青藍
自分の中でキチンと区切りを入れて数日、獅呉は本当に何気なくひょっこり戻ってきた。本当のところ、戻ってきた、という表現はおかしいのだが私は笑顔の彼を見て、『戻ってきた』と感じた。
「鈴蘭っ!」
「っ!獅呉くん!」
数日に渡る不在など知らぬように抱きついてきた獅呉に半ば押し倒された。大型犬の飼い主はこんな気分なのだろう。彼が素知らぬふりをしているので私も便乗して素知らぬ顔で藍墨茶の頭を撫でた。
ああやはり、私はこの子を手放すことなどできない。
「し、獅呉くん……ちょっと重たいから退いてくれると嬉しいかな……。」
「まあ、んなことよりも!!」
私の内臓破裂の危機は彼にとってどうでも良いことらしいです。しかし上体だけは起こしてくれたので私も膝を彼に乗り上げられたまま向かい合うように上体を起こした。そして彼の薄い学生鞄から引っ張り出され半ば押し付けるように差し出されていた一冊の古びた本を手に取る。
「これっこれ見てみ!!」
「その本は?……随分古そうに見えるけど。」
嘗ては美しい青藍であっただろう朱子織りの丁装に目を引かれる。所々擦りきれほつれているのは性質上必然であるが、青藍から瓶覗きに色を変えてもなお強い光沢は失われていなかった。作られた当時も相当高価であったことが伺える。しかし見たところ表紙、背表紙共に題名らしきものは見られない。
「『客人』っつう本らしい!地方に伝わる伝承とか民話とかを集めた……民俗学?関係の短編集らしい。」
「らしいって……」
「詳しいことは知らん!そういう本が読みたいっつったら司書のセンセーがこれ貸してくれた。」
その本を片手に珍しく真面目な表情で何かを探すように視線が走らされる。どうやら既に一度は読んだらしく、当たりを付けたものを改めて探しているらしい。この時代には付箋というものあるのだからそれを使えば良いものを……。
「あ、そうそう。本探してたから此処んとここっちに来られなかったんだ。」
その言葉に知れず安堵の息を漏らした。どこかで危惧していた、愛想を尽かされたのではという一抹の不安はどうやら杞憂に終わったようだ。だがまあその安堵の息に嘲笑を滲ませるのは致し方ないことである。同時に嘆息した。
「んん?寂しかったのか、鈴蘭?」
本から目を話さずにからかうような彼にふっと口許を緩ませる。
「……そりゃあまあ、寂しかったよ」
そういうと黙り込むので、なんとなしに彼を伺うと耳まで赤く染めていて、私はどうしようもなくて笑みも言葉も飲み込んだ。
「……あっ、あった!これっ鈴蘭この話読んでみろよ、な!」
「へ?あ、うん……。」
やっとのことで見つけたらしい一つの話のある頁を開きぐいぐいと押し付ける。昔と違い、彼の方が体も力も強いので地味に辛いのだが……。
読まねば納得しないだろうし、彼がここに来ることもなく探していたという話にも興味があったので私は特に断ることもなくそれを受け取り文字に視線を走らせた。
『矢車の柚子』
日焼けし色を変えた紙に眉を寄せるも、懐かしい古文調に口許が緩んだ。
しかしざっと目を通して首をかしげる。
読むようせかされ、隣からやたらとキラキラした視線を送られるが彼が何を意図しているのかが分からない。
「読み終わったか!?」
「え、ああうん。読み終わったけど……?」
「どうだ?!」
「や、どうだって……、」
何やら期待に満ち満ちているがどうしたら良いか分からず眉が下がる。正直内容として本当にどこにでもある話だった。
日照りにより渇いた矢車という村が、山奥の泉に住む竜神に雨乞いをするために柚子という娘を神の嫁として、無事に再び村は潤った、という伝承にはよくあるハッピーエンドともバッドエンドとも言いがたい話である。
「感想は?」
「よ、よくある話だな、と。」
「それだけか?」
依然として期待に溢れた視線に晒され、うっと言葉につまる。現代でこそ少ないがつい数百年前であったらこのような神の嫁や生け贄、人柱などよくある話であったのだ。それをこうも読まされ観想を求められ、あまつ期待を寄せられるなど正解が分からない。現代の感覚で言えばこんな風に娘を差し出すなど非道で凄惨であろうに、何故獅呉は楽しげなのだろうか。
「鈴蘭はさ、前に俺とは生きていく世界が違うって言ってたよな?」
「うん?まあ言ったねぇ。」
興奮冷めやらぬ風な獅呉の意図が相も変わらず読めないが、この若者が何か血迷ったようなことを宣うのではないかと内心冷や汗をかく。
「俺を鈴蘭の嫁にしてくれ!」
「……は?」
聖域の外側で盛大に吹き出す声を聞いた。
*******
嗚呼、頭が痛い。痛覚なんて基本的に持っていないけれど頭が痛い。
立ち聞きしていたらしい山神様は私が気が付いたことを察し退散しているが、ささっと手を振り聖域と外との壁を厚くし音が漏れないようにする。
現実逃避もほどほどに嫌々ながら獅呉に向き合う。
未だ彼はキラキラとした目をこちらに向けている。
頭が痛い。この子は決して馬鹿ではないのにどうしてこうも頭の弱いことを言うのだろうか。
「……落ち着こう、落ち着こうか獅呉君。」
「おう?俺は落ち着いてるぜ?」
「落ち着いてる状態でそれならお姉さんは頭が痛いよ!」
私の言葉に「お姉さんて……」などと胡乱な目で見られるが無論黙殺する。
しばらく頭を押さえ彼に何から説明し何を思ってそんなことを言い出したのかを問いただそうと頭の中でまとめ、よしと気合を入れてからもう一度向き合う。
「まず一つ目ね。君は男でしょ、どうやって嫁になるんだい?」
「あっ、じゃあ鈴蘭を嫁にもらいたい!」
ダメだ、話せば話すほど論点がずれていく……。
「……獅呉くん、頼むから説明をして……。いったい君を会わなかったこの数日で何を考えてこんなことを言い出したのか……。」
「ん?じゃあ順番に。……鈴蘭に俺は人間で鈴蘭は人間じゃないから、あんま長くはいられねェって聞いたから、まずそこからなんとかしようと思っていろいろ資料漁ってみたんだ。他に神と人間が一緒にいた例はないのかってさ。んで、この話見つけたんだ。この『矢車』の話みたいに結婚すればずっと一緒にいられるだろ?」
キョトンとしてこちらを見つめる。こういう顔してるとまだまだ子供らしくて可愛いだなんて思うとは世も末だ。私の目の替え時なのかそれとも現実逃避をしているのか。
ああ本当にどうしてくれようか。
「神を嫁にもらうなんて聞いたことも……いや、羽衣伝説はそうか……。兎にも角にも、そういう伝承に出てくる神は『神道』の神なんだ。大体は『山神』『土地神』や『水神』『火神』とかの自然の神。あとは政に関する神、それぞれ色んな道具に纏わる神。でも私は『明神』、ざっくり言うと『仏教』の生まれなんだ。だから基本的に私たちは生け贄や神の嫁を要求したりしないの。人身御供は『神道』であっても限られた地域でしかやってないんだ。私たちは生け贄に人間もらっても普通に困る。」
神道と仏教はそもそも根本的に異なる。神道の始まりは風土に基づく恵みと禍い、要は自然の圧倒的な力に対し祀ったものである。一方仏教の基本は六道輪廻に基づく魂の救済。簡単にするなら神道は神々を祈ることで自然の脅威を和らげることで、仏教は自分達の魂の救いを求めているのだ。
特に大乗仏教は、本人も含めた大衆の救済を願っているのだから生け贄を出すことはあり得ない。
とまあ難しいこと言って煙に巻くが、実は明神の人身御供は遡るとなかなかあるのだ。明神は仏教と神道の混ざった習合神なので人身御供を全面的に否定しているわけではない。もっとも、仏教的な見方でいくと、明神に対する人身御供は実は明神が要求してるのではなく、神を名乗る妖しが要求しているという考え方に落ち着くらしい。
「……ん?じゃあこの山には山神はいねぇのか?」
「いや?山神様いるよ。さっきまで近くにいたし。」
「……神道の神様の山に仏教の明神の鈴蘭が住んでんのか?」
「それについては山神様のこの山に私の祠を建てた数百年前の人間に言ってほしいかな。」
それについては苦笑いを禁じ得ない。大体の山に山神様がいるのに後になって仏教が入ってきてあれよあれよと広まったために私たちのような山は日本中にある。まあそれを理屈付けるために山崎闇斎などは頑張ったのだろうが。
「まあそれは深く突っ込むと垂加神道とか難しい話になるから流してくれると良い。なんにせよ、そういうのは仏教には当てはまらないよ。しかも君が男の時点で神の嫁にはなりえないし、神に捧げられるのは処女の娘か身体の部分でどこか片方……片目とか片足とかが欠けてるものだね。ってことでことごとく条件を満たしていないね。」
「……で?」
「他をあたって?」
綺麗な笑顔で取り付く島もなく叩き切るとキラキラとしていた目から一転してムスッと膨れぺいっと本を興味なさげに放ったため慌ててキャッチし勝手に獅呉の鞄に詰めなおす。借り物だというのにあんまりな扱いに窘めようとするも、もともとの要因は自分であるのでなんとも咎めがたく視線を投げるだけに留めておいた。膝をつきささくれ立つ瓶覗きの表紙を撫ぜていると突如グッと背中に重みがのしかかる。
「っ……!」
慌てて本を寄れた黒い鞄の中に突っ込み巻き込まれるのを防いだ。
じわじわと背中に生き物独特の温かさが広がる。
「……獅呉くん、重いよ。」
「……鈴蘭は俺のこと、嫌いか?」
「…………、」
何も答えることができず、返答に詰まる。また少し重みが増した。
「俺の何がダメなんだ?年が離れすぎてるから?俺が子供だから?……俺が人間だからか?」
「……そうだ、ね。」
よく分かってるじゃないか、だなんて言えなかった。
でもそうでしょう?
何をどうしても獅呉は人間以外の何物にもなりようがなく、同じように私もまたしがない小さな神以外になりようがないのだから。
何もかもが違う。
獅呉は生きている。一方私には生死の概念すらない。
「っ……なあ、自分じゃどうしようもないところで判断されて、はいそうですかって納得できるわけねぇだろ……!」
「んっ……、」
後ろから覆いかぶさるように腕を胸の前に回され身じろぐこともできなくなる。首筋に彼の硬めの髪が掠め、耳には直に彼の言葉と吐息が当たりびくりと身体を震わせた。
「鈴蘭……、俺がここに来るのは迷惑か?今の年になってもお前のことが見える俺が嫌か……?」
「……君に会えること自体は嬉しいよ、とても。でも、君が生きるべきは人間がいる世界でしょう?……私に君のあるはずの未来の幸せを奪う権利はない。」
私にとって獅呉と会う時間は何百年という長い時間のうちのほんの一瞬にすぎない。基本的には何も変わることのないつれづれというに相応しい生活。終わりが来ることはない。だが獅呉は違う。私なんかよりずっと命は短く時間は短い。彼をここに留めておくことで、本来彼が人間の世界で感じるはずだった幸せな経験、感情を私が奪っていいはずがない。
「俺の幸せを勝手に決めんなよッ……!」
更に腕に力が籠められ一瞬息が詰まる、がそれと同時に首筋に柔らかいものが触れ、
「うあぁっ!?ちょ、何ッ!」
生暖かいものがベロリと這い上がった。堪らず押しのけようにも力ではどうにもできずなんとも間抜けな悲鳴を上げた。
「もういっそ……、」
「いっそ!?いっそって何!?」
じたじたと抵抗を試みるも効果はなく、今度は着物の襟から見える首からうなじにかけて舐めあげられる。ゾワりと寒気にも似たものを感じて逃げようにも術がない。
「鈴蘭……、」
「へ、ちょ、獅呉くん……!?」
どうすることもできず身を竦めた。
私たちは気付かなかった。
「「ぐっ!?」」
背中にかかる負荷が突如として増加し二人して蛙が潰れたような呻き声を挙げた。私だけではなく獅呉も声を挙げているということは。
「くっ……何、何か乗ってるの!?」
「み、見えねぇからわからんっ!!何か、何か乗ってる!超踏まれてる!!痛ぇ!!」
胸の前に回されていた獅呉の両腕は私の顔の両脇に突かれているのでパニックになりつつももぞもぞと身体を反転させるとそれと目が合った。
獅呉の肩越しに、鹿と目が合った。
「し、獅呉くんッ!鹿っ鹿乗ってるよ!!」
「鹿ぁ!?蹄が痛ぇなコレ!!」
ふしゅーと息を吐き我が物顔で獅呉君の背中に立つ鹿。
サクッと小さな音が側からし、ぱっと目を向けるとキツネがいた。
こちらをジッと見てさっと跳躍した。
「うおっ!なんか重くなった!重い!!」
「た、多分キツネが乗ったんだと思う。」
「どこのブレーメンだよッ!!」
顔の両脇に突かれた獅呉君の両腕がプルプルと震えているのを見て身の危険を感じる。
「ちょ、獅呉君頑張って!耐えて!!」
「いつまで!?」
サクッとまた音がする。慌てて音の方を見ると、いつかのウサギがいた。
ウサギなら……などと思ったが完全に私はこのウサギの跳躍力をなめていた。
「ぐあっ……またなんか乗った!重くなった!」
「ウサギっウサギ!件の子!」
獅呉が力尽きる前に何とか彼の下から這い出し横から状態を見ると中々であった。
「うわあ……。」
下から獅呉、鹿、キツネ、ウサギ……何百年も存在しているがこんなリアルブレーメンを目撃するのは初めてである。一番下の獅呉さえ必死でなければ癒される光景に思えないこともない。
獅呉の助けを求める声を無視し続けること約数分、思う存分楽しんだ後で一匹ずつ下ろしてあげた。
何もなかったように顔を見合わせ笑う。
せめて、せめてほんの少しの時間で良いから、目を逸らし、耳をふさぎ、何も知らぬ幼子のように笑うことを望ませてほしい。
ごめんなさい。
のらりくらりと過ごしてきた私には、君に答える覚悟がないのです。