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図書館ドラゴンは火を吹かない  作者: 東雲佑
■ 五章.物語の日、神話の午後
71/141

◆8 献身的な沈黙

 おそらく、母の言葉に他意などはなかったのでしょう。それはただ純粋に子離れの痛みと喜びに感じ入って口にされたものであったはずです。

 ですがその内側で、いみじくもなにかが言い当てられています。偶然か、さもなくば目に見えぬ必然の賜物か、あたかも予言のように指摘されたなにかがそこにはあります。


 もちろん、ユカにとってリエッキは誰に言われるまでもなく一等一番に大切な存在です。

 彼にとって、彼女は人生を百度繰り返しても二度とは望めぬ最高の友達です。失うことなど仮定の上にも考えられない、影よりもなお身近な片割れです。

 リエッキがいなければ、たとえ百人の味方に囲まれていたってユカはひとりぼっちです。

 けれど――。

 けれどその大切なひとに、近頃のユカはきちんと言葉を尽くして接していたでしょうか?

 なにか別のことに夢中になって、彼女を蔑ろにしてしまってはいなかったでしょうか?


 ――ああ、読者よ。答えは言わずもがなです。


 冴えないユカ、不甲斐ないユカ、情けないユカ……我々の主人公は、まったくなんという愚かな男なのでしょう。

 誰もが羨むような友情に浴していながら、誰にも誇りたくなるような親友がいてくれていながら、彼はそのありがたい親友に……リエッキに目を向けることをすっかり忘れてしまっていたのです。宿敵と交わした誓いにかまけて、目の前の決闘に気をとられすぎて、彼女が(うち)に抱えた寂しさや不安に全然気付いてはいなかったのです。

 男の世界、真剣勝負の世界……そう申さば確かに聞こえは良いでしょう。

 ですが、それがなんの言い訳になるというのか。決してゆるがせにしてはならないひとを忽せにして、それが許される程の言い訳なんてどうやったって立つわけはありません。


 いったい、どうしてユカはリエッキのことを見失ってしまったのでしょうか?

 どんな時だって一緒にいたというのに、どうして彼は彼女が見えなくなっていたのでしょう?


 ――ああ、それは、他ならぬリエッキ自身がそうなるよう望んでいたからなのです。


 彼女の心情を代弁して解説すれば、およそ次のようなものでした。

 左利きという呪使いがユカにとって特別な存在であることを、リエッキは誰よりも深く――それこそ、ある部分では当人であるユカよりも深く理解していました。

 リエッキがユカと出会ってから五年、ユカが彼女以外の誰かに対してこれほどの関心と拘りを示したことは、いまだかつて一度もなかったことです。

 自分が親友の半身であることを言葉すら置き去りにした領域で自負していた彼女にとって、宿敵との関係に没頭するユカを見ているのは、さながら(つるぎ)に見放された鞘の心境――いいえ、いつまでも帰らぬ本を待つ本棚の心境でございました。


 ですが、その寂しさ、その心の痛みの分だけ、リエッキは理解して弁えていたのです。


 ユカと左利き、二人の世界には、彼ら以外の誰かが踏み入る余地など少しもないのだと。そして、何者も決して踏み入ってはならぬのだと。

 ……ユカの半身である、この自分も含めて。


 ユカにとって特別であるものを、リエッキは当のユカ以上に大切にします。

 己の感情を押し殺してまで尊重して、守ろうとして、そして……葛藤の末に彼女が選んだのは沈黙でした。


 どこまでも柔和で呆れるほどに朗らかな親友がはじめて見せた男性的な気質、敵と認めた男との勝負に熱中する姿を最も近い場所で見守りながら、彼女はユカがそれひとつに集中出来るよう、寂しいという自分の本音をひた隠しに隠します。

 心中を察せられれば必ずやユカの心を乱すことになると知って、強がっていることすら気取られぬよう自然に振る舞います。

 左利きとの対決に向けてユカは十重二十重(とえはたえ)に算段を廻らせていましたが、彼はその内容をリエッキに打ち明けて説明することも忘れておりました。

 夜毎の滑稽譚は敵愾心を剥き出しにした呪使いたちを約束の日へと誘い続けて、それが為に、リエッキの不安もまた夜毎に深まり続けます。

 行動の目的についてユカ本人から一言でも説かれていたなら、きっとその不安はたちどころに解消されたはずです。にも関わらず、リエッキは親友に説明を求めることもしませんでした。

 宿敵との対決を己一人のものとしたいと、ユカが心のどこかでそう願っているのを彼女は見抜いていて、だから、少しでもそれに水を差すことはすまいとして。


 本当はユカに頼って欲しかったのに、本当はユカと一緒に立ち向かいたかったのに……けれど、あまりにも強い想いが、あまりにも深い友情が、彼女に己というものを封じさせたのです。


 ――読者よ、忘れてはなりません。


 いくら人の姿をとっていても、彼女の本性はドラゴンなのです。

 この世で最も誇り高い生き物、本当に大切なものを守る為ならば己のすべてを犠牲にできる、古今無双の守護者です。

 覚えておいででしょうか。

 あの夏、いまや五年の昔となったあの夏にも、リエッキは旅立つユカの負担になるまいとして涙を押し殺そうとしました。

 ユカとの友情を守り抜くために。


 つまり彼女という存在の本質は、あの夏の日から何一つ変わってはいないのです。


 読者よ、我々はそれを忘れてはなりません。

 そしてユカも、決して忘れてはいけなかったのです。




   ※




 とかくするうちにも日々は過ぎて、いよいよお祭りの開催は目前に迫ってまいります。


 その夜、ユカがかたりの場を求めて繰り出したのは、他ならぬ祭りの街の大衆酒場でございました。表通りに面した酒場はお祭りのもたらす利益を見込んでいち早く街に乗り込んだ商人衆や芸人衆で満員御礼、ここだけ一足早く祭りがはじまっているかのような有り様。

 そんな活況に向かってユカが放った物語は今宵もまた滑稽譚……ではありませんでした。


 説話を司る神の忘れられた御名において、この夜にユカが譚ったのは滑稽譚ではなく感動譚、春から譚り続けていた呪使いの物語ではなく、久方ぶりの魔法使いの物語です。

 それも、彼が一番に得意とする骨の魔法使いの物語ではなく――。


「――我々の主人公は、あまりにも不器用な男です。少女がそう評した通り、筋金入りに鈍感な男です。色という真理を通さぬ限りは目に見えているものの形すら掴めないような、情けない男です。ですがこの日、彼は右目を閉じずとも一つの回答を得ることに成功したのです」


 この夜にユカが譚ったのは、とある膚絵はだえ師の青年と踊り子の少女の恋物語。世の偏見に翻弄されながらも純愛を育み貫いた、彼の不器用な兄と一途な姉の愛情譚なのでした。


「――あらゆる恋愛が成就を目的とするものであるならば、彼の恋愛はこのとき既に終わっていたと言えるでしょう。恋愛は終わって、しかし愛情は不滅のものとなっていたのです」


 客席に声はありません。滑稽譚が場の雰囲気を明るく解放するのとは対称的に、ユカの本領たる感動譚は涙の沈黙に空間を閉ざしています。

 物音といえば衣擦れの音ひとつ立てることすらはばかりながら、聴衆たちはただすすり泣きの嗚咽だけを静まりかえった店内に零しています。


「――説話を司る神の忘れられた御名において、わたくしの譚りはこれにて本当におしまいです。最後に、踊り子の少女、長じては空前にして絶後の舞姫となった彼女が口癖のように愛用していた言葉を引用し、これをもって結びの挨拶と代えさせて頂きましょう」


 そして、静寂の結界と化した酒場に幕引きの言葉は投じられます。


「――愛の力とは、実に偉大なものなのです」


 長い物語は終わり、ユカは立ち上がって聴衆にお辞儀をしました。けれど聴衆は未だ物語の虜となったまま、物語が終わったことにすら気付かず泣いています。

 そんな静かな涙の中を、語り部は涼しい顔をして自分の席へと歩きはじめます。


 スカートの裾を引きずらぬよう気をつけて、しずしずと奥ゆかしい足取りで。


 円卓に戻ったユカを出迎えてくれたのは、リエッキ一人ではありませんでした。

 スカートのお尻を押さえながら腰掛けるユカに呆れた視線を送るリエッキの隣では、一人の臈長けた美女が心底おかしそうな笑顔を浮かべています。そしてそのまた隣では、ユカやリエッキよりも五つか六つは年上と見える男が、なんだか面食らった顔をしてまじまじとユカを見ています。


「……驚いたな。俺たちの弟は、しばらく会わないうちに妹になってしまったのか?」


 冗談とも本気ともつかぬ物言いをした男にしとやかな笑みで応じたユカは、まったく完璧な女の姿をしておりました。

 まず頭には落ち着いた色合いの髪覆かみおおいをつけ、目元だけを出して口元は薄絹の面紗ベールで隠し、さらに身に纏っているのは膝下までのスカートをはじめとした女物の衣服。

 もともとが中性的な顔立ちであり、またこれは語り部修行の五年のうちに身に付いた演技力か、面紗を捲って口元に杯を運ぶ仕草ひとつとってもどこか艶めかしく……なんとまぁ、そこにいるのは、どこからどう見たって神秘的な媚態しなを纏う女物語師に他なりません。


「予告した日までに呪使いたちに見つかっちゃうと面倒だからね。念のための変装だよ」


 そう説明して、似合うかしら? とユカは片眼を瞑って言いました。

 発せられたのは涼やかさと愛嬌に満ちた早乙女の声。聴衆の賛辞をほしいままにする声色は、これもまた完璧です。


「ほんと、君は会うたびに楽しませてくれるなぁ」


 リエッキの隣に座っている美女がくつくつと笑います。


「今夜の物語も最高だったしね。この人がどんな顔してここに座ってたか、君にも見せたかったわよ。さぞかしバツが悪かったんでしょうね、俯いて背中丸めちゃってさ」


 ねぇリエッキちゃん? そう同意を求める女に、リエッキは満更でもなさそうにはんと鼻を鳴らし応じました。ユカを弟と呼んだ男は気まずそうに視線を宙にさまよわせます。

 猫が鼠をいたぶるように男の反応を楽しんだあとで、それに、と彼女は続けました。


「それに君、これからもっと面白いことをしでかそうって気なんでしょう? だから君はあたしたちを呼んだ……ねぇユカ君、君ってば、噂をつかってあたしたちを呼んだんでしょ?」

「……まいったなぁ、やっぱり姉さんに隠し事はできそうにないや」


 流石は世界で三本指に入る女性の一人だ、とユカは苦笑して言いました。


 いましもユカたちと一緒に円卓を囲んでいるのは、今宵譚られた物語の主人公たち。かつてユカとリエッキと行動を共にした二人の姉たる存在……いまや『瞳の祝福』の名で各地に名声を轟かせるあの踊り子と、彼女の専属の膚絵師でありまた夫でもある色の魔法使いです。


 いかにも、二人が今ここにいることこそ、ユカが物語に仕込んだ最後の狙いなのでした。


 ユカが物語で呼び寄せようとしていたのは呪使いたちだけではなかったのです。

 夜毎大々的に譚り、大々的に宣伝と挑発を繰り返し……そうして噂が噂を呼べば、きっとどこかでこの姉とこの兄もそれを耳にするはず。噂の主が自分であることを、二人は考えるまでもなく察しとるだろう。

 そして、察したからには必ずや祭りに足を運ぶはず――彼はそう考えたのです。

 確実とはいえぬ賭けではありましたが、ユカはその賭けに勝ったのでした。

 所在の掴めぬ旅の空の二人に噂という形の手紙は届いて、だから今、円卓には四人分の酒杯が並んでいます。


「今夜こうしてここにいるっていうことは、もう知ってると思うんだけれど――」


 同席する三人の顔を順次に見渡して、ユカは話しはじめました。


「明後日からはじまるお祭りの最終日に、僕は呪使いたちを相手にちょっとした騒動を起こすことになる。……いや、たぶん全然『ちょっとした』じゃすまないだろうな。なにせあいつ、こっちの期待以上に頑張ってくれたみたいだから」


 この場にいない宿敵の顔を思い浮かべて、ユカは我知らずにやけます。

 それから、彼はさっきよりも真面目な表情となって続けました。


「僕の見込みが正しければ、その日、僕らがずっと続けてきたことは――つまり、魔法使いへの偏見を払拭する為に重ねてきた活動は、ひとつの結実を迎えるはずだ。だから、兄さんと姉さんにはどうしても見届けて欲しかったんだ。

 僕たちの歴史の行き着く先を」

「俺たちの歴史……か」


 色の魔法使いが、あらゆる感慨を込めて言葉を噛み締めます。

 十三歳で故郷を逐われ、以来限りない罵声と暴力の荒野を流離い続けてきた青年は、漂泊の歳月そのものを眺めるような遠い目となります。

 この場に集った者たちが共有する歴史、いうなれば彼はその開祖なのです。


 誰もなにも言えぬまましばし空白の時が流れました。

 その後で、色の魔法使いはすべての暗い過去を吹っ切るような穏やかな笑みを一同に示して、言いました。


「流石は蜜の舌を持つ物語師、だな。胸に響く表現は天下一品だ」

「そうだな。これで格好がそんなじゃなかったら少しは様になってたかもしれないのにな」


 リエッキの指摘に、全員がユカの方を向きます。

 三人分の視線を一身に浴びて、ユカはようやく自分の女装姿を思い出したようでした。透き通る面紗の向こうで頬を赤く染めて少しだけ縮こまった――そんな様子までもがなんだか乙女のようで一同の失笑を招きます。

 四人の円卓から深刻さは既に去って、そこには朗らかな雰囲気が戻っておりました。


「でもそんな大役をユカちゃん――あら、ごめんなさい――そんな大役を、ユカ君一人に任せきってしまっていいものかしら? ほら、呪使いたちは君をどうにかしてやろうって随分躍起になってるみたいだし……ねぇ、もしよかったら、あたしたちも手伝って一緒に――」

「――その必要はないね」


 踊り子の申し出を遮ってそう断言したのは、ユカではありませんでした。


「手助けの必要はないよ」


 杯を満たす蜂蜜酒で口を湿らせて、彼女は――リエッキはもう一度言いました。


「どんなに人数がたくさんだって、相手はたかが呪使いなんだ。あの連中を手玉にとることにかけてならユカは右に出る者のない名人なんだ。それに、なんだかんだでこいつは今日までしっかりと準備をしてきてる。下手に手助けしようとしたって、かえって邪魔になるだけさ」

「……リエッキちゃんは、全然心配じゃないの?」

「全然心配じゃない」


 一秒の半分もかけずにリエッキは即答して、それから、強気な笑顔で続けました。


「いくら心配したって取り越し苦労になるのがオチさ。心配して気を揉むより、いっそ気楽に構えて聴衆の一人にまわっちまったほうが楽なんだ、ユカの場合はさ」


 こいつを一番近くで見てきたわたしが言うんだから、信じてくれていいよ――そう言い切って、彼女は残っていた蜂蜜酒を一息に飲み干してしまいました。

 踊り子と色の魔法使いはお互いに顔を見合わせたあとで、「そりゃそうに違いない」と声をあわせて言いました。


「なんにせよ、俺も彼女も大した手伝いなんて出来ないしな」


 と色の魔法使い。


「俺は癒すだけしか能のない魔法使いだ。荒事には向いてない。それに彼女も、向こうしばらくはダメだ」

「? 姉さん、どこか悪くしてるの?」

「悪いというわけではないが、激しい運動には障りがある。魔法だろうとなんだろうと、俺の目の黒いうちは絶対に踊らせたりはせんよ。……十月十日とつきとおかまでは、な」

「……! それって……!」


 なにかを察し取ったユカの反応に色の魔法使いが満ち足りた表情で肯き返し、踊り子はいかにも幸せそうにまだ変化の見られぬ下腹部をさすります。


 さあ、かくして再会の酒席は祝いの宴席へと早変わりです。


 まずはひとしきりおめでとうとありがとうの応酬があり、そのあとは再度の乾杯で仕切り直しです。

 もちろんリエッキには蜂蜜酒のおかわりが注文され、これに便乗しようとした踊り子を色の魔法使いが窘めます。もう君一人の身体じゃないんだからという夫に、これが呑み納めだからと妻はすがりつきます。

 心配も憂慮も、もはやその影すらそこにはありません。四人は改めて再会を喜び合い、お互いに近況を報告しあってはそのつつが無さにいちいち笑顔を咲かせました。

 ユカは是非母に会っていって欲しいと兄たちを森に誘い、踊り子はお祭り見物の約束をリエッキに取り付けます。


 目前に迫った運命の日のことを、もはや誰も口にはしませんでした。

 踊り子も色の魔法使いも、既に一切の懸念を捨て去っています。

 ユカを一番近くで見てきたわたしが言うんだから――そう自分で言い切ったリエッキの言葉を信じて、彼女が言うならば間違いないとそう納得して。


 リエッキの、身を切るような決心も知らずに。




 なんにせよ、役者も見届け人も揃ったのです。

 お祭りの開催は明後日。

 運命の日まで、もはや十日と残ってはいないのでした。

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