黄櫨染
少年と出会った日から、彼は毎日私のもとへ訪ねてきた。それは何週間経っても変わらなかった。いつしか彼の気配を覚え、彼が山に踏み入れた時点で彼の居場所が分かるようになった。
彼と遊ぶ日々はとても楽しかったが、逆に怖くもなってしまった。どれだけ楽しくても、あと数年で彼は私のことが見えなくなってしまう。私の思っている以上に、シグレのことを気に入っているらしい。
そんな日々から数年、彼は八歳になった。
「…………何で見えてるんだろ?」
「鈴蘭?何か言った?」
「なんにもー?」
彼は八歳になったのに、変わらず私の聖域に訪れた。分からない。しれっと現れ、私の作った木の切り株の机で学校の宿題をしている。
今まで千年と二百年程生きてきてこんなことがあっただろうか。いや、なかったことはなかった。しかし少なくともこんな小さな子供ではなかった。彼らは道術を使う導師であったり、陰陽術を使う者、所謂然るべきところで然るべき修行を積んだものだけである。間違っても、何の変哲もない幼い人の子が私のもとを訪れることはなかった。
首を傾げるが、その理由は分からなかった。ただまあ、楽しいならそれで良いや、と考えることを放棄し鉛筆を握る彼を何をするでもなく眺めた。
シグレが勉強をしている間はどうにも暇で彼に気づかれないよう、そっと聖域を抜け出した。少し離れたところに動物がいる音がするので、その子に遊んでもらおうと思ったのだ。
しばらく歩いていると、やはりいた。茶色の野ウサギだ。話しかけ、了承をもらったあと抱き上げてホクホクとしながら聖域へ戻った。この重さと温かさが生きているもの独特で嬉しくなる。
「鈴蘭っ!」
「ん?どうしたの?」
聖域にはシグレがいたのだが、何やら慌てている。野ウサギを抱えた私にドン、と抱きついてきた。その衝撃に、初めて会ったときよりも大きくなったな、一人ごつ。
「どこ行ってたの!?」
「え?いや、その辺にこの子がいたから遊んでもらおうと思って。」
ほれ、と手に持った野ウサギをシグレの頭に乗せる。頭の上にそれなりの重さのものが乗るのでシグレはバランスを失いフラフラとした。ウサギはウサギで落ちたくないので、シグレの頭にしがみつく。結局彼はバランスをとりきれず尻餅をつき、頭に乗っていたウサギはシグレの腹の上に鎮座ましましていた。
「ふ、くくくっ楽しそうだね、シグレ。」
「寧ろ楽しんでるの鈴蘭だけでしょ。しかも何かこのウサギ態度でかい……。」
不服そうな彼の苦言は華麗にスルーする。
ふと空に目をやると暗い色の雲が空を覆い始めていた。空気も湿気を増し身体に纏わりつくようで気持ち悪い。
「シグレ、そろそろ雨が降る。帰った方がいいよ。」
「ええー、まだ夕方にもなってないのに!」
「ダメダメ、君みたいなおちびちゃんは雨に濡れたら風邪引いちゃうでしょ?」
「ちびじゃないっ!」
噛みついてくる彼をいなしつつ、さっさと彼の持ってきたプリントやら文房具やらをしまっていく。これらが雨に濡れてしまったら彼の努力が水の泡だ。実体を持つようで持たない私が雨に濡れることはないが、普通の人間のシグレや彼の持ち物は濡れてしまうだろう。
「はいはい、我儘言ってないで帰った帰った。」
しかし彼は聖域から出ていこうとしない。いつもならある程度駄々をこねても、渋々といった体で引き上げるのだが、今日の彼は迷ったように、しかしはっきりと意思をもって帰ろうとしない。何となく、それは初めてあった日を彷彿とさせた。
「……帰りたくないの?」
「帰りたく、ないというより……、帰り道が……。」
理由がはっきりしないものの、とりあえず今は彼が帰ろうとしないのは明白だ。ばれないようにため息を吐き、降るであろう雨のために雨避けの大きな楠木を一本聖域に生やす。
メキッ、ミシミシミシッ……!
「…………!」
大きな音をたててみるみる異常なスピードで成長する木を、あんぐりと口をあけて見るシグレを見て、改めて人の子から見ると異質であることを自覚した。
「ははっ、びっくりし過ぎだね。まあこっちへおいでよ、話はそれからだ。」
呆然とする彼を楠木の根本へ呼び寄せ、座らせる。暫くするとパタパタと、木の葉を打つ雨音が響きだした。シグレの抱えていたウサギを自身の膝の上に乗せ、話の続きを促す。
躊躇いながらではあるが、少しずつ話し始めた。
「先に言うけど……嘘じゃないよ?」
「ふっ、嘘だと思うような話なの?そもそも君が私に嘘を吐いたことなんてないでしょ。」
緊張を解くように、片手で灰色がかった髪を撫でる。
「でも……皆に話すと嘘つきって言われたし、先生たちだって、よそで言っちゃダメって言ってたから。」
不安げな顔にすっと目を細めた。
「とにかく、話してごらん。理由が言えないなら傘だけ持たせて帰しちゃうぞ?」
そのあともモゴモゴと言おうとして止めるのを繰り返す。私はシグレが話せるまで膝の上のウサギを緩慢な動きで撫でた。ウサギが微睡んだころ、やっと意を決して口を開いた。
「……雨の日とか夜になると、いっぱいいるんだ。」
「何がいるの?」
「わかんない、けどなんか変な奴ら。人間みたいなのに、他の人には見えてないみたいで……。幽霊?」
ほお、とどこか感心しつつ、腑に落ちた。彼にはどうやら霊感、といった類いの物があるらしい。力が強いから、この年になっても私を目視できるのだ。
「山にもたくさんいる。雨の日になるといつもよりもっと増え……!!」
話が途中で途切れ、あまりよくなかった顔色が更に悪くなる。青白いを通り越して最早土気色だ。震えながら何かを見ているらしい。ついっと、彼の視線の先にあるものを見て、身体が強ばった。
それは聖域の外にいた。
しとしとと降る雨など気づかないかのように立ち尽くすそれは、辛うじて人の形を保っているだけのぼろ雑巾のようだった。服も身体も浅黒く、痩せこけ、所々身体は腐り落ちている。目は落ち窪み、黒く塗りつぶされたよう。虚ろに開けられた口、ざんばらな黒い髪。まさに幽鬼と呼ぶに相応しい姿。
それが、聖域の外にいた。
あれは怖い。
恐怖のあまり動けなくなったシグレの肩を叩くと弾かれたように私に抱きついてきた。それが彼の視界に入らないように、後頭部をそっと撫で肩に顔を埋めさせる。
「だーいじょーぶ。あれは聖域の中には入れないから、ここにいれば何の問題もないよ。」
「…………っ!!」
身体を震えさせるシグレを落ち着かせるように撫で続ける。
どうやらあれと目があってしまったらしい。
正直あれは最早消えかけで、何の力も持っていない。何か恨みをもって死んだものの、古すぎて多分本人も忘れている。恨みだけを糧にさ迷っているだけ。聖域に入ることもできないし、聖域の内側、つまり私たちを見ることもできない。恐らくこちらをたまたま向いていたから目があったように感じただけだろう。
日が落ちる時と、雨の日はああいうものが元気になる。シグレを無理矢理帰さなくて良かった。雨の中、一人あれと遭遇するのは可哀想だ。
大丈夫と言うが、彼は今だ怯え身体を細かく震わせている。どうしようか。
害はないしあれくらいなら放って置いても数十年も経たない内に消えるだろう。
だがまあいかんせん、目に毒であることに変わりはない。あれは大の大人でも慄くだろう。何にせよ、あれがいてはシグレに安寧はない。
「全く……面倒な。」
別にあのような幽霊に対する同情など持ち合わせてはいない。ただ、あそこにいられると私たちが困るのだ。
酷く荒んだ心持ちで、盤若心経を唱える。死後も浮き世をさ迷い歩くモノ達への救済。どうか安らかに消えてくれ。
突然経を唱え始めた私をシグレが不思議そうに見上げた。視線の先のそれは、少しずつ姿を変えていく。見るも無惨な身体は少しずつかつての姿に戻っていく。削ぎ落とされていた肉は甦り、ぼろ切れだった服は淡い色のカーディガンに。まだ年若い、女性だった。
聖域の外でも私の声が聞こえているらしい。私の方をしっかりと見ていた。
そして、かつて女性であったそれは黄色い光の粒となり、消えていった。
本当に迷惑なので、山を彷徨するのは止めて欲しい。山神さまにでも相談しようかな。
終わったとシグレに声をかけようとしたが彼は既に顔をあげていて、光の粒の向かった先をただただ見つめていた。
「シグレ……?」
「鈴蘭、あれはどこに行ったの?」
「んー?極楽浄土。簡単に言うと天国かな?」
その辺の詳しいところは完全に私の管轄外なのではっきりとは言えない。ただまあ審判を受けるにしろ、恐らくいずれは浄土へ行くだろう。
「鈴蘭も、消えちゃう……?」
「んん?消える予定はまだないかな。どうして?」
我関せずと今だ眠りこけるウサギを片手で撫でつつ、言いづらそうなシグレの言葉を待つ。シグレの赤の強い黄櫨染の双眸が不安げに揺れた。
「だって、鈴蘭も幽霊なんでしょ?」
「んー?誰が幽霊だなんて言った?」
「だ、だって鈴蘭空飛んでたし……。」
「鳥も飛行機も空飛ぶよ?」
「そういうんじゃなくてっ!」
憮然とする彼を呵々と笑い飛ばしはぐらかす。
特に教えない理由はないのだが、面白そうなのでまだ言わないでおく。
「ねえ、もし私があれと同じ幽霊だったら、怖いかい?」
「……怖くは、ないと思う。鈴蘭は、優しいから。先生とか、学校の奴らより、ずっと。そのっ……鈴蘭が幽霊でも、大好きだよ!!」
一生懸命なその様子に笑みが零れる。何て愛らしい子だろう。嬉しいことを言ってくれる。
嬉しい、だが彼の言葉にちょっと不味いな、と危機感を抱かないでいられなかった。
この子は人の子。あまりこちら側にいない方が良い。彼が生きるのはこちらの世界ではなく、人の世だ。いずれ私からは離れていかなくてはいけない。
どうすればシグレを穏便に人の世に帰すことができるだろうか。模索するも良さそうな案は浮かばない。
ふしゅん、と膝の上のウサギがくしゃみをした。