■3 左利きの魔法 【物語の日、神話の午後/16】
戦いがはじまるや否や、ユカは本棚へと駆け寄った。
彼はそこから一冊を取り出し、すぐさま譚りはじめる。
「――説話を司る神の忘れられた御名においてはじめよう! これなるは遥か東の国の伝説。湖水大河を住処とし、水を支配す神威の龍蛇――水底に住まう長い蛇の物語!」
ユカが物語った瞬間、周囲に降り溜まっていた雨水が一所に集まりはじめる。結集した水は立体的な形を得て立ち上がり、たちまちのうちに語られるままの竜の造形へと変化する。
語り部の操る水の竜が、呪使いへと襲いかかる。
だがこのとき、すでに左利きも次の呪いに取りかかっていた。
「――偶数と奇数にかけて、天穹の星の無限にかけて! 我は求める天つ光を。暗雲を切り開き、大空を晴らさんと願う。寒さの大地に、暗きの人々に、天道日輪の恵みをば与え賜え!」
それは、雨乞いと対になる、晴れ乞いの呪いだった。
沛然と降りしきっていた雨がぴたりとやんだ。
同時に、空を圧して満ちていた黒い雲が凄まじい速度で払われていく。
再び現れた太陽が、祝祭の街に熱と光を投げかける。
目に痛いほどの陽光の照射を浴びて、水の竜は見る間に減衰して形を保てなくなった。
「は、はは、あはははははは! その程度か語り部! ならば、次は私からゆくぞ!」
笑いながら杖を振りかざし、左利きはさらに次の呪いへと入った。
「――十夜にかけて、夜行するかそけき星辰にかけて! 汝の影は汝を捉える。汝の影は汝を離さぬ。汝の影は汝を監視する。汝の影は汝を離れぬ。……汝の影は、汝を縛る!」
そう唱えて、左利きは手にした杖で足下を突く。
すると。
「……な……なんだこれ……?」
杖の石突きが敷石を叩いたその瞬間に、ユカの身体からは身動きの自由が失われていた。
「ふふ、知りたいなら教えてやるさ。これはなぁ語り部、暗示や催眠の術に関心を持っていたある呪使いが考案した……というよりは、妄想した術だ。無論実際には一度として効果を発揮することのなかったこの術に、その呪使いは影縫いとも影縛りとも名付けたそうだ」
左利きが悠然と解説する。
「貴様の影は縛られたのさ。貴様の影は足下の地面に縫い付けられて、だから本体の貴様も動けない。おい語り部、この日差しで、貴様の影はずいぶんと濃いぞ? だから効果は、さぞや覿面だろうなぁ」
左利きは笑った。は、はは、あははははと、大口を開けて笑った。
呪いの由来と効果についてはわかった。
しかし、ユカにはわからないことが一つだけあった。
雨乞い、晴れ乞い、そして影縛り。
左利きは、ここまでに三つの呪いを……三つの魔法を使っている。
にも関わらず。
「……どういうことだ。あいつ、さっきから魔法を一度も持ち替えてないぞ……!」
魔法はそれぞれの魔法使いを象徴する品物の形を取って生み出される。
そして、一つの品物には一つの魔法だけが宿り、魔法使いは使用する魔法に対応した品物を手にしていなければその魔法を使うことができない。
この原則はすべての魔法使いに共通する決まり事である。骨の魔法使いは動物の頭骨、踊り子は踊りの型を記した羊皮紙、色の魔法使いは顔料……そしてユカは物語の本。
誰もが例外なく、目的とする魔法を使う時には魔法の品物を持ち替えなければ使うことができない。
しかし、左利きは一度として魔法の品物を持ち替えてはいない。その状態で彼はすでに三つもの魔法を行使している。
ユカと左利きは、価値観や考え方などでは似通ったところもある反面、あらゆる部分で正反対な若者でもあった。
たとえば「雪が溶けたらどうなるか?」と問われた場合、左利きならば当然のように「水になる」と答えるだろう。これに対し、ユカならばきっと「春になる」と答える。あくまでも現実的な左利きに対して、寓意や物語を通して世界と交感するユカ。
性格も、魔法使いと呪使いという立場も、ついでにいえば利き手も違う。
そうした二人の対置は、彼らの魔法の在り方にも現れている。
未完成の状態で生み出され成長し、その数は膨大であるユカの魔法。
対して左利きの魔法はたった一つだけで、これは生まれた瞬間にすでに完成されていた。
それが卑しい詐術であると知りながら、またはくだらない妄想や願望の産物でしかないと知りながら、それでも左利きは記録されている呪いの数々を貪欲に学んでいた。そこに秘められた歴史や思想の背景を読み取ることを目的として。
あるいは、百の虚構と迷信の中に、ひとかけらの真理が含まれていることを期待して。
左利きの魔法とはすなわち、そうした呪いの数々にうたい文句通りの権能を与える魔法であった。
長い歴史の中で呪使いたちが生み出してきた、中身の伴わない呪いの数々。それらインチキでデタラメな呪いのすべてに、考案した呪使い自身が『こうであったならば』と夢想した通りの神秘の力を与える能力。
それこそが左利きの魔法の正体だった。
効果の異なるいくつもの魔法を使っているように見えて、彼は最初から一つの魔法しか使っていなかったのだ。
これが魔法の品――彼の場合のそれは、言うまでもなく杖だった――を持ち替えずに複数の神秘を行使できた真相であった。
「ぐ、ぐぬぬ……! ……あ、そうだ!」
影縛りの呪いによって束縛されたユカは、どうにか片腕だけを動かして本棚へと伸ばす。ままならない指先でそこに並ぶ背表紙を辿り、目的の一冊にかろうじて触れさせる。
そして、譚る。
「――せ、説話を司る神の忘れられた御名において! これなるは影絵の国のおとぎ話。どこに行くにもついてくる、親愛なる足下の友達。さぁ、たまには君に休日をあげよう!」
このときユカが譚ったのは、彼の通算五十七番目の魔法である『闇黒坊やの里帰りの物語』だった。
心優しい少年が自由のない影を哀れに思い、影絵の国へ里帰りする自分の影に休暇を与えてあげる……。
そんなあらすじを持つこの魔法の効果はといえば、影を自分から切り離して操作するというものだった。
「……よしっ! これでやっと動けるぞ!」
自分から影を切り離すというよりは縛られた影から自分を切り離して、ようやく自由を取り戻したユカが転び出すようにして数歩前へと進む。
ユカはその場で振り返り、自分の影に「そこで少し待っててね」と手を振った。
その瞬間、彼がそれまで縛られ立っていた場所に、稲妻が一閃、落ちる。
無残に割れた敷石が、逃れ出すのが少しでも遅れていた場合の未来を暗示していた。
「ふ、ふふ、そうでなくてはだ。そうでなくては面白くない!」
文字通り晴天の霹靂でユカを攻撃した左利きが、満足そうに笑った。
「あは! 楽しいなぁ、語り部。楽しい、楽しいよ!」
楽しい。楽しいよ。彼は繰り返しそう言った。
まるで、自分に言い聞かせるように。




