルヴィラとの婚約を破棄し、そこな娘と婚約したいと申すのだな?」


 誰もが成り行きを息を潜めて見守る中、問いかけられた男の顔がすうっと引き締まる。

 とても頼り甲斐のある、凛とした表情は、あたくしがオーウェン様からプロポーズを受けるときの、何度も夢見ていたものとすっかり同じだった。

 ズキリと、胸の奥の奥が痛かった。


「はい、父上。私は、彼女リリアナと婚約し、近いうちに結婚をいたします」


 決定的な宣言に、爪先からずぶずぶと泥沼にはまっていくような心地がした。

 実際、ふらりと頭がかしいで、背後で小さな悲鳴が上がったのが聞こえた。

 素敵なあたくしのご友人達。今もすぐ後ろでずっと見守っていてくださっているのでしょう。

 いつもいつも、女が失礼な態度を取るたびに励ましてくださった方々とも、これっきりでお別れなのね。


「それは第一妃として、ということか?」

「彼女が愛妾など、そのような扱いなどにはいたしません」

「オーウェン様……」


 完全に幸せな恋人たち、という風である。まるで物語に出てくる王子と姫のよう、と言ったらあたくしはさしずめその仲を引き裂く意地の悪い令嬢というところだろうか。

 あのように甘く柔らかな微笑みを、あたくしは向けていただいたことはあったかしら。あんなに優しく触れていただいたことは?

 あるはずがない。だって、彼は第二王子であたくしは結婚前の淑女であり、貴族令嬢。異性とあのように抱き合うことなど許されない。

 どんなにあたくしが欲しても、そのようなことは子供だけができること。それなのに、彼女はなんの躊躇もなく、好きなように振る舞える。

 ああ、悔しい。

 ほんの少しでも、羨ましいだなんて思ってしまうなんて……。



「それならば、俺がレディ・エルヴィラを貰い受けたい」



 ……誰が想像したでしょう。

 こんなタイミングで、誰かが声を上げるだなどと。

 ふらつくあたくしの肩を支え、突如として現れたのは息を忘れるほど見目麗しく、精悍な顔立ちの殿方だった。


「国王陛下、突然の発言をどうかお許し願いたい」

「……ほう。スチュアート卿か。珍しいこともある、王宮に足を運ぶことがあるとは」


 スチュアート卿……ですって?

 まさか、この国で最も歴史長い辺境伯が当主レイモンド・ド・ラ・スチュアート?


「甥の卒業パーティーとのことで、姉のガブリエル伯爵夫人の代わりに馳せ参じた次第でございます」

「そうか。……で、卿の申し出を聞こうではないか」

「感謝いたします」


 確か、同じ年にガブリエル伯爵家の御令息がいた気がする。お見かけしたことはないけれど。

 ぼんやりと、そのようなことを考えながら見上げたのがいけなかった。

 詰襟から覗く、思いの外がっしりした首筋を辿り、行き着いた先で切れ長の瞳に捕らえられてしまった。

 一瞬、酷く冷たい印象を放つように感じる空色のそれにあたくしが映り込んだ途端、熱く、甘く、ドロドロに溶かされてしまいそうな眼差しに様変わりした。


「レディ・エルヴィラ。一度挨拶をしたきりの俺のことなど、貴女は覚えておられないでしょう。しかし、俺はつぶさに記憶しております。三年前、貴女が社交界デビューをなさったあの日、俺は正に一目惚れをいたしました。十三歳の少女にそのような想いを抱くことに戸惑いと自己嫌悪に陥りもしました。その上、貴女は次期第二王子妃。諦めようとし、実際三年かけてやっと折り合いを付けた矢先のこの幸運。これを逃せるほど俺はできた人間ではありません。どうか、どうか俺の想いを受け入れてくださらないか」


 王に向けてでも、当主であるナイトレイ侯爵に向けてでもなく、あたくし自身にどこまでも真摯に紡がれた言葉は、隅から隅までまごうことなき求婚のそれだった。

 一息に言い切ったスチュアート卿は、そのまま流れるように膝をつき、あたくしの手の甲にそっと羽が触れるようなキスをなさった。

 途端に溢れかえった、しかし王の面前ともあってそれぞれが遠慮した結果の大変控えめな黄色い悲鳴があたくしを包み、そこでやっと何が起こったかを把握した。把握して、顔中に血が一気に集まった。


「ぇ……、あ……」


 言葉など出てくるものですか。

 恥ずかしくて、どうしていいかもわからず、立っていられるのが不思議なくらい頭の中が沸騰してグラグラしていた。


「な、なにそれ!」


 そんなあたくしを現実に引き戻したのは、奇しくも女の絹を裂くような叫び声だった。


「あなたのような悪役令嬢が、どうして物語のお姫様みたいなことをしてもらえるの!?」


 訳のわからない内容だったけれど、それでも自分を取り戻すきっかけになったのは確かだった。

 そうよ。このようなことでグラついては駄目。あたくしは未だ、第二王子の婚約者。オーウェン様が何を言ったとしても関係ない。国王陛下からのお言葉がない限り、あたくしはまだ──。


「そうか。相わかった。……オーウェンとエルヴィラとの婚約破棄を認める」


 それだけ。

 紡がれた王のたった一言で、あたくしは婚約者ではなくなり、代わりにあの女がオーウェン様の婚約者になるの。


「……っ」


 駄目、泣いては駄目。

 『常に気高く美しく、冷静にあれ』

 マナーの先生に教わった最後の言葉を繰り返す。

 あたくしは負けた。

 勝負などではないけれど、あたくしは確かに平民の娘に敗北したのだわ。

 幸せそうに喜びを全身で表す男女二人を呆然と眺めるしかなかったあたくしに、次なる王の言葉はまさに氷漬けにされるに値するものだった。


「その代わり、オーウェン、そなたの王位継承権を剥奪する」


「えっ」

「なっ……!?」


 それは新たな婚約者同士も同じようで、抱き合う格好のまま驚愕に目を見開き王を凝視していた。


「証人はこの場にいる全員。よいな、皆の者。そして──」

「な、なぜですか!? 王様、なぜオーウェン様の王位継承権を剥奪するんですか!?」


 彼女のこの行動には、さすがに黙っていた貴族たちも難色を示した。

 貴族でもなく、ましてや発言すら許されていない女が王の言葉を遮ったのだ。それどころか、王の決定に異を唱える言葉に、オーウェン様も慌てたように彼女の腕を軽く引いた。

 周囲の視線にやっと気がついたのだろう、女はさっと顔を赤くして、しかしそれでも「だって……」と不満を漏らした。


「控えよ。これは王家の問題であり、そなたには関係のないことだ」

「そんな……。だって私はオーウェン様の婚約──」

「リリィ!」


 ついに、オーウェン様が声をあげた。

 誰かがため息をつき、居心地悪げに咳払いをした。

 王はちらりと一瞥をくれただけで、すぐにその視線を傍に立つお父様へと向けられた。


「宰相よ」

「は」


 不意に話を振られたお父様は、しかし少しの間も開けずに目を伏せ応じた。

 国王陛下の右腕として、代々宰相として活躍してきた由緒ある我が家名を、このあたくしが汚してしまったのかと思うと絶望と悲しみに沈んでしまいそう。


「今宵は皆にとって特別な日である。この場はこれで納めてはくれぬか」

「細やかな配慮、感謝いたします。全ては王の御心のままに」

「うむ。諸々のことは追って連絡させよう」


 そうね、今日は卒業パーティー。けれど、他の方々もこのような夜になってしまって後味も悪いでしょうね。先ほどから、痛いくらいご友人方の視線が背中に突き刺さっているもの。


「エルヴィラよ」


 今度は王の視線があたくしへ投げ掛けられ、慌てて最上の礼の形をとった。


「そなたはこのまま場を辞すがよい」

「……はい。大変なご無礼をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます」


 終わり。終わりなのね。

 まだ、牢に繋がれないだけマシかしら。己の足で帰れるのだもの。


「レディ・エルヴィラ。俺に送らせてはくれないだろうか」


 今まで沈黙を守っていたスチュアート卿が、さっと手を差し伸べてきた。それを取るか取るまいか。選択ひとつでこの先全てが決まるような、そんな気がした。

 実際、そうなのでしょう。

 だからあたくしは、全ての感情を飲み込んで見たこともないほどゴツゴツとした大きな手から目線を逸ら──


「失礼。大変申し訳ないが、スチュアート卿。娘は私にお返し願おう」


 そうとして、硬質な、けれど聞き慣れた声により動きを止められた。

 いつの間にか傍にはお父様がいらっしゃって、あたくしの肩に手を置かれていた。

 びくりとしてしまった、その振動は確実にお父様に伝わっているはずだけれど、こちらを一切見ないアイスグレイにひっそりと唇を噛み締めた。


「……。……いいえ、ナイトレイ侯爵。こちらこそ、ご令嬢に差し出がましい真似をしてしまった」

「今日のところはこれで。……まだ王都に滞在するのであれば、落ち着いた頃にでも顔を出されるがよい。一度、貴殿とは話をしてみたいと思っていた」


 信じられない思いだった。

 すでにお父様は歩き出していて、その表情をお伺いすることは叶わなかったけれど、お父様がどなたかと話をしてみたいなどと、そのようなことをおっしゃったのは初めてではないか。

 しんと静まりかえる中を足早に通り抜けた。終始無言のお父様とともに、すでに待機していた我が家の馬車に乗り込み、重い空気の中帰路に着いた。

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