月白
微かに熱くなり始めた風薫る季節の中、いつもの下駄で熱を帯び始めたコンクリートをカラりと軽く蹴る。道行く人も車も誰も私の姿に気付くことなく去っていくのを特に気にすることなく歩みを進める。母親に連れられた小さな少年が私の方をじっと見ていた。
遠くに白い建物が見えて目を細める。私が自由に行動できるぎりぎりの範囲に立つ街の端の病院。ズシリと重いものが胸に沈む。私たちとは絶対的にかかわりのない場所というものはなかなか行き辛い。あの場所そのものがなんとなく苦手だ。憂鬱になりつつもカラコロと下駄を鳴らした。
******
ひょい、と窓から病室に首を突っ込んだ。
「うおっ!?おまっ、いきなり窓から入ってっ……、」
「こんにちは、獅呉くん。あ、苦しいなら無理して声出さなくていいよ。いや、むしろ病院で大声出しちゃダメでしょう。」
「……っ、」
しばらく苦しそうに胸を押さえた後、落ち着かせるように慎重に呼吸を繰り返した。その間に首だけ窓に突っ込んでいた私も窓の枠に腰掛ける。床に届かない足から下駄が転がり落ちた。
「、はあ……。取りあえずお前ここ三階だぞ?」
「まさか私がここまで来れないとでも?」
「こんな日中から飛んで誰かに見られたらどうすんだ。」
「飛んでないよ。ここの窓のそばまで大きな木が伸びてるからね。それを、こう、登った。」
「それはそれでどうなんだよ……。」
力なくうなだれる獅呉をケラケラと笑う。
「そもそも来るなら病院の玄関から普通に入りゃあ良いじゃねえか。」
「いやいや、病院内には子供がたくさんいるからね。そっちの方が見られる可能性が高くなるよ。」
それに案外子供ってのは前しか向いてなくて上までは気が回らないからね、と重ねるとまた深いため息をつかれた。
素足をプラプラと揺らしながら室内を見る。白い壁にクリーム色のカーテン。鼻につくのは消毒液のアルコール臭と独特な人のにおい。小さなキャスター付きの机と備え付けられた棚とテレビ、そこに積み上げられた本の類い。
「それで、どうして入院してるの?」
「それは知らなくて、俺が入院してるのは知ってたんだな。」
「まあね、君が入院してるって話は散歩に行ってた庄虹様からきいたよ。理由は分からなかったけどね。とりあえず私が移動できる範囲内だったからお見舞いに、と。」
で、どうして?と聞くと獅呉は、あー……と言い淀んだ。
「あーーっと、うんあれだ。気胸と貧血だ。」
「ききょう?」
「肺に穴が開いてそのせいで空気が抜けて肺がつぶれて呼吸がまともにできなくなる病気?だ。軽いようなら痛み止めだけ使ってまた肺が勝手に膨らむのを待つんだが、割と重い奴だったみたいだからよ。肺にカテーテル通して人工的に肺を膨らませるような手術を……、意味分かったか?」
「……ふわっと?つまり肺がつぶれて苦しいんだね。うん、理解した。」
『かてーてる』なるものはよく分からないが、治療道具の一種なのだろう。それ以上考えても正しい答えにたどりつける気がしないのでそういうことにしておこう、と思っているとそれが顔に出ていたのだろう、獅呉に苦笑いされた。
「……カタカナ語は私の天敵だ。」
その辺の洋書もね、と言いいったい何の本か分からない積まれた洋書を指差した。外国語など勉強する
機会はなかったので全く読めない。カタカナ全般も同様である。ただ漢文なら読めないこともない。
「いつごろ、元気になるとかわかってる?」
「んにゃ。でもすぐ良くなるだろうよ。まあ働きづめだったからもっとのんびり入院してぇな。」
そう適当に笑う獅呉に微かに眉を顰めるが、すぐに私も軽く笑った。
「そ、まあ早く良くなるに越したことはないね。」
棚に空の花瓶があることに気付き、ポポンとガーベラ、トルコキキョウ、カーネーションなど思いつく限りの春の花を出す。
「ちょ、誰かに見られたらどうすんだよ!」
「マジックだって言っておけば問題ないでしょ、花だし。」
部屋に備え付けられた小さな洗面台の蛇口から花瓶に水を注ぐ。また獅呉がブツブツと文句を垂れているが黙殺する。
「ああ、そうだ。ちなみにこの花は基本的に枯れないから。好きにして良いよ。」
「なおのこと人に聞かれたら困るじゃねえか……。」
「造花って言っておけば?」
「クオリティが尋常じゃない造花だな。」
「人間は年を取ると口うるさくなるって本当なんだね。」
綺麗に見えるように花瓶に花を生ける。入院の見舞いには枯れにくい花が好まれる。花弁が散ってしまうものは掃除が大変である上に、散り際の潔さは縁起が悪いため避けなくてはならない。だからこそ生きながらにして枯れない花を作った。
「……死んじゃったりしないよね、まだ。」
ぽつりと呟くと、獅呉は一瞬虚を突かれた顔をした。そしてまた苦笑いする。
「また縁起でもねえこと言うなァ。まだ死なねえよ。」
まだ、な。
そう言って微かに目が細められるが、すぐにまた笑う。
「でもま、お前よりかは早く死ぬだろうな。」
「それは、ね。どんな人間だってそうさ。」
彼の口調、視線、言葉に見ていられなくなりそっと視線を外した。窓からは青々と柔らかい葉を纏う大きな木が揺れるのが見える。耐えきれなくなったように、古い葉が、くるりくるりと不規則な円を描きながら陰った地面に落ちていった。
最初からわかりきったこと。今更考えることなどくだらないとしか言いようがない。考えても考えても堂々巡り。ずっと同じ答えしか持っていないのに。その答えに向き合うのに何度も悩み、遠回りをする。そして、その答えを手にしていたはずなのに、いつの間にかその答えを手放していて。
私が変わらない限り、用意された答えは一つしかない。
いっそのこと割り切りたい。他の力を持つ者たちのように。他の長く在る者たちのように。
それでも、それでも。
まるで人間のように悩んでいる間だけは、私は束の間の平和に浸り、美しい蛍を宝物のように眺めていられる。
閉じ込めることもせず、儚さを奪う訳でもなく。
ひたひたと宝物を蝕む絶望を、ただひたすらに見えていないふりをする。
きっと私は変われない。きっと私は変えられない。
いつだって絶望は、私の後ろではなく、私の大切なものの後ろを歩くのだ。
「なあ。」
「何?」
「……俺が死んだら、泣いてくれるか?」
「っ……、」
目が限界まで開かれた。喉が焼けるほどに、熱い。舌はカラカラに乾き何も言葉を発することができない。
彼、らしくない。半世紀近く彼を側で見てきた。でも今の彼は私の知る『彼』ではない。
私の記憶の中の彼はそんな風に笑わない。そんな穏やかに笑ったりしない。
私の記憶の中の彼はそんな冗談を言わない。彼は私が誰だか知ってるからそんなことを聞いたりしない。
でも彼は誤魔化すように笑ったりはしなかった。冗談言って悪かったとも言わなかった。ただ静かに私の答えを待っていた。
「……鈴蘭?」
「……泣いちゃうね。大泣き、だよ。」
「……そうか。」
「泣きすぎて、日本に湖が一つ増えるかもしれない。」
「それは大変だな。」
やっと彼は小さく笑った。
ああ、やっといつもの彼に戻った。
そして獅呉はきっと私に困った顔をする。困ってるけど少し嬉しそうな、仕方がないとでも言うように。
獅呉はヒョイと私を窓の枠から降ろし自分の膝の上に乗せた。私に重みはないため彼の負担になることはないが、なんとなく気が引けて降りようとするが、両腕に拘束され身動きが取れなかった。
否応なしに、彼と同じ目線になる。
彼は困った顔なんてしていなかった。
ただ真面目そうな顔をしていた。聖域で膝を詰めて話をしていたころのように。大事な話をするときの、二人の暗黙の了解。ひどく疲れたような顔色をしているのに、なぜか彼の今の顔に儚さは覚えず昔と変わらない強い意志を感じた。
「鈴蘭。」
「……どうしたの?」
「俺は、今もお前のことが好きだ。愛してる。」
強い言葉と視線から逃れようと思うのに、身体は金縛りにあったように動かなかった。
「青臭いかもしんねえけど、餓鬼の頃からずっとだ。想いは変わらねェお前が思ってるほど、俺の想いは軽くはねえ。」
「獅呉く、」
「だから、」
『俺はお前を泣かさない、絶対に。何があっても、だ。』
「っ!それはどういうっ、んむ!」
「聞くな、鈴蘭。何も聞くな。今は、」
無理やり口をふさがれ私の質問は行き場をなくした。その少しだけ心苦しそうな言葉と、徐々に受け取る熱に思考を放棄する。きっと問い詰めたとしても、彼は何も言いはしないだろう。
ただ私は、どうしても伝えたいことだけを唇に乗せた。
「――――――、」
獅呉は少しだけ目を見開いて驚いたような顔をしたが、クイッと微かに口角を上げるのが見え私もまたうっすらと微笑んだ。
******
「……日向神父?」
「ん、おお東屋か。毎回すまんな。」
彼の手から治療方針の書かれた書類を受け取り簡単に目を通し、何ともいえない気分で机の上に放った。
「いえ、僕にできることはこれくらいですから。あの、神父、妙なこと聞いてもよろしいですか?」
「ああ、構わねえけど。」
東屋は少し病室を見渡した後花瓶に目をやってから少し怪訝そうに聞いた。
「……他に誰かお見舞いにいらしたのですか?さっき、三十分ほど前に来たときはその花瓶は空でしたよね?」
俺があまり花に興味がないのを知っているために、見舞客や修道士たちは基本的に花を持ってきたりはしない。この病室に備え付けられた花瓶はずっと空だった。だが今は彼女が来た後でガーベラがメインの花々が彩りよく飾られている。ほとんど色のないここを知っている奴らからすればかなり珍しい光景だろう。
「おう、まあな。……俺の古い知り合いだ。」
そういうと東屋は尚更分からないというように首をかしげた。古い知り合いならば尚草花の類を避けるだろう、と。
「あんまり俺は花とかは好きじゃねえけど、そいつが持ってくるのは特別なんだよ。」
そう言って笑うと納得したような納得していないような顔をした。誰にもわかるまい、彼女以外は。心の中の言葉を肯定するように開けっ放しの窓から風が吹きガーベラがフワフワと揺れた。
「……不思議なこともあるんですね。」
「何がだ?」
「……僕は先ほどここから出てからずっとナースステーションにいました。ここの病棟の小部屋に行くためにはこの回のナースステーションを通らなければならないのに、僕は誰も見てませんよ?」
怪訝そうに問う東屋に苦笑いを返さざるを得ない。こいつは妙なところで理屈っぽい。当然だ、彼女は窓から来訪したのだから。ただどうにもそればっかりは説明のしようがなく、黙殺する。そうすると東屋は慣れたように諦めため息を吐いた。
「にしても、なんだか機嫌が良いですね。『古いお知り合い』と何かあったんですか?」
「っははは、ん、まあな。普段天邪鬼な奴が素直になった時ってのは可愛いってことだ。」
「はあ、そうですか……。」
茶化してみたものの相も変わらず掴みどころのない返答に東屋はさっさと諦め持ってきた書類にサインを求めた。
「……東屋、すまねえが。その治療、受けるつもりねえわ。」
「っ何を言ってるんですか!?今あるのはこの治療法だけだと先生方も仰って……!」
「おうおう、わかってるって。……それでもだ。」
「そんなっ……、――――――――――」
東屋の説得もすべて聞き流す。若い部下に迷惑をかけて悪いとは思っている。だがそれについては譲る気は全くなかった。誰にどう言われようと、それを曲げるつもりはない。
俺には必要がない。むしろそれを受け入れてしまったら彼との約束を破ることになる可能性も出てくる。
そして先ほどの彼女がふと思い浮かび小さく笑う。彼女は今まで一度だって言ったことはなかったし、彼女自身避けてる節があった言葉。初めて贈られた言葉はひどく甘くて、これ以上の幸福など存在しないと確かに感じた。ひたすら届かぬ天に向け手を伸ばし続け、先ほどのあの瞬間にすべてが報われた気がした。
ただ、すべてを知った彼女は果たして、
「笑ってくれっかなぁ……?」
さわさわと揺れる花の中に、隠れるようにまぎれる一輪の鈴蘭に気付き指先で愛しむようにそっと撫でた。
******
人があの病室に近づいてきたことに気付き、来た時と同じように窓から外へ出た。カラリカラリと乾いた音を立てて帰路を急ぐ。グッと拳を握りしめて飛ぶように駆けた。
山を上がり千年以上住み慣れた聖域へと戻る。すぐに空気の壁を厚くし外の音を排除し草地に躊躇なく倒れこんだ。漂い始めた夏の香りなど知らぬような温度、満たされた静寂に重すぎるほどのため息を吐いた。だがどれだけ胸に詰まった息を吐いても、少しとしてそれは軽くならなかった。喉はヒリヒリと焼けたように乾くのに、瞳には涙が張る。どうすれば良いかなど分からず、無理やり落ち着かせるように深く息を吸い、静かに惜しむようにそれを吐いた。
「は、ぁ――――――…………、」
力なくだらりと土に降ろしたはずの片腕がギリギリと強張ったように土を浅くえぐっていた。相変わらず成長を知らない自身を嘲笑する。だがその嘲笑すらままならない。
「……あの子は一体何のつもりなのかな?」
『あーーっと、うんあれだ。気胸と貧血だ。』
「嘘ばっかり。」
かまを掛けるつもりで気胸のことを知らないふりをした。だが、かつて私は見たことがある、他の気胸になっている幼い人間を。軽い場合ならば自然治癒で治療に一月もかからない。
「もう三か月も入院してるくせに。」
入院している獅呉に会いに来たのは今日が初めてだ。だが来たのは初めてではない。彼が入院したのを知ったのは庄虹様に聞いたからではない。私は見ていたのだ。彼が病院に運ばれるのを、本当にたまたま。そして彼はそれから二か月の間。目を覚まさなかった。毎日毎日、あの部屋を訪れ、まるで惰性のままに呼吸を繰り返すような彼を、見舞っていた。その時初めて、私は具体的に彼の終わりを予期した。
気胸であれば数か月も目を覚まさないなんてこともない。ひどいものであれば病室に大きな酸素の入った円柱の物が置かれていたり、胸に管を通しているはずだ。だが彼は胸ではなく首に通していた。あながち、気胸を患っているというのは嘘ではないかもしれないが、あるとすればそれは首に管を通したときの副作用。更に言えば、彼は初めこそ言葉を詰まらせていたが、途中からは普通に話していた。つまりあくまでも気胸は軽いものであり、彼は入院している本当の原因を私に隠していた。彼は知られることを望んではいなかった。また、知られることを恐れていた。だから私は、何も聞かなかった。
否、何も聞けなかった。
彼の患っているものが命に関わるものだということはわかった。だが、分からないことがあった。
不健康そうに青白く管が刺さった首。厚みを微かに失い以前よりも骨ばったごつごつとした両手。浅黒く目の下にこしらえられた隈。白髪の増えた藍墨茶の髪。
その全てが、死の淵にへと歩かされる人間そのものであった。そうであるのに。
彼のあの、生命力を感じさせる黄櫨染の双眸。自信に満ち溢れた言葉。昔から変わらない不敵で不遜な笑み。
そのどれもが、絶望に相応しくなかった。
彼が少しでも元気であれば、もちろんうれしい。
だが彼のそれはどう見ても”異様”と言う他なかった。言うなれば、器と中身のズレ。心身相関が為されていない状態。
彼の言葉を聞いたとき、感じた僅かな寒気。一瞬だけ、感じたそれは、獅呉が失われる恐怖心だったのか、それとも意味を汲み取ることのできない彼の言葉へだったのか。
分からないことは多い。だが、これだけは言える。
「あまりにも、早すぎる…………。」
橙に染まりゆく空を眺めていた瞳を隠し、あの病室にそっと紛れ込ませた月白の一輪の花を瞼の裏に映し出した。