秘色
くたり、と身体を地面に横たえる。聖域内も春の芽吹きを迎え柔らかな若草が一面を覆っている。ただただ何をするでもなく、春の香りを楽しみながら眠る真似事をした。どこまでも静かな何でもない昼。一切の喧騒を断ち切るある種異様な空間は、昔から私を守るものだった。
サクッ、と聖域の入口から土を踏む音がし、特に警戒することもなく寝転がったまま緩慢な動作でそちらに目を向けると、白い裸足と揺れる白黒の着物の端が視界に入った。
「……庄虹様。」
「よお、随分とまあぐうたらしてんなぁ、鈴蘭。」
「や、他にすることありませんし。こんなところまでお参りに来る人間も最近じゃほとんどいませんから、どうにも。」
流石に、と身体を起こし姿勢を正すがぬくぬくとした温まった身体の所為で頭がいまいち働かない。腰までのびた髪に絡まった葉や小枝を適当にとる。着物についた砂埃を叩いて落とし始めるが山神様は特に何も言わず何を言うこともなくじっとこちらを見ている。
「何が御用でしたか?」
「いや、よ。最近またあの小僧あんまり来てねえからさ、何か言っちまったのか?喧嘩か?」
と心配そうに言いながら私の側で胡坐をかくので苦笑いを漏らした。
どうにもこの方は昔から私を自分の子供か何かのように見ている節がある。
私が彼の敷地の中に住んでいるというのもあるが、私が文字通りまだまだ小さく幼かったころから私の側にいて何かと構っているからだろう。昔は今よりもよく私のところに来て構い倒していた。これでもすでに何世紀も前から存在しているのだが、庄虹様と比べればまだまだなのだろう。
「いえ、そういう訳ではありませんよ。今彼は大学に行ってるんです。小学校、中学校、高校はどれも地元でしたが、行きたい学校がこの辺りにはないから県外の学校に進学しているんです。」
「ほお……最近の人間はまあ忙しないな。どんな学校だ?」
「……神学校、だそうです。神父さんになりたいんですってー。」
「それはまた……、」
困ったように空を仰ぐので半ば釣られるように私も空に目を向けそのまま仰向けに倒れる。
「よりにもよってキリスト教か。」
「ええ。あの子のいた孤児院はキリスト教系だったのでそこからでしょう。」
獅呉はあまりあの孤児院が好きではなく、その体質故に子供たちの間にも溶け込めなかったようだが、それとこれとはやはり別なのだろう。
「餓鬼の成長は早えなぁ……お前が獅呉を拾ったのはまだあれが五歳とかそこらのときだったろ。」
「あの時はまさかこんな長い付き合いになるとは思いませんでしたね……。」
不変である私たちにとって彼は数少ない時間を感じさせるものであり、ひどく眩しいものだ。
ほんの気まぐれで構った子供が、この年まで私たちに関わることは特異であると言っていい。本来ならばもうとっくに私のことは見えなくなって、忘れている頃だったはずなのに。そんな妙な人間に私はどうにも考えあぐねている。
「神父にでもなってここに来るようになったらこの山には三つの宗教関係者がいることになるな。」
「ですね、まあだからといって何があるわけでもないのですが。カオスですよね。日本らしいといえば日本らしいのでしょう。」
なんとなく手持無沙汰だったのですぐそばで鼻をフスフスさせていたウサギを拾い、膝の上に置いた。
「なんだ、そのウサギは?……なんか妙な感じがするな。」
「妙……?ああ、この子はここの住人なんです。たぶんそれで生き物っぽくないんだと。」
「へえ……、」
何やら思案顔でウサギに手を伸ばし指先で耳を弄るように撫でる。嫌そうに顔を顰め抵抗するので、撫でるな額か背中にしてください、と手をそちらへ誘導させた。
この子が聖域の住人になってもう十年になる。一般的なウサギに比べ長生きであるといえる、が、実際にはそうではない。このウサギは十年前から変わっていない。一応換毛期はあるのだが、それ以外の変化はない。この子が生きてきた時間を考えるとすでに高齢者と言ってもいいが、多少精神的に老練しているものの身体は若いとき、ここの住人になった時のままだ。
「お前、こういうの好きじゃねえのに珍しいのな。」
こういうの、というのは生き物の命を弄ることだろう。
「まあ合意ですし。それにその子が望めば元に戻すことも可能ですから。」
元に戻る?と手元の茶色のウサギに問うと、フスフスと返される。
「……何て?」
「まだ良いそうです。」
触るなら額か背中にするように言ったのに懲りずに前足をしつこく掴む。ウサギは心底鬱陶しげに後ろ脚をバシバシと地面にたたきつけている。
「……庄虹様、自重してください。すごい警戒されてますよ。」
「喜んでんじゃねえの?」
「足ダンは周りの仲間に危険を知らせてるんですって。」
「マジか。」
「聞いてます?」
まだなお弄り続ける山神様の手の甲をパシりと叩きやめさせる。ウサギは不機嫌そうに茂みへと飛び込んでいった。
あー、と名残惜しそうにそちらへ目を向けていたままにこちらへ声をかける。
「鈴蘭は、あの小僧……獅呉が好きか?」
「そりゃあ、好きですよ。」
「この前求婚されてたなあ。」
「やっぱり聞いてたんですね。」
先ほどの延長のようになあなあと会話を重ねる。だが打って変わった彼の様子にどこか身を固くした。
「しねえの?結婚。」
「……は、」
何を言い出すのかと顔を見るとふざけた様子は鳴りを潜め、表情はかき消される。真剣な顔ではない。ただ、なにも見せない藤納戸に射抜かれる。
昔から、こういう顔をした庄虹様は、いやだ。
「好きなんだろ?」
「そういう問題じゃないと思います。だいたいできるわけないでしょう。」
「種族が違うからか?」
「……獅呉君みたいなこと言わないでもらえます?」
話を早く切り上げたく、返事がぞんざいになる。そんな話は彼だけで十分だ。
「寿命が違うからか?」
「……そうですね。彼と私はあまりにも違いすぎる。」
片や生者、片や死者。それほどに差異がある。
だがそれに答えてから、彼の思考が読め、顔を顰めた。
嗚呼本当に、厭だ。
「お前程の力があれば、さっきのウサギみたいにこの聖域の住人にすることくらいできるだろう?」
”そうすれば、永遠に側にいられる”
「っ……買いかぶりすぎですね。私には人間を縛るほどの力はありません。」
「そうかもしれないな。力はな。だがお前にはその能力がある。」
「しかし、」
「ここの聖域を含めて、言っちまえば俺の神体そのものだ。……俺が聖域に神通力を付加して、それをもとに鈴蘭が力を使えば、十二分にできるだろう?」
確かに、出来ないことはない。ウサギはこの山に住んでいるからこの山との親和率が高いために少しの力で今のような状態にすることができた。獅呉となると話は別だ。私の今の力だけでは正直怪しい。できないこともないだろうが、縁もゆかりもない彼では成功するとは言い難い。
だがそこに山神の庄虹様が加わればおそらく可能である。庄虹様は私の何倍もの力や信仰を持つ。彼の力を借りればきっとそれすら容易いだろう。
「普通の仏なら神の俺の力をそのまま使うことはできない。だが鈴蘭、どの仏よりも神に近い、この土地の明神であるお前なら、土地を通せばそのまま力を受け取ることができるだろ?」
にぃ、と形のいい唇が弧を描く。
できる。間違いなく。
手に取ることなど諦めていた、他でもない浅ましい欲。その欲を叶えるための明確な、手立て。
ほしい ほしい あのこがほしい
酷く眩しい可愛いあの子。
静かに瞼を下ろす。風に運ばれる草木の香りが、鼻を掠めた。
ひゅっと空気を吸い込みそうになるのを抑え、ゆっくりと息を吸う。
「わるふざけでそういうこと聞くのやめてもらえます?」
「痛っ!」
グッと身を乗り出しで両手で庄虹様の頬をキュッと抓み引っ張った。
「ちょ、鈴蘭っ!いひゃいっへ!超いひゃい!離へ!」
「痛くしてるんですよ。だいたいいつもいつも貴方は趣味が悪すぎます!どこの悪魔の甘言ですか!」
庄虹様は昔からよくそういう矢鱈と性質の悪い質問をする。しかも面白半分なので手に負えないし、反省する気配もない。本人にすれば試しているようなつもりなのだろうが、仕掛けられる側からすれば心臓に悪いし精神衛生上危険だ。
「ひょめん!ひょめんって!離ひてくれ!」
「貴方の謝罪は誠意がない!」
涙目になるも見えないふりをし、情け容赦なくぐにぐにと両頬を引っ張り続ける。いつも性質が悪いが今回は群を抜いてひどく、何もなしでは腹が収まらない。
適当に飽きてきたころ両手を離すと、両頬は見事に赤く染まっていた。
「痛ぇな……。本当にお前は遠慮ってものを知らねえのな。」
「それだけ業腹だということを理解していただけると嬉しいです。」
涙目で頬をさする庄虹様を横目に地面につくしやぜんまいを生えさせる。生えさせておくと動物たちが勝手に食べに来るのだ。
「今回のは秀逸だと思ったんだがな。」
「いつもに増して醜悪で俗的な質問でしたね。」
本当に性格が悪いと呟けば堪えた風でもなく軽い謝罪が返ってくる。
「でもよ、今の話って出来ねえこともねえだろ?事実過去にそういうことした奴らもいるし。」
「できますが、心情的にはできませんし、したくありません。ここの住人にさせるということは、言ってしまえば私の眷属や所有物になること同義です。一緒にいられるかもしれませんが彼は望まないでしょうし、私自身そんな形を望むことは決してありません。」
彼は生きているのだ。そんな彼をこんな狭いところに縛りつけておくことなどしたくない。
人間は、理性を持ち、思想を持ち、希望を持ち、自由を望む。
だがそれも全ては終わりが見えているからこそだ。
ここに住めば永遠の命を持つことになる。
かつて、多くの人間は永遠の命を求めた。だがその真理は、不老不死になりたかったのではなく『全ての可能性を不可能にする可能性』を恐れていただけ。しかし実際にそれを手に入れれば手元に残るのは一筋の可能性すら含まない、どこまでも終わりの見えない絶望だけである。そこに希望などない。
「……難しいものだな、俺にはその辺はよくわからん。」
最近のお前は人間に良く似てる、と何でもないように言われ妙な気分になる。
「人間っぽいですか?」
「ん、ああ。違うところと言えば、人間は力がないからいろいろ考えるんだろうが、お前は力を持っているのにグチャグチャ考えてるよな。」
「……持ってる力の大きさが微妙なんですよ。」
庄虹様など古い土着の神ほどの力は持たないが、人間に手を加えることなど容易にできる。
力は持つものの、この土地に縛られているため、外の生き物が媒体にならない限りそう遠くへ行くことも、麓の街から出ることもできない。それどころかこの町の隅々へ行くことすら叶わない。
傍若無人に振る舞えるほどの力はなく、何かを望み旅立つこともできない。
「そういうとこもな。大きさが微妙なんて、そんなより良くを望むところも俺たちはもってないしな。」
基本的に何かをしたいとかはねえし、せいぜい気まぐれに力行使したり人間に何か願われて気が向いた時に叶えてやるくらいで、と指折り数えるもののそこに『在る』という存在である山神様はほとんど何かを『する』ということがない。
「そもそも、私と貴方の生まれた理由から明らかに違うんですよ。」
「んん?……あーまあそうか。」
八百万の神である庄虹様は、神である大山津美の一派である。
つまり庄虹様は何かに望まれて作られた神ではなくこの地にあるべくして『在る』神なのだ。
一方の私は千二百年ほど前に山の麓の村の人間が、当時流行していた疫病を封じるために作った無病息災・長寿祈願の明神である。私は人間のために『作られた神』である。ゆえに私は人間の信仰心なしに存在することは叶わない。
「その点においてはある意味私は、神に近く、仏に近く、人間に近いとも言えるんです。」
限りなく何者でもなく、同時にひどく存在が希薄で不安定。
人間からの信仰心がなければ消えてしまう存在。
不毛な言葉を重ねれば重ねるほど鬱々と沈んでいく思考にため息をつき途切れさせた。いくら考えてもいくら話しても何もしようとも私は私以外の何者にもなれないのだ。
「……ところで、さっきの庄虹様の話ですが。」
「おお?何だ?やる気になったか?」
「まさか……ただもし、私が彼をここの住人したいと思い貴方の提案に乗ったとしたらどうしましたか?」
庄虹様の言った案は決して荒唐無稽なものではない。だからと言ってこの食えない人がそうやすやすと手を貸すようには思えないのだ。
「そうだなあ……。取りあえず多分お前のことを喰ってたな。」
「……すいません、よく聞こえませんでした。」
「お前のこと喰ってたな!」
矢鱈と良い笑顔とともに告げられた衝撃の真実に血の気が引くのを感じる。
「え、喰っ……え?」
「おう。」
「……え、物理ですか?」
「物理……?俺もお前も実態ないと言えばないから物理ではないが、ここにある精神?存在?を、頭からバリバリと。」
一欠片の悪意などなさそうにしれっと言い放つ山神様に眩暈がする。そして同時に背筋が寒くなった。間違いない。この人は私が案に乗っていたら今言うように食べていた。
私たちは実体がないので一般的な食べ物や物体を食べることはない。私たちが糧とする物は物体の持つ『気』である。更に言えば私は人間の持ってきた所謂『供物』の気を取り込むのだ。まあそのあたりは長くなるので割愛するが。
実際に庄虹様なら気の固まりである私を頭からバリバリ食べることは可能である。髪の毛一本残さず喰われる。
「怖っ……!」
「そう言うな。お前なら乗らないと思ってたからよ。」
「……。」
まあもし乗ったらそれまでだがな。との言葉にうなだれた。
いつだってこの人はやりかねない。
しかしふと思いついたように庄虹様が私の方に間を詰める。嫌な予感がした。
「……頭からペロリ、だな。」
なんとなしに呟いた後、グパアァッと口を開いた。耳のあたりまでご丁寧に裂いて。
「…………っ!?」
「これくらい開けば頭から一口でいけるな。」
二イッと裂けた口で笑う山神様に声にならない悲鳴を上げる。
余談だがあくまでもいつも動きやすいから人型をしているだけで、実際は特定の形を持っていない私たちは姿自体はどんな形にもなれる。ただ庄虹様はそれが極端である。
「んー、小さいころのお前はこういうのを見て泣き叫んでたけど、成長してんだなあ。」
感心感心、だなんて言ってる側から額に目をつけたり頭に角を生やしたりするから嫌だ。普通に怖い。
「やたらお前が怖がるから普通の人間っぽい姿してるけど、こういう姿してる方が威厳があって良くねえ?」
「よくありません。いつもの姿の方が素敵ですからそちらでお願いします。」
ぎょろぎょろと動く三つの目を見ないように半ばやけくその言葉を投げつける。はいはいだなんて聞き流しながらまた両手の爪を尖らせ裸足の足を獣風に変化させる。いつもこの人はこうだ。人が嫌がるのを分かってて悪ふざけでしれっと行う。その割に、本気で嫌がることは見分けてるようで、よほどのことは滅多にしないからなお悪い。こちらが怒りきれないのだ。
「鈴蘭っ!!久しぶりだな!寂しかった、か……?」
「し、獅呉くん……。」
勢い勇んで聖域に飛び込んでくる獅呉は私の目の前にいる、若干原型が怪しくなっているものの辛うじて人型の庄虹様にくぎ付けになる。しかも庄虹様は庄虹様で何ら気にした風もなく獅呉の方に多めの目を向けた。
「おお、小僧。ここに来るのは久しぶりだなあ。」
「ちょ、庄虹様!自重してください!」
彼の感覚は人間とはかけ離れているからあまり気付かないのかもしれないが、今の彼の姿は化け物としか形容のしようがない。多少見慣れている私ならばともかく初見で人間の獅呉にはいささか衝撃が強すぎる。
「え、鈴蘭……、」
「庄虹様!元に戻ってください!」
「断る!」
さくっと断られた。
あわあわとするも獅呉は目を逸らさないし、視界の暴力庄虹様は人目を憚らずにやにやしている。
「鈴蘭……浮気かっっ!?」
「他に突っ込むところあると思うんだけど気のせい!?」
「ぶはっ!おまっ、前にも思ったが本当最高だなぁ!」
絶望!といった表情で私を凝視し、俺がしばらく会いに来なかったのが悪かったのか、だの、今日から俺ここに住むから!などとよく分からないことを必死に話す獅呉と、それを見て三つ目に涙をためて更に爆笑する。混沌と他に言いようがない。
いろいろともうどうでも良くなって、ばたりと若草に身を預けた。
空を仰ぐと、僅かに萌木に遮られた、雲一つない秘色色が天高く広がっていた。
ぎゃあぎゃあとひどく騒がしいのに、自然と笑みがが零れた。
喧騒を絶っているわけでも、静謐であるわけでもない。それでも。
今、この空間が、これまでにないほど輝いて感じた。
ああ、そうだ。
「これが、好きだなぁ……。」
誰の鼓膜を震わせることもなく、微かに揺れた大気を春風が浚っていった。