■1 リエッキ
竜はいかにしてこの世に発生するのか? それには諸説がある。
まず主流とされるのが、他の生物と同様竜にも雌と雄があり、卵からの孵化、あるいは分娩による出産を経て誕生するという当然といえば当然の説。
これに比肩する第二の説が、他の生物がある条件を満たしたときに竜に変化するというもの。
竜へと転身する(と論ぜられる)生物は、一覧にすればかなり長くなる。代表的なのはもちろん蛇だが、他にも亀、蜥蜴、鶏、形の似ているところでは地虫、変わり種としては法螺貝までもが数えられる。
また竜に変わる生物のもう一つの代表には人間もまたあげられる。定命の身から脱する為、貯め込んだ財宝を独占する為……そうした動機により秘術や意思の力をもって竜へと転じた人間の伝説は、枚挙に暇がない。
では、彼女の場合は?
出産と変身、どちらにより彼女は発生したのか?
答えはそのどちらでもない。彼女は彼女自身が気づいたときには既に存在しており、確と在る自分をある日唐突に発見したのだ。
そうした在り様は、生物よりむしろ現象に近いのかもしれない。
自己を見いだした瞬間、彼女はいくつかのことを同時に覚った。
己の名前(これは長らくどうでもいいことの筆頭だった)、翼の動かし方や炎の吐き方といった己に備わっている機能の使い方。
その一帯において自分が最強の生物であるという事実、その認識。
そして、自分が孤独であるということ。
自己認識の瞬間を誕生の瞬間であると定義するならば、彼女は生まれながらにしてその山脈の覇者であった。一帯に住むすべての生物が彼女を畏れ、彼女と出会しただけで恐怖と絶望に凍り付いた。
彼女は(それまでは)水以外の食事を一切必要としなかったし、無益な殺生を楽しむ趣味もむろん持たなかった。しかしそれでも彼女と遭遇したとき、動物たちはいつもその目で訴えた。
食わないでください。殺さないでください。
彼女は宿命的に孤独だった。他者との交流は絶無で、己の内側に備わっているのは衝動を欠いた破壊の力だけだった。
それはしかし、なんという虚しさだろう。
いっそこの山のすべてを燃やし尽くしてしまえばどうだろうと、折にふれそんな思考を弄んでもみた。やろうと思えば彼女にはそれが可能だった。
だがそのことを考えるたび、動物たちの怯えた瞳が脳裏に浮かび、膨れかけた気持ちを瞬時にしぼませた。
身に宿した力とは裏腹に、彼女の本性はあまりにも優しすぎたのだ。
孤独を辛いものと感じる心はいつしか鈍麻した。それが正常な発達なのか、それとも精神の機能低下に他ならぬのか、彼女にはそれを判じることすらできなかった。
彼女は一切の暴力や殺戮と無縁のまま、実績の伴わぬ恐怖の現象として山々を彷徨し続けた。
人間に姿を見られたのはそんなときだった。
なにかが変わる。悲鳴をあげながら逃げ去る目撃者(獲物を追って山に深入りしすぎた狩人だった)を見送りながら、彼女はそんな直感を得た。
そしてそれは正しかった。
翌週、なにやら物々しい集団がやってきた。山狩りの装備に身を固めた兵士たちと、彼らにあれこれ指示を飛ばす杖の男たち。
集団は山道を封鎖し、拓けた場所に陣取って天幕を設営し、それから矛をふるって山中の探索へと打ってでた。
彼女は山上からその様子を眺めていた。
この自分を探しているのだとは、すぐにわかった。
彼女は震えた。
恐怖に、ではない。はじめて向けられる害意と悪意に、彼女の中に眠っていた一面が歓喜したのだ。
これで私は、と思う。これで私は自分を解放できる。身に宿した破壊の力を、燻った炎を、ぶつけることのできる相手についに恵まれたのだ。
暴力の衝動は膨らむ。そしてそれはしぼまない。乱暴に若木を薙ぎ倒す兵士たちの姿を遠望に眺めても、獣たちの瞳がそうさせたようにはならない。
むしろそれはさらに大きく、大きく膨らむ。
早く来い、と彼女は思う。
あるいは自分は殺されるかもしれない。殺されて、首剥製となってどこぞの館に飾られるかもしれない。しかしそれならそれで構わない。
私はただ解き放ちたいのだ。この自分を。暴力の現象としてのこの身を、存分に。
やがて夜が迫り、兵士たちがその日の探索を打ち切って撤収した、そのあとで。
彼は彼女の前にあらわれた。
山狩りの集団とは明らかに違ったが、それは確かに人間だった。
泥草にまみれた、人間の子供。
彼女は悠然と身構えて相手の出方を待った。
望んでいるのは悪意だった。願っているのはひとえに襲撃だった。
それを与えてくれるなら、もはや誰でもよくなっていた。
暴力の衝動は期待を伴って、さらに、さらに、さらに膨らむ。
……しかし、待ちわびたものはいつまで待っても与えられなかった。
残照の中、その少年はただ目を丸くして彼女を見ていた。
大きく瞠られた、その眼に恐怖はない。その瞳に敵意はない。
代わりにあるのは、なにか素晴らしいものでも眺めるような陶酔の色。
張りつめた数秒のあとで、少年は呟いた。
屈託のない、透明な憧憬を湛えた声で。
「ドラゴンだ……」
破裂寸前まで膨らんでいたものが、呆気なくしぼんだ瞬間だった。
●━━━━━━━━━━━━━━━━━━●
古い夢から目覚めれば、もちろんそこは現実の図書館だ。
百年後の図書館。友を失ってから百年後の。
しかし、もはや実時間は失われて久しかった。
主を失ってから、図書館はただひたすらに空白を刻み続けている。
この場所では、いまや昨日と今日のけじめすら定かでない。
目に涙を溜めて、彼女はうつぶしていた机から顔をあげた。
夢から醒めたときはいつも痛切な喪失感に見舞われる。
まるで、その都度繰り返し喪い続けているかのような。
乱れた髪をかきあげる。こわばった肩が震える。下唇を噛み、小さく目を伏せる。
涙がこぼれ落ちる。大粒の涙が。
かつて、彼女は孤独に悲しみを感じなかった。自己の存在を認識してから二年ほどで、それを感じる心は完全に鈍麻したのだ。二年間、たったのそれだけで。
しかしいま、百年を経てなお悲しみは鈍らない。それは依然として彼女の中にある。
彼女は自問する。
わたしの精神は正常な機能を失ったのだろうか。あの原初の孤独とこの百年の孤独は、いったいなにが違うのだ。
あの頃の私といまのこのわたしは、いったいなにが違う?
そして、自答する。
そんなのはわかりきっている。いまのわたしには思い出がある。
「……こんなのは」
声に出して呟いていた。
「……こんなのは、まるで呪いじゃないか」
図書館の静寂は彼女になにも答えない。書架に並んだ無数の背表紙は沈黙を貫く。
彼女がそれを読まぬように、書物の側もまた彼女を無視する。完全なる没交渉。
彼女は机の上に腕を組み、ふたたびそこに顔を埋めた。
彼女は眠る。孤独を遠ざけるために。
目覚めたときにはまた喪失の再現があるだろう、そのことはわかりきっていた。
だが、それでも彼女は眠りに夢を求める。夢を見るためにこそ彼女は眠り続ける。
孤独をなによりも嫌って、ほとんど恐怖するほどにそれを嫌って。
しかし孤独をもたらす思い出の数々を、彼女はけっして嫌うことができない。
彼女は眠る。
迷宮じみた図書館で、その番人――図書館のドラゴンは夢を見続ける。
●━━━━━━━━━━━━━━━━━━●
その子供は彼女を畏れなかった。彼はただじっと彼女に見惚れていた。
刻一刻と深まる夜をよそごとに、天下の美に出会ったかのような感動の表情を浮かべて。
しばらくして、少年がようやく我にかえった。
惚けていた数十秒分の遅れを取り返そうとするかのように急き込んで、彼は次のように彼女に告げたのだった。
「助けに来たんだ! 君のことを! だからつまり、僕は君の味方だよ!」
あまりにも前のめりで唐突で、そして言葉は決定的に不足していた。
「……なんだよ? あんたは?」
唖然の度合いを極めて彼女は少年に問うた。彼女がはじめて他者と疎通した記念的な一言はそのようなものだった。
さっきまであったはずの破壊の衝動は、完全にどこかに消えていた。
「だから、僕は君の味方なの、なんだってば。だって君のことでしょ? 山の主って」
少年は答えた。もはや惚けてはいないが、やはり恐怖もまた感じてはいないようだ。
それから、彼は自分が見聞きしたことのあらましと、追いつめられつつある山の主(つまり彼女のことだ)に味方しようと思い立つに至った経緯などを彼女に説明した。
ひとくさり聞き終えたあとで彼女が示した反応は、やはり呆れであり、そして意図的な失笑であった。
彼女は冷え切った視線で少年を見下ろした。
「お前が助ける? この私を?」
「そう、助けるんだ。僕が君を」
言葉に込めたはずの皮肉には気づいた様子もなく、少年は「いかにも」と肯いた。
彼女は再び鼻で笑う。嘲笑と皮肉と、本心からの苛つきを露骨なまでに乗せて。
「馬鹿馬鹿しいにもほどがある。ここらの山々で最強を誇るこの私を、あんたみたいなガキがいったいどう助けてくれるっていうんだ? ……笑わせるな。とっとと失せろ」
青き虹彩に縁取られた金色の双眸が少年を睨め付ける。
王者の眼。生物を圧倒する眼。……彼女に孤独を強いている眼。
その眼に、しかし少年は怯まない。
恐怖やそれのもたらす緊張とは無縁のまま、しかし気分だけは害したというように唇を歪めて、少年は自身もまた彼女を睨み返した。
「僕のことガキよばわりしたけど、君だってそんなに年取ってないじゃん。というか、ひょっとして君、僕より年下なんじゃない? 山の主とかいう割に全然貫禄もないしさ」
真っ向から口答えして、どうだといわんばかりの挑戦的な笑みを彼は口元に浮かべた。
少年の反応と態度のすべてが、彼女を再び唖然とさせた。相手に威圧を与えるどころか、逆に自分のほうがそれを与えられたかのように彼女は絶句する。
そんな彼女の狼狽ぶりを見て取った少年が、してやったりという顔になる。どうだ図星だろ、とでも言いたげな、勝ち誇った風の。
それ以上の衝撃を相手に与えたという自覚は、そこにはない。
「とにかくさ、困ったときはお互い様ってことで、僕にも協力させてよ。君の力になりたいんだ。それに君がどんなに大きくて強くたって、あれだけの数を相手にするのはちょっと大変だよ。あ、ところで君、名前はなんていうの?」
こいつはいったいなんなんだ?
彼女は胸中に畏れにも似た感触を抱く。あらゆる生物が畏れをなして逃げ出す自分に対し、この子供は一片の怖じ気も見せず、どころか対等に相手取って忌憚がない。
その上、竜である自分をまるで一個の人間とみなしているような、この扱いはなんなのだ?
彼女にとって少年は未知そのものだった。少年の存在を、彼女はまったく掴みかねる。
しかしそうであるにもかかわらず、警戒の念は驚くほど薄い。
彼の笑顔があまりにも頑是無くて明け透けで、だから、猜疑の心が正常に働かない。
彼女は戸惑う。生まれてはじめて、彼女は心を乱す。
――それから、自分が問われていたことにはたと気づいた。
問いかけられていた質問の内容を、胸の裡に反芻する。
そして、ほとんど反射的に、彼女の無意識がそれに答えていた。
「……リエッキ」
簡潔に、それだけを彼女は告げた。
少年と、それにきっと、自分自身に対して。
リエッキ。
自己の認識と同時に脳裏に情報として去来し、しかしこのときまでは退化した臓器のように無価値とみなされ存在の深淵に埋没していた、それこそが彼女の名前だった。
この瞬間、彼女の存在は確かに更新された。
無記名の彼女から、匿名の竜から、リエッキへと。
あるいはこの時こそ、彼女が真に世界に生まれた瞬間だったのかもしれない。
ぽかんとした数秒のあと、少年はそれが自分の問いに対する答えなのだと気づいた。
太陽の笑みが夜を照らした。
顔中に笑顔を引き伸ばして、少年もまた彼女に名乗る。
「僕はユカ。ねぇリエッキ、お腹減ってないかな? 蜂蜜のお菓子、一緒に食べない?」