■11 空想のお友達?
図書館の時間はゆるやかに流れる。人の子供と竜と悪魔、三人だけの世界の時間は。
かくれんぼの季節はゆるやかに終わりへと向かいつつあった。近頃、カルメはかくれんぼよりもおままごとがお気に入りなのだ。
四歳までのごっこ遊びでカルメがなりきる人物の筆頭はもちろんユカだった。それが、いまでは架空の家族の母親に、またはお姉さんや妹に、それから、なぜだか飼い犬や飼い猫にもなりきって嬉しそうにしている。
役柄の選択はともかくとして、牛頭は遊戯の傾向に見られるカルメの発達を手放しに喜んでいた。というよりは、ようやく垣間見えてきた女の子らしさの片鱗をこの悪魔は歓迎しているのだった。
『リエッキさんの女らしくないところばかり伝染るもんですから、正直心配してたんですよね』とは彼の談である。
家族を相手にした遠慮のない一言には、言うまでもなく遠慮のない家庭内暴力が返されたものだった。
この日もリエッキと牛頭は幼児のお遊びに付き合わされている。大人二人を旅籠の客と見立てて幼い女将が並べていく玩具の食器類は、もちろん牛頭手製の品々であった。
これはこちらのお客さん、これはそちらに、それからこれはと、順番に並べられてゆくカップたち。
それは三つではなく、四つあった。
リエッキと牛頭と、もてなし役のカルメと、それから……。
「ねぇカルメ。これは、誰の分なのかな?」
牛頭が四つ目のカップを指して尋ねる。しかし幼子の返答は煮え切らない。
「……うーん? よくわかんない」
小さく左右に首をかしげながらカルメは答える。問われてはじめて四つ目のカップの不思議に気づいたという様子で。
だが、そうかといって牛頭が問題のカップを卓上から除こうとすれば、これには全身全霊で抗議する。ダメ、それがなかったらこっちの人が困るでしょ、と。
その『こっちの人』が何者なのかについては、やはり本人もわかっていない。
またはじまったか、とリエッキは思った。
いつ頃からだろうか。カルメの言動に、正体のわからぬこの謎の存在が登場するようになったのは。
最初にリエッキがおかしいなと感じたのは、カルメが、図書館の誰もいない空間に向かって楽しそうに話しかけているのを見かけた時だった。
はじめはごっこ遊びの一種であると気にもとめなかった。だがそれが二回、三回と続けて見かけるうちに少しずつ気になりはじめた。
「おいがきんちょ、いったい誰と話してるんだ?」
たまりかねてリエッキが尋ねると、このときもカルメは問われてはじめて気づいたという顔で「わかんない」と答えた。
だが、それ以降もこの奇行は収まることなく今に続いている。
それだけではなかった。今回のおままごとのようなこともあれば、会話の中に突然絡めてくることもある。寝る前のおやすみも起きてすぐのおはようも、リエッキと牛頭のあとでしばしば正体不明の三人目へと続く。
誰も、挨拶した当人すら誰だかわからぬ三人目に。
理性の部分ではなく感覚の部分で、カルメはなんらかの存在を感知し、交流しているのだ。
「なんだか気味が悪いな」
遊び疲れたカルメがお昼寝の時間に入ったあとで、リエッキは牛頭にそうこぼした。
「実はこういうの、小さい子供にはよくあることなんですよ」
「よくあること?」
「ええ。人間には、大きくなるにつれて失われてしまう霊感が備わっていると言われます。あの子もその力で精霊や人魂を感知しているのかもしれません」
なにせこの図書館には、リエッキさんが殺しまくった盗賊たちの亡霊が、それこそ山のようにいるでしょうしね。
そう締めくくった牛頭に、リエッキから暴力の気配が立ち上る。
「そ、それにですね!」
その場を取り繕うように、牛頭が慌てて続けた。
「それにもう一つ、霊感とはまったく関係のない場合があるんですよ。実際、可能性としてはこれが一番高いのですが」
なんだ? とリエッキ。牛頭が指を立てて説明する。
「小さな子は、時折想像力を材料にして友達を作ることがあるのです。それで、自分の空想から生まれたその友達が、あたかも実在の存在であると思い込んでしまうんです。兄弟姉妹のいない一人っ子や、歳の近い友達のいない子供によく見られる現象ですね」
空想の友達、と確認するように呟くリエッキ。
ですです、と頷く牛頭。
「まぁ、霊にせよ空想のお友達であるにせよ、カルメの様子を見ている限り悪い存在でないことは確かだと思いますよ。空想の存在なら成長するにつれて自然と消滅しますし、霊だったら……そうですね、せいぜい守護霊としてあの子を見守ってもらいましょうか」
なんにせよ全然心配の必要はありませんよ、と牛頭は明るく言った。
だが、リエッキの表情は浮かないままだった。
「……空想の友達って、それはさ」
憂いを滲ませた声で、リエッキは牛頭に言った。
「それは、たとえば生まれてこのかた人間と接したことがないとか、そういうのも関係あるのかな」
あっ、と牛頭が声をあげた。
■
「ねぇカルメ。六歳の誕生日が来たら、私と一緒に街まで遊びにいきましょうよ」
幼子だけが感知できる謎の存在について竜と悪魔が語らいをもった、その日の夕食時。牛頭がカルメにそう切り出した。
さりげない風を装っていながら、その時宜について彼が細心の注意を払っていることをリエッキは知っている。
幼子へのこの提案は、二人の保護者がよくよく話し合って決めたことだった。
目に見えず音にも聞こえぬ謎の存在の正体を幼子自身が生み出した空想の友達であると仮定し、それを生み出すに至ったカルメの精神への栄養素の不足を、満たされることのなかった要素を満たしてやらねばとの、一致した意見に基づいての。
案の定、牛頭の提案にカルメは大喜びだった。牛頭が調理した美味しいご飯はつかの間存在すら忘れ去って大興奮、手にした食器をお行儀も悪く振り上げてたまらぬ嬉しさを表現した。
ここまでは想定通り。なんの問題もない。
そう、ここからが勝負なのだ。
ひとしきり喜んだそのあとで、カルメは二人の大人たちを見て、言った。
「リエッキもいっしょだよね?」
にっこり笑顔の幼子に、リエッキと牛頭は揃って苦渋の心境となる。
これもまた想定された反応だった。当然のように予想された、これこそが最大の難関であった。
「……生憎だけど、わたしはいけないんだ」
事前の打ち合わせ通り、リエッキがカルメにそれを告げた。
「どうして?」
カルメがすかさず問い返す。
とかく子供は『どうして』が多いということをリエッキは知っていたし、その『どうして』にも種類があることも理解していた。今のはまだ純粋に疑問を口にしたというだけの『どうして?』だったが、やがてそれはどうして希望が聞き入れられないのかという憤懣を表した『どうして!』になり、最後には泣き喚きながらの『どうして! どうして!』の連呼となる。
そうした厄介な推移を防ぐ為にも今この段階で納得してもらうより他にないのだが……無理だろうなぁ、とリエッキは内心ため息を落とす。
牛頭を嫌っているというわけでは絶対にない(たとえ話であってもそんなことを言ったら奴は自殺してしまうかもしれない、とリエッキは思う)。というか、カルメはリエッキにそうするよりも遠慮なく優しい牛頭に甘えている。二人の関係は良好極まりない。
しかし、それでもカルメはほとんどいつも『リエッキも一緒』を主張する。この幼子にとって重要な行事となれば主張は殊に激しさを増し、宥めても叱っても梃子でも動かなくなる。
これまではその都度リエッキが折れてきた。だが、今回ばかりはそうはいかないのだ。
リエッキは意を決して、幼子の『どうして?』に答えを返した。
「……わたしはこの図書館の番人だからだ」
それじゃあ伝わらないでしょうが! と牛頭が咎める視線を送ってくる。
うるさい、わたしはお前やあいつみたいに言葉を弄するのが苦手なんだ! とリエッキも視線で言い返す。
「……だからつまり、わたしまで行ったら、図書館がもぬけの殻になっちゃうだろ。その間に泥棒とか悪い人が来たら、困るじゃないか」
「うーん……おるすばん、うしあたまにかわってもらうのは?」
それでは牛頭が行けないのだがそれは構わないらしい。
幼子の邪気のない一言に、優しい悪魔がひとりひそかに傷ついた表情となる。
「ダメダメ、こんなやつに任せられるもんか……あ、いや……」
牛頭がさらに沈み込むのを見て、リエッキが言い直す。
「その……この図書館の番人は、ユカがわたしにくれた大切な役目なんだ。だから一時も休んだりはできないし、おいそれと他の誰かに代わってもらうわけにもいかない」
わたしにとって、図書館の番人でいることと生きていることとは、同じ意味なんだ。
リエッキはそう言った。
「ユカのくれたおしごとだから、リエッキにはだいじ?」
「そうだ」
「だから、やすんだりかわってもらったり、できない?」
「うん」
「……うーん、そっかぁ……」
そう言って、カルメは少しのあいだ黙り込んだ。
口は閉ざしていても口以上に物を言う表情が、幼い葛藤と真剣な思案の存在を示していた。
しばらくして、カルメは言った。
「んー……わかった……ユカのくれたおしごとなら、だいじだもんね」
泣きも喚きもせずに、幼子はいたくあっさりとそう聞き分けた。




