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藤納戸

翌日、彼は来なかった。


翌々日、彼は来なかった。


違うのに、今日()来なかったじゃなくて今日も来なかった。もうきっと彼は二度とここを訪れないのに。

私が、彼に来ないよう言った。突き放した。浮き世から取り零れかかる彼を、元の場所へ返すために。



ハラリ、ハラリ


痛いほど白い雪が舞うように降り注ぐ。ひやりとした感覚に身を竦ませながら緩慢な動作で楠の根本に腰を下ろした。季節など素知らぬように青々と茂る葉を見上げはたと思う。

この木はまさにあちらとこちらが混ざったものであると。


数年前、獅呉が来た雨の日に生まれた楠。彼がいなければ決して生まれることはなかった。それはあちら。一方で、時を無視して育ち、私が手を加えないがためにその日から新たな葉が、枝が、実が生まれることはなく、葉の一枚とて落ちることがない。それがこちら。


あちらがこちらに来たがために生まれた一つの命。

いっそ刈り取ってしまおうか。


この木がある限り、私は彼のことを否が応でも思い出してしまう。彼がこちらに関わってはいけないのと同じように私もまた、あちらへ肩入れしてはならない。この数百年がそうであったように、関わりを持ってもいずれあちらが私のことを忘れてしまう。同様に私も彼らのことを忘れてしまう。稀有な人間こそ記憶に残るものの、それに感情は決して伴わない。



それがどうだろう。今の私は自然に忘れることもできず、たった一人の人間のために頭を悩ませ心を動かす。なんとも情けない。矮小な人間に揺さぶられるなど。私が一度瞼をおろし、しばし眠りについたなら、目を覚ましたころには消えてしまうような。脆く儚く、ひどく不安定な存在。かつて天孫が岩を望ます、桜だけを愛したがために。

私たちを祀り、力に縋り、祈ることしかできない。そして私たちは気まぐれに願いを叶えてやる。それだけ。

そっと楠の固い幹を掌で撫でた。私が一寸願えば、まるでそこに最初から何もなかったかのように消し去ることができる。聖域の主であるが故の特権。



「その木、消しちまうのかい?」

「っっ、庄虹様しょうぐうさま!」



バッと振り向くとほんの少し後ろに山神様である庄虹様が立って、楠を見上げていた。深い紫の瞳に楠を映す彼が何を考えているのか、私には分からなかった。



「……はい、そのつもりです。」

「なんで?」



寸の間もなく飄々と問う声にぐっと言葉が詰まった。何故、なぜ?



「それさ、最近来なくなった人の子となんか関係あんのかい?」

「なっ……!」



何故それを、そんな表情をしたであろう私を山神様はクツクツと楽しそうなのか、そうでもないのか軽く笑った。白と黒だけの着物が目に痛い。



「何で知ってるかって顔だな、ん?……この山は端から端まで俺のモノ。いつどこから誰が山に踏み入れたかくらい手に取るようにわかる。ま、ここみてぇなそれぞれの聖域の中までは把握していないがな。」

「そう、でしたね……。」



なんとも馬鹿なことを聞いてしまったとうなだれる。むしろ墓穴を掘ったに等しい。



「あの餓鬼、かなり長い間通い詰めてただろ。流石に気配を覚えるわ。……それで、最近来てねぇってことは、ついにあれもお前のことが見えなくなったのかい?」



もう元服過ぎた年だろ?、とこともなさそうに言う彼だがその言葉に身体のどこかが軋んだ。


そうか、彼も私が見えなくなるのだ。遅かっただけで、私や聖域、また人でないモノから離れ信じなくなり見えなくことを願ったなら、見鬼の才は失われる。それはある意味、大人になることの同意だ。

見えなくなる。それは彼が二度とここに来ないことを顕著に示していて確かで不確定なドロリとしたものが胸の奥からこみ上げる。これは何。これを何と呼ぶのか私には分からない。



「……きっと、見えなくなります。あの子はもう、ここには来ません。」



自分で言った言葉がズシリと鳩尾に沈んだ。



「へぇ……。」



分かったのか分かってないのか、気の抜けたような返事をする山神様の顔をまともに見ることができない。



「……お前が、追い出したのかい?」

「はい、」


「お前は、それで良いのか?」

「……ええ。」



強く手を握りしめる。伸びることのない爪が掌に突き刺さることは、ない。



「ふっ、あっはははははっ!やるなぁお前!」



突如として笑い始める山神様に思考がとても追いつかない。何に対して彼がそんなにも笑っているのかが全く見当もつかず、訝しむよりも先に呆然としてしまった。どうすることもできず、笑いが収まってくれることを待つ。それからしばらくして若干苦しそうに笑いをおさめ最後に息を整えるようにため息を吐いた。



「はぁー……、格上である俺に対して、嘘をつくたぁなかなか度胸あるんじゃねぇの、んん?」

「っ!……そんなことはっっ、」


「あるっての。」



のらりくらりと意図を掴ませないくせに間髪入れずこちらの懐へと入り込み私を中身をかき乱す。今に始まったことでもないので苛立ちは覚えない。ただ異常なほど胸が詰まった。


私たちにとって『嘘』と『真』は大きな意味を持つ。私たちは決して嘘をついてはいけない。正直でなくてはならない、それが私たち神の持つ最大にしてほぼ唯一と言っても良い制約、縛りだ。日本古来の神でないにしろ、私もまたこちらの神に近いものだ。その縛りは私にも及ぶ。


ひょいと顎を掬われどこまでも深い藤納戸の双眸は何もかも見透かすように私の顔を、瞳を覗き込んだ。純粋とも無遠慮とも取れる瞳の色に、一瞬脳裏に黄櫨染(こうろぜん)がチラつき失笑と嘲笑を口元に滲ませた。



「本当に、お前は……それで良いのか?」

「っ良い、と申し上げたはず、です。」



一つ一つの音に力を込めて問われ、震えを抑えていたはずの声は情けなくも掠れた言葉を発した。顎から指が離れ、藤納戸はついっと逸らされた。



「……ま、お前が何考えてるくらいは大体わかる、が。そう肩肘張らずに生きてもバチ当たらないんじゃねぇの?真面目すぎるんだよ、お前。」



さもこともなさげに紡がれる言葉はじわりじわりと私の胸に何かを落としていく。どこか阿呆のようにこれが彼と私の格の違いか、などと分析してみたりした。



「あの餓鬼のこと、気に入ってたんだろ?追い出す必要はなかったはず。……大方、時間の流れやら人間の世とか気にしすぎて追い返したんだろうけどよ、本当にそれで良かったのか?それでお前は後悔しねぇのか?……嬉しかったんだろ、楽しかったんだろ?どうしてそれを自分から手放そうとする。」


「――っいつか手放さなくてはいけないと分かっているからこそ、突き放したんですよ!ここにいてはあの子のためにはなりませんっ、それに、」



堰を切ったように零れ落ちる言葉を止める術は見つからない、いやたぶん探そうともしていないのだろう。感情的になり、矢継ぎ早に言葉を紡ごうとする私の額を、細く長い指が強かに弾いた。



「いっ……!?」


「あーもーうるせーうるせー!真面目すぎ!いちいちうじうじと面倒くせーんだよ、鈴蘭!大体なぁ、俺達みてぇなのは我儘なくらいが丁度いいんだよ。特別なんだから、常識なんて持つ必要はねぇし、気まぐれ、理不尽、傍若無人が寧ろ代名詞なんだよ!上等だ!気に入ったモンを手放したくなくて何が悪ぃ!?欲しいモンを願って何が悪ぃ!?お前は自由だ。お前の願いを、欲を縛ってんのはお前自身だ鈴蘭っ。」



未だかつて、生まれてこの方、千年以上の間で彼がこんな剣幕を見せるのは初めてのことだ。良からぬ人間が踏み込んだとき、良くないモノが入り込んだ時でさえ感情を、激情を覗かせることは一度としてなかった。呆然としながらも、凛とした藤納戸から目が離せなかった。



「お前がどうすべき、じゃねぇ。お前がどうしたいか、だ。……誰がお前を咎める、何がお前を断罪する?したいようにしろ。誰も文句を言う奴ぁいねぇ。」



聞き分けのない子供を諭すように静かに語る。彼の言葉はするりと胸に吸い込まれていった。



「好きな、ように……。」

「ああ、好きなように、だ。絶対に悔恨を残すな。一度開いちまったモンは時間じゃ消せねぇ、俺たちはな。」


「ぁ……、」




好きなように。

私がしたいこと、好きなこと。


あの子の笑顔が、いくつになっても好きだった。

彼と過ごす静かな時が、何よりも大切だった。

私の鼓膜を震わせる彼の笑い声が、心地よかった。


――――……あの子といること、それが私の幸せだった。


遅すぎた自覚が胸をせりあがる。


愕然としたような僕を前に、山神様は小さく笑った。



「ま、何にせよ俺にはどうしようもねぇことだからな。形見の雲を仰ぐくらいの気でいろよ。……それと、」



ごつごつとした楠の幹を愉快そうに撫ぜた。



「この木、消すな。勿体ねぇからな。」



嘘を吐いた分はそれで許してやんよ、と言う彼の意図は相も変わらず明確には読むことができなかった。それでもその意図の端だけでも、掴むことができた気がした。

言うだけ言うと彼は再び姿を消した。私よりもずっと生きている貴方は、何か後悔していることがあるのですか、という問いはついぞで出なかった。


静寂に支配された、時を忘れた空間に、獅呉の忘れていった花浅葱のマフラーだけが心地よい存在感を主張していた。

時の流れがない、それゆえに、


私の気は長いのだ。

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