無色
夏の強い日差しは衰え、青々と茂った草むらからは小さな虫たちの声が涼やかに反響する。ススキがサラサラと鳴り天井の満月が銀色に染め上げていた。
微かな音に支配された空間を硬い靴の音が破る。
「よっ!鈴蘭、久しぶりだな。あんま来れなくて悪い。」
「ん、久しぶりだね獅呉くん。たまに来てくれるだけで十分だよ。」
「もう『くん』を付けられる年じゃないんだがな。」
獅呉は苦笑いしながら無造作に地面に腰を下ろした。黒いカソックが白っぽく照らされた土の上に浮いている。煌々と照る月光が黒いそれの上を這う。
「私からしたらいつまでたっても君は『獅呉くん』だよ。……にしても、着替えずにここに来たんだね。黒い服は土の汚れとかが目立つでしょ。」
「いや、いちいち着替えるのも面倒だからよ。まあ汚れちまっても洗えば問題ねェだろ。それに白じゃなくて黒なら普段から着る奴だから替えも利く。」
外は肌寒いから丈の長いカソックは丁度いいな、と言いつつ沢山の釦を荒く外していく。黒い布に白い釦はいっそ一つのラインにも見える。
「……随分沢山釦が付いてるんだね。」
「おお、33個だ。この釦の数は主の生涯に因んだ数。まあ釦が付いてない奴も結構あるんだがな。」
「君は何で釦が付いてる奴着てるの?脱ぎ着するの大変じゃない?」
「だってついてる方がカッコいいだろ?あと俺が着てるのは釦ありで帯なしだけど他の奴だと釦なかったり帯があったり、釦も帯もないシンプルなのを着てるのもいるな。」
結構ふざけた子だったが、立派に仕事をしているらしい、と思ったことで彼は一般的に見ればとっくに子供という領域を卒業したことを思い出す。あの夜一緒に空を歩いた小さな背中はいつの間にかこんなにも大きく、力強くなっていた。
……本当に、
「早い、なあ……。」
「ん?なんか言ったか?」
「いや、何も……。ところで、そっちの大きな紙袋は何?」
唐突に訪れた懐かしさと切なさを振り払い、彼が片手に下げていた重たげな紙袋について問う。紙袋と彼の着ていたカソックとの扱いの差を見る限り、大切なものらしい。すると心底嬉しそうにニカッと破顔して、いそいそと紙袋から木箱や猪口を取り出した。
「ジャ―ン!日本酒!大吟醸!」
「おお……。」
高そうな桐の箱から一本の酒瓶を取り上げ高々と上げた。この上なく嬉しそうだったのでとりあえずパチパチと拍手をするも何がどうすごいのか、大吟醸とは何かよく分からない。
「……神父さんてお酒呑んでも良いの?」
「ああ、理性失くすほど飲むのは破戒になるけど節度ある飲酒なら大丈夫だ。仏教はダメなのか?」
「うん、ダメだね。不飲酒戒っていうのが五戒の中に入ってるんだ。……もっとも近代じゃ生臭坊主が多くてそこまで厳しくしてるわけじゃないみたい。」
「ところで鈴蘭は酒呑めるか?」
「呑……どうだろう?多分呑める、かな……。頑張ってみる、多分呑める。」
胡坐をかき大きな瓶のふたを開ける獅呉を見ながら呑めるか否か思案してみる。嬉しそうな彼に水を差したくないのだが、如何せんこんな風に差向かって何かを飲食することはなかったのでそれを呑むことができるのか全く分からない。今まで何度も供物として神酒のようなものは供えられていたが、果たして呑んだことがあっただろうか。どちらかといえば、それそのものに存在する気を取り込んで糧にしていたため、気を取られた後の酒がどうなっていたかなど見たことがない。ただ供えられた花から気をもらった時は花が枯れていた。……そのパターンで行くと私が酒を呑めば猪口が干上がるのだろうか?
「にしても、キリスト教の聖職者が異教徒の神と一緒に酒盛りしても良いものなの?」
「まあそう言うな。ここはお前の聖域だろ?ばれたりしねえって。」
「とんだ神父サマだね。……まあ挑戦してみるよ。」
「おう、頑張れ!十五夜、ではねえが月見酒だ。なかなか風情があるだろ。」
眩しいほどに光を注ぐ月を仰ぐ。相も変わらず照る月のおかげで隣に座る彼の顔がよく見えた。ほの白い景色の中で彼の赤みがかった双眸に目を奪われる。彼のその姿が、変わるものと変わらないものを如実に表しているようで、
「……それなら、七草も用意しようか。」
「御粥に入れる草か?」
「それは春の七草だね。」
手を地面にかざせば、萩、ススキ、桔梗、撫子、葛、藤袴、女郎花が次々と現れる。いつかの楠のように異様な速さで成長し、花をつけた。春の七草は食を楽しみ、秋の七草は目で楽しむものだ。ゆらりと桔梗が重たげな蕾を持ち上げ、月光を臨むように花開いた。
「へえ、これが七草か……見たことあるのは三つくらいだな。」
「若者の日本文化離れが深刻だねえ。」
「俺はもう若者とは言えねェよ。」
小さな猪口を渡され、とくとくと小気味良い音を立てて透明な酒が注がれる。小さな湖にぽっかりと白い穴が浮かんでいた。
「次、私が注ぐよ。」
「おっ、じゃあ頼むわ。」
ふと無言になり、獅呉の持つ猪口に酒が注がれる音と虫の鳴き声、風の音、草木のうねりに支配される。なんとなく声を出してはいけない気がして、口を噤んだ。まるで神聖な場のようだと思ったところで、ここが神聖な場だと思いだし笑みをこぼした。
「じゃあ良いかな。乾杯。」
「おう、乾杯!」
勢いよく傾ける獅呉を横目に恐る恐る口をつけた。強く甘い香りが鼻に抜けそのまま喉へと流れ落ちる。コクコクと嚥下できたことにほっと息をついた。
「おお!呑めたのか。」
「呑、めちゃったね。……呑めちゃったけどこれ大丈夫なのかな?」
「ま、呑めたなら大丈夫だろ!呑め呑め。」
せいぜい二日酔い程度だろ、と言いながら新たに猪口に酒を注ぐ獅呉に苦笑いする。私は二日酔いになるのだろうか。未だかつて体調を崩したことは一度もない、が酒を呑んだこともない。そもそも私にはアルコールを分解する機能、肝臓は存在するのだろうか。
だが楽しそうに酒を呷る彼を見ていたらそんなこともどうでも良くなって、続くように月の浮かんだ湖面を傾けた。
******
「獅呉君。顔、赤くなってるけど大丈夫?」
「ん、ああこれな。酒は強い方なんだが、すぐ顔赤くなっちまうんだよな!修道院とかで呑むとすぐ他の奴らに止められてよ……。」
「でも周りが止めてくれずにひたすら呑んで潰れるよりマシでしょ?」
赤い顔で愚痴る獅呉にクツクツと喉を鳴らす。見た目は酔っているようだが受け答えはしっかりしているから本当に酔っているわけではないらしい。紙袋には高い日本酒以外にも缶のビールやチューハイが入っていて、正直そんなちゃんぽんしては拙いのではないかとヒヤヒヤしている。
「比べて鈴蘭はぜんぜん素面だな……。」
「うん。そうみたいだね。微かにフワフワするけど全然大丈夫。熱くなったりしないし、意識もしかっりしてる。」
私も結構呑んでいるが、一向に酔う気配はない。どうやら異常なまでに肝臓が働いているか、もしくは他にアルコール成分を分解する機能があるらしい、と一人ごつ。
天井で輝いていた月はすでに傾き、きっと人間の彼には隣に座る私の表情を読むことも難しくなっているだろう。草木の音、虫の音すらなくなり、音を立てるものは私たちしかいない。
だが月が顔を隠したおかげか、空にちりばめられた星たちは瞬きを取り戻していて私はなんとなしに空に手を伸ばした。
「どうかしたか?」
「いや、ね……少し、酔い覚ましにさ、散歩でもしない?」
「だから酔ってねェって……。良いが、どこをだ。」
クスクスと笑い、いまいち状況を理解できていない彼の硬く大きな手を取った。
「愚問だね!そりゃあもちろん、」
この空を、だよ。
「お手をどうぞ?神父さん。」
******
「ほら、階段を上るみたいに足出して。」
「なっ、おい!本当に大丈夫かコレ!?」
「大丈夫大丈夫!」
獅呉の手を取り、何もない空間を踏みつけるように促す、が
「ちょ、無理無理無理!無理だろコレ!」
「無理だと思うからできないんだよ。ゆーきゃんふらいだよ!」
「やっぱりお前酔ってるだろ!?」
と、全く歩けるような気がしない。大人になると頭が固くなるのか、と呟くと、昔空飛んでた時はお前が抱きかかえてたからだろ!と返された。
「じゃあ私がまた抱きかかえようか?」
「絵面がえげつないことになるからやめろ。見た目が十代二十代の女が三十代の男を抱きかかえるとかシュールにもほどがあるぜ?」
なんやかんやと全く進まないので、彼の意思は丸っと無視することにした。
「わがまま言わないの!」
「どっちがだよって、うわっ!」
片手で手を取りもう片手を彼の腰に回しそのままふわりと無理やり浮き上がった。
「ちょっ……下ろせっ!」
「まあまあ、ほらほらちゃんと歩かないと落ちてしまうよ?」
「ちくしょっ……!」
彼を連れたまま星空に歩き出す。しばらくの間空を掻いていた獅呉の足も自然と空への階段を上るように空間を踏みしめ歩けるようになっていた。腰に回していた手を解き、左手で彼と手をつなぐ。この手が離れてしまうと獅呉は自由落下してしまうため、用心深く強く手に力を込めた。
「ははは!ちゃんと歩けるでしょ?」
「ビビるからいきなりは止めろ……寿命が縮んだわ。」
「それはごめんね。ただでさえ短い君の寿命が縮んでしまうのは全く私の本意じゃないからさ。」
あの夜、月に隠されていた星々は明るく燃え、仄かに空を明るくしていた。少しの間文句を零していた獅呉も、先ほどよりもわずかに近くなった光に見入っていた。
さっきより少し近づいただけなのにこの手に星を閉じ込められるような錯覚を覚える。チラチラと瞬くそれらがこの上なく眩しくてそっと目を伏せた。
星がああも眩しく光を放つのは、星自身が激しく燃えているから。そして何万光年と離れた星の光がここへ届くとき、それはすでに燃え尽きてしまっていることもある。この暗い夜を照らす一点の光は、すでに死した星の最後の叫び、思いだ。
星は、人に、生き物に似ている。
限られた時間を、自身で決めたようにひたすらに生きる。終わりが来るとわかっているのに、懸命に生きる。そして、燃え尽きたようにその生を失う。それまでの命の輝きなど、まるでなかったように。星と違い、その命の輝きは何百年と残ることなく静かに、消えていく。
ただ私は、私たちは、きっと消えた命をいつまでも大切な宝物のように持ち続けるのだろう。
「鈴蘭、大丈夫か?」
「……どうして?」
「いや……泣きそうな顔してるぞ?」
空いている彼の左手が、そっと壊れ物に触れるように私の頬に添えられた。体温のない私の肌に大きな手から温もりが伝わる。じわじわと雪が溶けていくように少しずつ暖められた。
「そっかぁ……うん、少し今日は感傷的だったかもしれない。」
「……そうか。」
そう呟き左手を頬から離し頭の上に乗せられた。そして髪を梳くように撫でた。そしてしばらく思案するように黙り込んだが、ふとおどけるように笑った。
「泣きたいときは俺の胸で泣け!」
サッと繋いでない腕を広げさあ来い、というように笑う彼に私もまた笑い返そうとした、がどうにもそれができなくて、唇を噛みギュッと彼に抱き着いた。ビクリと身体が震え身を硬くしたことには気付かないふりをする。
「……まだ、泣いてないよ。」
「…………、」
先ほどよりもぎこちなく胸元にある私の頭を撫でるので、つと目頭が熱くなった。
変わるもの。
人の感情、街の風景、そして彼の姿。
私が抱きかかえていた身体は、いつしか私の背丈をずっと越した。
包み込んでいた小さな手は、いつしか私の手を包むほどに。
初めて会ったとき、彼と私は姉と弟のようであったのに、いつしか兄と妹のように。そしていつかは父と娘のようになっていくのだろう。
変わらないもの。
月明かり、空の深さ、そして私の姿。
あの日歩いて眺めた空は今と変わらない。だが足元の街は随分変わった。
静かに静かに緩やかに、私たちは置いて行かれる。
今の私は、達観するには幼くて、すべてを投げ出して追うには遅すぎた。
ドロリとして私の胸に居座る何かを、どうすることもできない。
「あの、さ。」
「……何?」
少し言い辛そうに歯切れの悪い声が頭上から降ってきた。竹を割ったような彼にしては珍しい。しかし顔を上げることはできず、ただ耳を傾けた。
「……前によ、鈴蘭のいる山の神に会ったんだ。」
「……?」
「その時に聞いたんだ。……お前とずっと一緒にいられる方法があるって。」
「なっ……!」
目を見開きバッと顔を上げると少し困ったような彼と至近距離で目が合った。
聞くまでもない、庄虹様が彼に言ったことは以前私に提案した方法だ。まさか獅呉にまでそんなことを言ったとは思わなかった。だいたいその話を私としたのは十年以上前だ、と思ったところで彼の時間の流れは私から見ても遅いということを思い出した。
「鈴蘭の力があれば、聖域の住人になることでお前が繋がりを解かねェ限りは一緒にいられるってよ。」
「まさか本当にそんなことをするとでも思ってるの!?」
「……その様子じゃ断って正解だったみたいだな。」
その言葉を聞き張りつめた身体が脱力した。私が何か言うまでもなく断ってくれているようで助かった。正直庄虹様は面白半分で獅呉に何かしそうで怖い。言いかえれば彼は山神様に気に入られているとも言えるが、他人をからかうことに関しては一切の躊躇いを見せない彼からすれば獅呉は良いカモである。
「でもよ、」
獅呉は先ほどまで撫でていた左手で私の身体を強く抱き寄せた。二重の意味で息が詰まる。
「獅呉くん……?」
「俺がいることでお前が泣かなくなるなら、」
嗚呼、それ以上は言わないでほしい。それ以上は、
「俺はどんな方法をとってもお前の側にありたい。」
――顔を見ずとも、彼が真剣な表情をしているのが分かる。
もはや私は、自意識過剰だよ、なんて言って笑うこともできなくて。
もはや私は、子供の戯言、なんていって流すこともできなくて。
それは、私がもっとも聞きたくなかった言葉である。
それは、私がもっとも欲しがっていた言葉である。
私は何も言うことができなかった。
絶望に似た幸福感を手に取り、もてあます。
一粒の雫が私の目尻から零れ、誰も気が付くことなく足元の街のどこかへと落ちていった。