◆11 身体すべてを口にして、存在すべてを声にして 【物語の日、神話の午後/2】
最初にあったのは台詞ですらない単語の羅列でした。一言、二言と、ユカは確かめるように言葉を読み上げます。さながら、楽師たちが演奏の前に商売道具の楽器を調律するように。
それから、言葉は少しずつ文節を得て文章としての体裁を整えはじめます。とはいえそれは、文字に起こせばなんらの変哲もない、修辞という修辞と無縁の空疎なはずの文章でした。
ですが、ユカの口から流れ出る散文は、およそあらゆる韻文を欺いて恥じ入らせるほどの詩情に満ちています。
独白は音楽的な情調に溢れて、それだけでひとつの旋律であるかのよう。
その段階において、早くもまず第一の信奉者が生まれました。本棚に飛び乗る前のユカと最後に言葉を交わした、あの物語師と歌手と楽師の三人組です。
自らもまた表現と伝達を生業とする芸人たちは、そうであるだけに敏感に感じ取ったのです。本棚の上のユカが纏う名状しがたい霊気のようなものを。言葉のひとつひとつに含まれる、凄まじいまでの言霊の気配を。
自分たちとは格どころか次元からして違う――絶望的なまでの憧憬が彼らを打擲します。
芸人たちは薄ら笑いを引きつった真顔へと変えて、我先を争うように起立して背筋を伸ばしました。語り部を見つめる瞳に、畏敬の念をありありと灯して。
そんな彼らに、ユカは本棚の上から視線を送ります。面紗で覆われた口元の分まで、目元で微笑んでみせます。
それから、ようやく譚りはじめます。
「――物語はどこからやってくるのでしょう。物語は、どこから生まれ出でるのでしょう」
譚り出しは唐突で、そしてそれはあくまでも静かなものでした。
目の前を行き交う群衆に向けてユカはゆっくりと言葉を紡ぎ出します。大きく声を張るのではなく、そっと、囁くような口調で。
先んじて描写した通り、広場の活況は静けさを友とする芸人たちが(いましもユカに狂信的な視線を注いでいる彼らが)揃ってお手上げとなってしまうほどの騒々しき有り様、大声を出さねば会話もままならぬほどの喧噪の極みです。そこに囁き声で語りかけたところで、そんなのは増水した河川に小石を投げ入れるも同様。物語る言葉は誰に気づかれることもないまま雑音の濁流に呑まれて消えてしまうと、そうなるのが当たり前の帰結というものでしょう。
しかし、我らが語り部の声は、あらゆる騒音を押しのけて聴衆の耳へと届きます。騒々しさの一切を貫いて、切り開いて、言葉は人々の耳朶にしみこみます。
「物語は天より降り下るのでしょうか? 物語は地より這い出して来るのでしょうか? それとも他のすべてと同じ様に、物語もまた神々が生み出し給うものなのでしょうか?
……いいえ、そうではありません。すべての空とすべての大地の狭間にあって、物語を生み出しそれを語るのは我々人間の役割です。神話の太古に、物語は神から人へと手渡されたのです」
喧噪を物ともしない囁き声。しかしその異常さに気づくよりも先に、聴衆は声の主を探します。不思議を不思議と感じることすら忘れて、語り部の姿を求めて広場に視線を走らせます。
そして、本棚に腰掛けて譚る物語師の姿を認めた者から、無意識に姿勢を正してゆきます。
「物語の神は永久に我々の前から姿を隠してしまいました。物語の神は、いまやその名前すら神話の弥終へと忘れ去られてしまいました。
ですから我々は、ただ我々の能力と責任において物語と向き合い、胸を張ってそれと付き合ってゆかなければなりません」
語り部が言葉を紡ぐほどに、広場には静寂が広がっていきます。あたかもユカ自身が喧噪を吸い込み、代わりに静寂を言葉として吐き出しているかのように。
見物客たちは芸を見るのをやめて、芸人たちもまた芸をするのをやめて、導かれるように語り部に視線を集中させます。
物語に打たれて、呑まれて――取り憑かれて。
やがて、活況の中心地点であったはずの広場からは喧噪という喧噪が払われて、一転してそこは、華やかな祝祭における活況の空白地帯と変じて静まりかえります。
「さあ、語りましょう。幼い子らには寓意に満ちた御伽噺を、未来を担う若者たちには編年の史話を。遠い偉人の大いなる功績と、近しい隣人のささやかな武勇を。恋人たちの愛と、家族の深い絆を。
寓話を、滑稽話を、感動の逸話を、皆様一人一人が語り手となって、語りましょう。
大丈夫。人が人として生きる限り、物語はいつでも我々と共にあるのですから。
……ただし、我々はこれもまた肝に銘じておかなければならないでしょう。
物語が人の手になるものである以上、それが人の口より語られるものである以上、物語もまた悪徳と無縁ではいられないのだと。
長い歴史の中で、物語は時に恣意を得て歪められ、時に意図的な過誤にまみれて、そうして悪意と偏見を世にばらまく媒介として利用されて参りました。
善意の物語が暗く曇った誰かの心を晴れやかに――今日のこの空のような素晴らしい晴天に変えてきた一方で、悪意の物語は別の誰かの心を止まない雨の空へと変え、誰かの人生を明けない夜の中へと突き落としてきた……
我々は、その悲しい事実を見過ごしてはいけません」
そこまで譚ると、ユカはおもむろに瞳を閉じました。面紗で隠された面の中で唯一露出している目元が閉ざされて、物語も同時に閉ざされます。
語り部が沈黙しても広場に喧噪が戻ることはありませんでした。聴衆たちは固唾をのんで、ただ物語の再開を待っています。
短い沈黙のあとで、語り部は瞑目したまま再び口を開きます。
「いま、私は譚ろうと思います。これまで歪めて伝えられていた物語を、本来あるべき姿へと解放してやりたいと思うのです。
この身を物語の憑り代と差し出して、全身全霊を賭して。
……ああ、皆様。心ある聴き手の皆様。どうかこの無力な語り部にお力をお貸しください。聴く耳の熱意と誠心を束ねて、この譚る口に勇気をお与えください。
そうしていただけたならばきっと、私は止まない雨に虹をかけることができましょう。明けない夜に朝をもたらすことができましょう。
さぁ、それでは――」
閉ざされていた瞳が開かれます。
同時に、すべての聴衆が見守る中で、物語は放たれます。
「――説話を司る神の忘れられた御名において、はじめましょう」
「……はじまったか」
にわかに騒然としはじめた街路に足を止めて、左利きはそう呟きます。
立ち止まった彼の傍をまたも複数の呪使いたちが駆け抜けて行きました。そして、それとは別の数人がどこか近くで囁き交わす声も聞こえました。
とうとう現れたらしいぞ……そうだ、あっちの広場に……物語師、語り部、本当に……
緊張を目一杯まで孕んだ会話の断片は、そのようなものでした。
自分が震えていることに、少し遅れてから左利きは気づきます。自分の内側に戦慄があることを彼は驚きをもって受け止めます。ですがそれがいかなる感情に起因するものなのか判ずることは出来ませんでした。
震える手を我が胸に押し当てて、左利きは自問します。ここにあるのは不安か、怯懦か……それとも、歓喜か?
自答する代わりに、左利きはもう一度呟きます。
――はじまった、はじまったのだ。
「なあにを言ってんですかい」
そのとき、傍らに控えていた相棒が、呆れたような口調で独語に嘴を挟みました。
「旦那はいつでもシャッキリしてると思ってたが、案外寝ぼけたこというもんなんだなあ」
この暴言に左利きは唖然とし、それから取り繕うように憮然とした表情になります。
そんな左利きに対して、相棒は悪びれる様子もなくこう続けたのでした。
「まだなんにもはじまっちゃいねぇすよ。だって、俺たち抜きじゃはじまらないでしょう?」
いつも通りのざっかけない笑顔を浮かべると、「まぁ俺はともかく、旦那だけは絶対不可欠だろ?」と彼は付け加えました。
そして、あらゆる憂慮を払拭するように笑顔を深くします。
左利きは毒気を抜かれて押し黙ります。口にしかけた反論を見失って、相棒を凝視します。
震えは完全に止まっていました。
「……そうだな。確かに、『私たち』がいなければはじまるものもはじまらんな」
相棒の大雑把な笑顔に、左利きは彼にとっては大笑にも等しい微笑で応じます。
それから、さっきまで震えていた手を顔の前へと持ってきて、力を込めた拳へと握り固めます。
「では、はじめにいくとしよう。……悪いが、まだまだ付き合ってもらうからな」
一方的にそう告げると、左利きは踵を返して歩きはじめます。
これに対し、相棒は二人の関係が真にはじまった夜と同じように、「望むところってやつだぜ!」と応じたのでした。
譚りに先駆けてユカが行使した魔法は、その題号を『谺の谷の遙けき声の物語』と申しました。
彼の一〇四番目の魔法であるこれは、谷間を駆け抜ける山彦のように声を大きくしまた遠くまで届くようにする、つまりは拡声の作用をもたらす魔法なのでした(山彦という現象の原理を思えばなんとも誤謬に満ちている気もしますが、なにしろユカの魔法は物語なのです。そこでは印象は論理に勝り、寓意性はあくまでも現実性を支配しそれに優先するのです)。
囁きは囁きのまま、ただ音の大きさだけを引き上げられて広場の隅々まで行き届きます。誰の耳にも聞こえる音量となりながら、しかしそこにある静けさは少しも損なわれずに。
喧噪の問題というひとつの壁は、そのように魔法の力によってたやすく打ち破られました。
だからここからしばらくは、魔法使いではなく語り部としてのユカの本領発揮です。
「――その赤子は、生後まもなくして遺棄された捨て子でございました。臍の緒を絶っても決して絶たれぬはずである親子の絆を絶たれて捨て去られた、死を望まれた嬰児です。
冷たい月の下で、その泣き声はあまりにもか細く、その運命はあまりにも先行きが暗く……いいえ、そもそも先行きなど皆目存在せぬものと見るのが妥当でございましょう。なにしろそのまま放置されていたならば、赤子の命運は夜明けを待たずして尽きていたはずなのですから。
……しかし皆様、そうはならなかったのです。赤子は見いだされて、運ばれたのです。森の主の元へと――そう、皆様の大半が邪悪と信じておられるであろう、骨の魔法使いの元へと」
今日という大切な日にユカが選んだのは、他ならぬ彼自身の生い立ちに関する物語です。
意外と思われるかもしれませんが、ユカが己を物語の題材とするのはこの日がはじめてでした。それまで数えきれぬほどの夜を母である骨の魔法使いの物語で涙に沈めてきたユカでしたが、しかし赤子であった己が養い子として拾われるくだりはそこに含めていなかったのです。
「――そのようにして赤子は骨の魔法使いの養い子となりました。
人外境の魔の森で、その男の子はあらゆる不幸と無縁に育てられます。森の獣たちは挙って彼の子守役となりたがり、赤子がよちよち歩きの幼児と育ってからは、競うようにその遊び相手を志願します。みんながみんな彼を可愛がってくれて、そこには孤児という言葉につきまとうはずの孤独はまるっきり見あたりません。
そしてなにより、母である魔女が注いでくれる、溢れんばかりの愛情……」
それまで語ることのなかった、とっておきの物語をユカは語ります。
身体すべてを口にして、存在すべてを声にして、彼は譚ります。
このとき、はたして広場には幾人の聴衆がいたのでしょうか?
百人、それとも二百人?
残念ながら、その数字は定かではありません。
しかし、ただ一つだけ定かなことはあります。
断言致しましょう。もしもそこに百人がいたならば二百の瞳が、二百人がいたならば四百の瞳が、物語る語り部に釘付けとなっていたのだと。
そのとき広場に居合わせた者たちは、老若を問わず、男であるか女であるかを問わず、一人残らず物語の虜となっていたのだと。
凄まじかったのです、それほどまでに――この日のユカは。




