■16 帰郷
最後の寒波が過ぎると、季節の勢力は少しずつ冬から春へと傾きはじめた。
まだまだ肌寒くはあったが、この日は雪解けの水の音があちこちから聞こえていた。
残雪の照り返しが眩しくてリエッキは目を細める。
どこか遠くで、雉かなにかが高く鳴いた。
街道上の雪はあらかた消えていた。
その道を、ユカは弾むような足取りで先に立って進んでいた。
掛け声とともにぬかるみを飛び越える様に、彼の浮き立った心の裡が透けて見える。
無理からぬことだった。
目指す骨の魔法使いの森は、もう目と鼻なのだから。
数ヶ月に及んだ帰郷の旅路は、あと数時間のうちに終わりを迎えるのだ。
色々な、本当に色々なことのあった数ヶ月だった。リエッキはそう回想する。
緊張に満ちて、波乱に満ちて、めまぐるしい変化のうちに過ぎ去った旅路の日々。状況は常に変わり続け、少しずつではあるが敵との――敵であるはずの男たちとの関係までもが変容しつづけた。
そしてそれが過ぎ去ったいま、多くの因縁と予感が今後に向けて残されている。
これからなにがどうなるのか、彼女にはまったく見当もつかない。
けれど、考えるまでもなくわかりきっていることもあった。
多くのことが、ほかのすべてが変化しても、けして変わらないものも。
リエッキは思う。わたしとユカの関係は、これからもなにひとつ変わらない。
わたしにはユカがいて、ユカにはわたしがいる。いつまでも、ずっと。
前を行く親友を彼女は見つめる。
気分が急いて仕方ないのだろう、目指す場所が近づくにつれてユカの歩調は早くなっている。後ろを気にするのを忘れてどんどん進み、そうしてリエッキと距離が出来ているのに気付いては照れた笑いを浮かべて戻ってくる。さっきからずっとそんなことを繰り返しているのだ。
やっぱり、まるっきりガキのまんまだ。さもなきゃ犬か。
道の先でユカがこちらに振り向いた。
一度だけ大きく手を振って彼は戻ってこようとする。
しかしその機先を制して、このときはリエッキのほうが彼に向って駆け出した。
ほとんど五年ぶりになる母子の再会、その場面に早く立ち会ってみたいという気持ちは彼女の中にもあったのだ。
ユカが顔中を笑顔にするのが、離れた場所からでもはっきりとわかった。
嬉しそうに笑う彼を目指して雪解けの泥を蹴りながら、リエッキは考えるともなく考えた。
あいつの母親ってのは、いったいどういう人間なのだろう。
※
外から見た限りでは、それはなんの変哲もないただの森だった。
確かに広大と表しうる規模ではあったが、しかし半日もあればそのぐるりを一周するのは充分に可能と見えた。生い茂る樹木もごくごくありきたりのもので、血を滴らせる魔界の妖樹などはどこにも見あたらない。
「……これが、骨の魔法使いの森?」
感慨よりは懐疑を前面に出した呟きがリエッキの口から漏れる。
そんな彼女の反応を楽しむように、ユカがくつくつと笑った。
「厳密には、この森ではなくて、この森の中にあるっていう言い方が正しいのかな」
「……? さっぱりわからないぞ。森の中に森があるってのか?」
なおも疑問を募らせるリエッキに、ユカが笑いを強める。まぁ百聞は一見に如かずだよ、それだけ言うと彼はさっさと緑の内側に分け入ってしまった。
釈然としない思いにとらわれながらリエッキもそれに続いた。
背中の本棚がさっそく枝に引っかかった。彼女は忌々しそうに舌打ちをしてそれを外す。そのあいだにも親友は先に行ってしまっていた。
ちきしょう、いったい誰の本を背負ってると思ってやがるんだあいつは。リエッキは心の中でそう毒づいた。
しかし胸を満たす不満と疑問は、森を進むうちに驚嘆へと置き換わることとなった。
雪とその下に眠る腐葉土を踏みしめながら道なき道をしばし行くと、やがて、ほとんど唐突に拓けた場所に出た。
木々の合間を貫くように、森の中の小径とでも呼ぶべきものが左右に伸びていた。
踏みならされた地面はそこに日常的な往来があることを物語っている。
ただし、車の轍や人の靴跡はない。
残された大小様々な足跡は、どれも獣のものだった。
「ああよかった。どうやら僕はよい子のままらしいや。それに君も。あのね、良くない心の持ち主は、たとえ正しい道を辿っても絶対にこの場所にはたどりつけないんだ」
ユカはそう説明し、それから、まるで宮廷に出入りする貴族がやるような恭しい仕草でリエッキに一礼してみせた。
「ようこそ、我が故郷、骨の魔法使いの森に」
芝居がかった物言いでそう告げたあとで、まぁここはまだ入口なんだけどね、と付け加える。
そして、不足していたなにかを補充するように深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
再びリエッキのほうを向いた時、彼女の親友は見惚れるほど瑞々しい表情をしていた。
そこから先の道はすべてが違っていた。
格段に歩きやすくなった、というだけではない。
呼吸する空気が、鼻孔をくすぐる緑の匂いが、肌で感じる雰囲気が一変していた。
森の中に森がある。
その意味をリエッキはいまこそ理解していた。
この森は、さっきまでの森とはまったく別の森、別の世界なのだ。
森を構成する樹木は前の森よりも明らかに樹齢が高い。そしてそれは奥へと進むにつれてさらに度合いを増す。
一歩ごとに古代へと遡るような。
一歩ごとに異界へと彷徨い込んでいくような。
そうした印象にとらわれながらリエッキは親友の後に続く。
不思議と不安はなかった。
どころか、由来のわからない安らぎが森には満ちていた。
だから、密生する樹木の隙間から無数の気配がこちらを窺っているのに気付いても、彼女はなにも言わなかった。
「さぁ、そろそろ森を抜けるよ」
前を行くユカがどこかしら得意げな口調で言った。
「森を抜ける……? どういう意味だ、それ?」
「ふふ、すぐにわかるよ。――さっ! 行こう!」
そうはぐらかして、ユカはいきなり走り出した。
リエッキも黙ってあとを追った。
はたして、親友の言葉の意味はそれからすぐに判明した。
リエッキを置き去りにして小径を駆け抜けたユカは、道の先で立ち止まって彼女を待っていた。
ようやく追いついたリエッキは、一言文句を言ってやろうと口を開き……。
開きかけて、吐き出そうとした言葉を、驚愕のうちに見失ってしまった。
小径の終点は森の終わる場所でもあった。
森の中で森は終わって、いま、親友の肩越しには拓けた空間がある。
拓けきった空間が広がっている。
リエッキは信じられぬ思いで目の前の光景を見渡した。
彼女はそれを『見渡さなければ』ならなかった。
森の内部であるはずのそこには、広々とした平原があり、陽差しを乱反射させる清流があり、さらにはそれが流れ込む湖すらあった。
遠くには山脈を背景に所有する岩場があり、極めつけとして、海原に臨む海岸すら存在した。
控えめに見積もっても森の外観の数十倍、いや、優に数百倍にはなろう広大な空間がそこに広がっていたのだ。
あらゆる自然的な地形を内包して。
「すごいでしょ?」
「……うん、すごい」
いつになく素直に応じたリエッキに、ユカがしてやったりという笑顔を浮かべた。
素直になるしかなかった。
これまで、リエッキはユカの譚る『百獣の姫君の物語』を数えきれないほどの回数聞いてきた。
物語の中にはこの場所のことを描写した部分も存在する。
しかし、実際に目にした風景は彼女から言葉を失わせるにあまりあった。
「……まさに百聞は一見に如かずだな」
陶然としたまま呟いて、リエッキはもう一度『骨の魔法使いの聖域』を見渡した。
自然をそのまま持ち寄ったかのような壮大な箱庭には、よく見れば人間生活の一端も見て取れた。
何を作っているのかはわからないが畑や果樹園と思しきものがいくつか点在しており、湖には真ん中近くまでつきでた長い桟橋が架けられている。
それに二人が立っている場所から程近い丘の上には大きな煙突が印象的な一軒の屋敷が建っている。
あれがこの聖域の主の住まい。骨の魔法使い……つまり、ユカの母親の。
いったい、どんな人物なのだろうか。
彼女が再びそれを考えようとした、そのときだった。
二人の背後、森の中からなにかが飛び出して、隣に立つユカに襲いかかったのだった。
巨大な体躯にしなやかな四肢、それに鋭い牙と爪を持つ猛獣だった。
突然の事態にリエッキは肝を潰した。
それから、とにかくユカを救う為に竜に戻ろうとした。
だが次の瞬間、彼女は唐突に毒気を抜かれて、そのまま立ちつくす。
ユカに飛びついた猛獣――雄牛よりもなお大きなその山猫が、押し倒したユカに全力でじゃれついているのに気付いたのだった。
どう見たって殺意は毛ほども存在しない。
山猫の背中には、一人の人間の女が跨っていた。
「まったくもう、あんたは猫というより犬みたいねぇ。昔からずっとそうなんだから」
恐ろしい猛獣を馬かなにかのように使役する女が、朗らかな笑声をあげて言った。
山猫に組み敷かれたままのユカが、瞳に嬉しさを漲らせた。
「どうして? どうして僕が帰ってくるのがわかったの? どうして見つけられたの?」
「わかるわよ。見つけるわよ。そんなの当たり前でしょう?」
女が、こちらもまた嬉しそうに言った。彼女はしばらくのあいだユカをじっと見つめて、そのあとで、今度はリエッキにも視線と微笑みを寄越した。
しとやかな笑みの中に無邪気な少女の印象が同居していた。
しかし、なによりもリエッキをはっとさせたのは、その瞳だった。
彼女の瞳はユカとそっくりだった。
「私を誰だと思ってるの? 私はこの聖域の主、かつて荒野の地母とも百獣の姫君とも呼ばれた、深きの森の魔女。それに――」
魔女はそこで言葉を切り、一呼吸の間の後、あらゆる思いを注ぐように最後まで続けた。
「それになんといったって、私はあなたの母親じゃないの?」
この森で私にかくれんぼで勝とうなんて百年早いわよ。そう言って彼女は――骨の魔法使いは、山猫の涎でべとべとになっているユカの頬をつついた。
骨の魔法使いとはどういう人なのだろう、リエッキはこれまで何度もそれを考えた。
その結論はいま、一言として言葉を交わすまでもなく得られた。
つまり、『こういう人なのだ』と。
生涯憎むことの出来そうにない人間が、また一人増えた。彼女はそう感じていた。




