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藍墨茶

今日も今日とて、聖域では平和なのんびりとした時間が緩やかに流れていた。


いつのまにか住み着いたウサギに、この子につれてこられた鹿やキツネも来るようになった。ウサギがキツネに襲われやしないか当初ビクビクしていたが、茶色の野ウサギは私が思っているよりかなり強かであった。

さて、シグレだが早いことに彼は高校生になった。小さく素直だった彼は可愛いげがなくなった。そしてそのまま聖域に来る回数が減った。

…………なんてこともなく、ほとんど毎日のように聖域に訪れる。数年前の私の懸念は杞憂にならなかった。目下の悩みである。



「鈴蘭!」


「獅呉くん、また来たの?学校は?」


「あー?今日から冬休みだから半日だったんだよ!」



学ランの上からコートを羽織り、ベージュのマフラーを巻く彼はどこからどうみても所謂、今時の高校生だ。毎日のごとく山に通うことを差し引けば。



「鼻赤いよ……寒いんだからわざわざこんな所に来なくても……。」


「へへっ、どうせここは適温だろ?それに寒くてもここに来ねぇと鈴蘭に会えねぇし。」



聖域に入ると着込んでいたコートや手袋を外す。聖域の中が適温なのは、持ち主である私が最も過ごしやすくなるように聖域が対応するからだ。これは何百年前から変わらない。



「若者は若者らしく、若者同士で青春すれば良いよ。学生なんてあっという間でしょ?」


「一度たりとも学生をやってねぇ奴のセリフじゃねぇよ、神サマ。」



特に隠す意図はなかったが、獅呉が中学生の時に普通に明神であることがバレた。当然だ。聖域の入り口の脇に私の祠と古びた木札がある上に、木札にはご丁寧に『鈴蘭明神』と書いてあるのだから。



「だいたい青春に何するとかあんのか?」


「……あれ、太陽に向かって走るとか?」


「昭和か。」


「黙ると良いよ若造。……ええっと、部活に勤しむ、とか?あとは普通に友達と遊んだり旅行に行ったり?」



なんとなくイメージで言ってみる。明神なので私はこの土地に縛られていて、一人では一定の範囲内しか動き回ることができない。麓までいくと彼と同じくらいの年の子たちがいるので、その子達から聞き齧ったものだ。盗み聞きというと外聞が悪いが、どうせその子達には私が見えていない。逆に開き直る。



「俺部活入ってねぇし。」


「なんで入ってないの?君、運動神経良いでしょ。」



獅呉は体格も良いし山の中腹にあるこの聖域まで麓から息切れなしに駆け登ってくるくらいには体力もある。大してスポーツについて知っているわけではないが、彼に向いているといって問題ないだろう。



「は……?」



しかし獅呉は小さな声を漏らし、目を瞠って訳がわからないとでも言うようにこちらを凝視する。思わずぎょっとした。何か今の私の言葉のどこかに地雷でもあっただろうか?彼が部活に入らない理由……?



「何言ってんだ、お前?」


「う、ええぇ……ご、ごめん?」



ため息を吐かれ更に焦る。何かあっただろうか、というか今までの会話で部活のことについて触れたのは今日が初めてだったはず……。



「そりゃお前、部活なんかに入ったらここに来れる回数が減るからに決まってんだろ!?」


「そんなこと!?」



緊張して損した、と脱力する。

獅呉は相も変わらずこの場所を気に入っている。いや、気に入りすぎている。だが本来ここは人の子が来るべきところじゃない。そもそも人の子はここを見ることもできない。まあ見えてしまっているからこそこうして私も追い返さずに彼を置いてしまっているのだが。




「……ごめん、獅呉くん。少し聞いてくれるかな?」


「ん?おう。」


冬でも青々と茂る草むらに向かい合って腰を下ろす。普段は少し離れたところだったり、隣に座ったりするのに、こんな風に向かい合うときは大事な話をするときの、二人の暗黙の了解だ。



「君はもう、あまりここへは来ない方が良い。」



真面目に作られていた顔が歪み、赤の強い目が見開かれる。驚愕、疑問、戸惑い、そして絶望が綯い交ぜになった色だった。胸がきしむ。やはりもっと早くに言い出せばよかった。


「な、んで……?」


聖域(ここ)は人が来る場所じゃない。本当なら見ることも叶わない場所。そんな場所に人の子である君が入り浸るのは、とても不自然で異常なことなんだ。」



しかしどんなことに関しても、異常なものは淘汰される。それが今だ。



「君はもう、本来あるべき場所に帰らなきゃいけない。」



これ以上は、君があるべき世界に戻れなくなってしまう。

それは物理的にではなく、精神的にだ。


獅呉は両親はおらず、孤児として施設で育ってきた。しかもなまじ見鬼(けんき)の才があったせいで回りからは避けられ、疎んじられてきた。そんな彼を気まぐれに抱き上げてしまったのが、私だ。片や自身を肯定してくれる小さな世界。片や自身を疎んじる大きな世界。獅呉が小さな世界に逃げ込んでくるのは当然であり、必然であった。私はもっと早くに彼を追い返すべきだった。



「何で……、鈴蘭は俺のこと嫌いなのか?」


「そういう問題じゃない。いつまでここにいるわけにはいかないでしょう?少なくとも、人の生活の一部を削ってまでここに来ることはあまり良くない。大人になればここへ来ることができる時間はほとんどなくなる。今のうちに、少しずつで良いから離れた方が良いんだ。」



諭すようにこんこんと語る。いつかのように、彼が涙を溜めることはない。彼はもう子供ではないのだ。



「……大丈夫、そっちの世界で馴染めるようになれば、私のことも、ここであったことも全部忘れる。最初は辛いかも知れないけど、そっちの時間の流れはここよりも速く、濃密だ。ここでの記憶は薄れ、消えていく。」



そして思い出すこともないだろう。幼いときに私と関わっても再びここへ、私に会いに来た子はいない。私が彼らの記憶を消したわけではない。刺激で溢れる日常が、ここでの記憶を埋もれさせるのだ。

それがこちらとあちらの常である。


頼りなさげに揺らぐ瞳に罪悪感と一握りの後悔が込み上げる。でも私はそれをぐっと押し止めた。



「……嫌だ、絶対嫌だ。」


「っ!」



獅呉が身をのりだし、私たちの間にあった距離は半ば強制的にゼロとなる。背中に回された腕が痛い。私の腰辺りに抱きついていた怖がりな少年は、気づけば私を包み込むほどに成長していた。



「……獅呉くん、大丈夫、すぐに私のことなんて忘れるよ。君のいるべき世界は広くて、新しいもので溢れている。ここみたいに、君を退屈になんてさせないよ。」


「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だっ……!」



熱に浮かされるようにただただ拒絶の言葉を吐き出す。肩口に顔を埋める獅呉の少し固い藍墨茶の髪を梳いた。



「大丈夫、大丈夫だよ。……君はきっと、もうひとりぼっちじゃない。回りには君のことを見てくれる人達がいる。」


「他の奴等なんてどうでも良い……お前さえ居てくれればそれで良い。だから、もう来るなとか言うなよ……!」



余裕のない様子に息が詰まった。彼はここにいたいと言う。じゃあこれからも来ると良い、そう言いそうになるのをなんとか堪えた。ここで折れてしまえば今となにも変わらない。獅呉に会いたくない訳じゃない。でもそれ以上に、彼には外に目を向けて欲しい。



「だーめ。他はどうでも良いとか言わないの。……よく見てみると良いよ。」



ぐいっと獅呉の肩を両手で突っぱねるように押し返す。泣きそうな表情は見ないふりをして、視界を開けさせた。



「見てみて……獅呉くん、君と初めて会ったときからもう十年以上たつよね。私はあの頃から全く変わってない。でも君は変わった。泣き虫な小さな少年じゃなくなった。それにここもそう。私が動かそうとしない限り、ここにある木も、草も、花も、育つことも枯れることも決してない。一方で、ここから出た世界では、生き物は産まれ、育ち、そして土に還る。かつてあったものは消え、変わりになかったものが産まれる。」



動くことを忘れたかのような獅呉の頬をそっと包み込むように撫でる。



「こことそっちには、絶対的で相対的な違いがある。……生き、日々変わる君は、ここにいるべきじゃない。」



そう言い切り、彼の様子を伺う。どうか、これで終わりにしなくてはいけない。一時の気の迷いを、いつまでも引きずるべきではないのだ。


疑問、懊悩、苦悶、そして微かに縋りつくような表情に、心が揺らぐ。ぐらぐらと揺れるそれを抑え付けるように、小さく唇を噛んだ。彼を突き放すのに、私が動揺の色を見せてはいけない、絶対に。


とん、と肩を獅呉に押され、私はその力に逆らうことなく身体を後ろへ傾かせた。同時に、言葉を発することなく獅呉は立ち上がり、脱いでいたコートを手に振り向くことなく草を分け祠の脇を通り過ぎて行った。



ああ、ああ、これで良かったのだ。きっともう、彼がここに来ることはない。


二度と訪れることはなく、そしてここで過ごした約十年の思い出もまた、激しく流れる日々の中に埋もれ風化し、失われる。いつしか消え、思い出すこともなくなる。今までここに訪れた他の人間たちと同じように。

これで良かった、彼のために望んでいたはずなのに



一瞬だけ見えた彼の頬に伝う涙が、なぜか目に焼き付いて離れなかった。

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