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第六話

5月の最終週のある日、数学の予習ができていなかった私は普段より早く学校へ登校した。1時間早いと電車が空いており、楓華高校の生徒も疎らにしかいない。普段と違う風景を新鮮に感じながら、私は古典単語の本を取り出し勉強をすることにした。

高校に入ってから夕方からの時間を部活にあてるため、家に帰るのは遅い。帰ってから勉強をしようと思っても、実際には体が疲れていてなかなか集中できなくて、それどころか気づいたら眠っていることもある。

仕方がないので、最近はこうして合間を見ては単語の暗記をすることにしているのだ。

私は気合いを入れ、本に目を落とした。単語と例文の羅列は単調で、集中しないと言葉が頭から滑り落ちてしまう。集中しなきゃ、と思えば思うほど

「ふあぁぁ…」

口からは何度も盛大な欠伸が洩れる。眼球の外側では、上の瞼が目の下の涙袋と仲良くしたいと駄々をこねている。

あぁ、このまま寝てしまいたい。この適度な揺れも私を微睡ませる。

手を伸ばせば届く所に楽園があるのに手を伸ばしてはいけないと制限されているような、そんなもどかしさも次第に薄れていく。


そこは、天国じゃない。ただのまやかしだ。

いやいや、天国だよ。幸せな気持ちになれるよ。


気づけば頭の中で悪魔がタップダンスをし、天使がぷんぷんと怒っている。…なんだか葵に似た悪魔と天使だな。

あ、悪魔が笑った。可愛い。そういえば手招きしてるよね、あの子。

「…。…さん。久保野さん?」

遠くで誰かが名前を呼んでいる。あれ?何だか体が大きく揺れているような。

「久保野さん!起きて!乗り過ごしちゃうから!!」

あ、これは川崎君の声。…ん?乗り過ごす…?

その言葉に脳が一気に覚醒した。目を勢いよく開ければ、そこには必死の形相の川崎君がいる。

「久保野さん!早く!とりあえず降りるよ!」

「は、はい!」

荷物を持って立ち上がった私の耳に聞こえたのは、ピーっという発車の合図。

って、電車出ちゃう!

蒼白になった私の手を取り、川崎君は急いで電車の外に出た。その瞬間に閉まる扉。

「良かった…」

放心したまま私は呟いた。

「本当だよ。危うく貴女、乗り過ごす所だったよ…」

呆れた顔で川崎君が私を見る。その視線が心なしか可哀想な子を見るような感じで、ぐさりと胸に突き刺さる。

確かに、お間抜けにも電車に乗っていた僅か10分の間に居眠りをした私が悪いんだけど。

「たまたま同じ電車で、しかも俺が気づいて良かったよ。…本当に久保野さんって放っておけないな」

「う。ごめんなさい…」

「別に良いよ。それより、行こうか」

川崎君は私を促して歩き始める。さっき繋がれた手はそのまま繋がれているのに、川崎君は気にしていないかのように平然と歩く。掌から伝わってくる熱に、自分の手がじわじわと熱くなる。


―――今…川崎君と手を繋いでる。


なんだか頭がくらくらする。心臓が速く胸を叩いて痛い。

「あ、あの…手」

「て?」

しどろもどろになりながら言うと、きょとんとして川崎君が私を見上げてきた。クリクリした目が不思議そうに瞬いている。


か、可愛い…。


つい身悶えしそうになったが、必死でそれを堪える。たぶん奇妙な顔をしていたんだろう、訝しげに川崎君の眉がひそめられた。

まずい。今、私ってただの変な人じゃん!

そんなレッテルは遠慮したい。私は意を決して、単刀直入に告げる。

「て、手をまだ繋いでいて」

思い切って言ったつもりが、語尾がすぼむ。こうやって申告すると、私が過剰に意識しているみたいで恥ずかしい。

泣きそうになりながら川崎君を見つめていると、彼はしばらく沈黙し、その後、何かに気がついたように視線を落とした。視線の先はしっかり繋がれた手。

「!!?」

瞬間、ボンっという音が聞こえそうなくらい一気に顔が赤くなった。耳や首まで紅潮している。

…って、気づいてなかったの?

「うわ、や、ご、ごめん」

呆然とする私は目に入らないみたいで、慌てふためいた川崎君は勢いよく手を離した。

何故だろう、温もりが消えた掌を、少し淋しく感じてしまった。気のせいかな。

「さっき、必死で。その不可抗力が」

よほど慌てているのか、川崎君はよくわからない釈明を始める。

…そんなに動揺しなくても。

彼の姿を見ているうちに逆に冷静になってきた私は、生温い目で見つめてしまう。それは川崎君にもしっかり伝わったらしく、彼はあからさまなくらいシュンと項垂れた。

犬だったら、耳と尻尾がぺたんとしてそうだ。なんだか川崎君の頭の上にぺしょりと萎れた耳が見えた気がした。

「うん、分かってるから、大丈夫。私こそごめん」

思わずそう言うと、途端に川崎君が顔を上げた。下から上目遣いに見上げる姿がやっぱり犬を彷彿とさせる。

「う…あの、とりあえず学校行こうよ」

「そうだね」

へにょりと気の抜けた笑みを浮かべる川崎君。それが普段の澄ました笑顔よりもキラキラと見えた。ドキドキと、耳元で激しい鼓動が響いている。

どうしよう。直視できない。

私は曖昧に笑って視線を反らした。

「…行こうか」

「うん」

言葉少なに私たちは歩き始める。二人の距離は微妙に遠い。それがもどかしくて、なのにホッとする。



恥ずかしさが和らいだのか、改札口を出た所で川崎君が私の方を見た。

「そういえば、久保野さん。さっき夢でも見てた?」

冗談混じりの声。まさかあの短期間で有り得ないよね、とその顔にしっかりと書いてある。…そのまさか、なんだけど。そんな顔されたら言えないよ…。

沈黙した私に、だんだん川崎君の表情が驚愕に変わっていく。

「まさか、夢見てた?」

「その、まさかです」

「や、だって10分だよ?」

「うん…」

私もびっくりしてるんだから、そんなに何回も聞かないでよ。なんだか私、恥ずかしい子みたい。

「久保野さん、疲れすぎだよ…それ。で、どんな夢見たの?」

「え〜と…、悪魔がタップダンスをして笑ってて、天使がぷんぷんと怒っている夢?しかも悪魔が手招きしてたかも」

先程の情景を思い出しながら、私は説明した。

川崎君は最初、真面目に聞いていたが、だんだんニヤニヤし、挙げ句には吹き出してしまった。

「ははっ、天使と悪魔…しかも酒井さん似って…。で、挙げ句に手招き?絶対それ、あっちに呼ばれてたって。やべー、久保野さん面白い」

至極真面目に話したはずなのに、川崎君はけらけらと笑っている。その楽しそうな姿に、自然と私の表情も柔らかくなっていくのを感じた。

「笑いすぎ」

「ごめん。でも久保野さん、面白すぎでしょ。ツボだわ」

「そんなに?」

「うん。俺のツボを的確に突いてくるよね。あ〜笑った。腹いてぇ」

「そんなに笑わないでよ」

ぷぅっと膨れてみせれば、川崎君はようやく笑いを収めた。


「そういえば久保野さん、何でこんなに早く電車乗ってたの?」

「今日の数学の予習が済んでなくて、学校でやろうかなと思って。和田先生って授業のスピードが早いじゃない?」

和田先生は数学Ⅰの担当の先生だ。ポイントを押さえて教えてくれるので分かりやすいが、授業自体は非常に早く進む。1時間で教科書10ページ分進むのはざらにある。さらに演習として大学入試レベルの問題を解くこともあるのだ。

「確かにね。中学とは授業のレベルもスピードも全然違うから、予習しておかないと付いていけないよね」

うんうん、と川崎君が頷きながら話す。

「でしょう?私、数学は得意な方だけど、気を抜いたら分からなくなりそうだから。ちょっと頑張ろうかなって」

「なるほど。

実は俺も数学の予習をするつもりで早い電車に乗ったんだ。今日、授業の最初で小テストをやるって言ってたし。せっかくだから、一緒に勉強しない?」

急なお誘いに、私は戸惑って川崎君を見た。

川崎君はいつものような澄ました顔をして前を向いている。

「良いの?」

「もちろん。二人で勉強した方が効率良さそうだし」

「じゃあ一緒に勉強しよう」

そう言うとぱぁっと川崎君の表情が明るくなる。ニッと笑うその顔は朝日に照らされて輝いていて。


トクン。


不覚にも心臓が大きく跳ねる。

胸がいっぱいになって、無性に泣きたくなって。


この気持ち、私は知ってる。


でも認めたくない。

出会って2ヶ月も経ってない人に、なんて信じたくない。

頭のどこかで、また同じ失敗をするの?と囁きが聞こえる。

簡単に他人を受け入れて、中学の時みたいに裏切られたら傷つくのはあなただよ。

クスクスと誰かが笑っている。

嘲笑うかつての親友の声。私を守ろうと怒りを顕にする葵の姿が脳裏を過った。


まだ…もう少しこのままで。


気持ちに蓋をして、私は微笑んだ。全てを見ないふりすればきっと、誰も傷つかないのだから。


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