■10 忘れがたき午後の情景
「なんというか、さすがは司書王としか言いようがありませんね」
そこまで話しを聞き終えて、牛頭がいとも楽しそうに笑った。
「それで、司書王に不正解を言い渡された杖の御方の反応は、どうだったんです?」
「うん。あの男はほんの少しだけきょとんとしたあとで、今度はものすっごい不満顔をしてあいつを睨みつけたんだ。ずるいぞ語り部って、顔全体にそう書いてあるみたいだった」
そう語って、リエッキは自分もまた笑った。
派手な戦いの場面が終わり退屈そうにしていたカルメが、リエッキの膝の上で身をよじった。
忘れがたいあの日、忘れがたいあの午後の情景が蘇る。
あの日あの場所にはすべてがあった。
押しつぶされそうな不安の先に迎えた安心があった。
敵も味方も関係ない、心地の良い一体感があった。好けばいいのか嫌えばいいのかわからなかった男にようやく最終的な判断がくだせた、それもあの場所だった。
憎むしかない存在なんてこの世にいないのかもしれないと感じた。
大切だった人たちが、もっと大切になった。
あの午後のことを、こんなに安らかな気持ちで思い出せる日が来るなんて。リエッキは半ば不思議な心持ちでそれを受け止めている。
思い出は美しかった。幸せが、それこそ何百年経とうとも忘れられないような幸せであの日の記憶は彩られていた。
だが、思い出が素晴らしければ素晴らしいほど悲しみは深くなる。あの日のことを夢に見るたびに、リエッキは今すぐ死んでしまいたいほどの喪失感に襲われた。
けれどいま、机を挟んだ向こうには自分の話に笑ってくれる友人がいた。
膝の上には、もぞもぞと動いてつまらなさを主張するがきんちょがいた。
思い出を共有してくれる誰かがいることが、こんなにも救いになるなんて。
「言わなかったのですか?」
「……え?」
いつしか黙り込んでいたリエッキに、話しの先を求めるように牛頭が言った。
「ずるいぞとは、口に出しては言わなかったのですか? 杖の御方は、司書王に」
「あ、ああ」
牛頭の微笑みに促されて、リエッキは先を話す。
「言わなかったな、ずるいぞとは。だけどあの男、少ししてから別の言葉を口にしたんだ」
聞きたいか? という風にリエッキがそこで言葉を切る。
彼女の思惑に応じるように、牛頭が「なんと言ったのですか?」と聞いてくる。聞いてくれる。
リエッキは言った。とっておきの笑い話をする調子で。
「あの呪使い、仏頂面でユカに言ったんだ。『貴様と私は、やはり死ぬまで敵同士だ』ってさ」
牛頭が今度は声をあげて笑う。リエッキも同じようにして笑った。
笑わなかった者がひとりだけいた。
「ひだりてさんは、ユカのことがきらいだったの?」
カルメが、怒ったような口調で言ってリエッキの顔を覗き込んだ。
左手さんとはもちろん左利きのことだ。大好きなユカを敵だと呼んだ左利きに、カルメは腹を立てているらしかった。
「いいや、嫌いなんかじゃなかったさ」
リエッキは少しも迷わないでそう答えた。
「でも、てきっていったんでしょ? てきって、きらいな人のことでしょ?」
「うーん、そうだな。なんて言ったもんだろう」
幼子の素直な感性にいったいどう説明したものか、リエッキは頭をひねる。
そうしてしばし考えた末に、彼女は言った。
「世の中にはな、素直になれない人っていうのがいるんだ。そういう人たちは、照れくさかったり意地を張ったりして、時々思ってることとあべこべのことを言うんだ」
「ああ、私の目の前にもよい実例がいますね」
余計な口を挟んだ牛頭に鉄拳が飛んだ。
悪魔は冷たい床に倒れ伏したが、リエッキもカルメも少しも気にかけずに話しを続けた。慣れたものであった。
「これはわたしがそう思ったっていうのもあるんだけど……きっとあのとき、左手さんの言った『敵』っていう言葉には、全然違う意味がこもってたんじゃないかな」
「どんな?」
「……『友達』、かな」
リエッキは言った。
「『お前は死ぬまで敵だ』って言った左手さんは、ほんとは『お前は死ぬまで友達だ』ってユカに言ったんだ。それで、それはユカにもしっかり伝わってた……と、わたしは思ってるよ」
そう説明して、リエッキはカルメを抱き直す。
苦し紛れに口から出た説明は、自分でも妙に納得のいくものだった。
でも、間違ってはいないけど、足りてもいないような気がする。
あの二人がたびたび口にした敵、宿敵という言葉には、単なる友達として以上の意味合いや親愛の情がこもっていたような気がするのだ。
それこそ、時折はこのわたしまでもが嫉妬してしまったくらいに。
「それにねカルメ」
と、倒れていた牛頭がしぶとく復活してカルメに言った。
「杖の御方には司書王と似ていたところがあったとリエッキさんは仰いますが、しかし私に言わせますと……」
そこで、牛頭はおそるおそるという様子でリエッキを見る。
怒らないでくださいね殴らないでくださいねと、少しだけ怯えた目が訴えてくる。
いいから言えとリエッキが無言で促す。
すると牛頭もならばと安心して、最後まで言った。
「意地っ張りで素直じゃなくて、それに司書王を信頼していて……私に言わせますと、杖の御方は、司書王よりもよっぽど、リエッキさんのほうに似ていたのではないかと思うのですよ」
リエッキさんに似ている人が、司書王を嫌いなわけがないですよね? と牛頭は言った。
この二段論法はよほど説得力があったようだった。
「あたしもユカがすきだから、きっと、ひだりてさんともおともだちになれるね」
自分もまた未熟な論法を披露して、幼子は満面の笑顔となった。
リエッキは牛頭の言葉について考える。
自分があの呪使いに似ている。そんなこと考えたこともなかったし、それが当たっているのか外れているのか、自分では全然わからない。
ただ、そう言われても別に、不快な気はしなかった。




