■15 二つの二人組
その日は底冷えするような寒さが朝から晩まで続いた。
昼を過ぎて宿場にたどり着いたユカとリエッキは、その日はそれ以上先に進むのをやめて早々に宿を求めた。
日が落ちるまで歩けばもう一つ先の宿場まで行けたかもしれないが、急ぐのは二人の性分には合わなかった。
左利きたちが二人の前に現れなくなってから、既に週が四巡していた。
彼らがいなくなってしまうと、残された道程は拍子抜けするほど円滑に消化された。
このまま行けば遅くとも数日以内に、早ければ明日にも目的地である骨の魔法使いの森に到着するはずだった。
万事こともなく、旅路は順調そのもの。
しかしそのつつがなさに、リエッキはかすかな寂しさを覚えていた。
たとえば水辺に荷を解いてくつろいでいるとき、道の端に足を止めて溶けかけの雪を眺めているとき、いまにもあの喧しい声が乱入してくるのではないかと身構えてしまうことがあった。
そしていつも、身構えたあとでもうそれはないのだと気付くのだ。
親友との談笑を邪魔されることもなければ、大切にしたい沈黙が破られることももうない。迷惑な奴らが消えてありがたいはずだった。
なのに、それを味気なく感じてしまう瞬間が確かに存在するのだ。
あいつはどうなのだろう、と彼女は考える。
あいつは、ユカはどうなのだろう。
わたしとおなじように、あいつもあの二人組がいないことを寂しく思っているのだろうか。
幾度か、リエッキはユカに直接訊いてみようとした。
けれど、結局訊けなかった。どうしてそう思うのかはわからなかったが、親友が「うん」と答えるのが彼女には怖かったのだ。
少し遅い昼食のあとでリエッキはベッドに横になった。
ほんの数十分の午睡のつもりだった。しかし目覚めたとき、窓の外には冬の早い夜がその帳を降ろしていた。
眠い目をこすりながらベッドを下り、んっと声を出して背伸びをした。
背筋の寒気を身震いして追い出しながら、わたしは本当に人間になっちまったな、と自分に呆れた。
それから、親友を探すために部屋を出た。
ユカはすぐに見つかった。彼は宿屋の木戸口を出てすぐのところにいた。
雪明かりの夜に白い息が湯気のようにたなびいていて、それが奇妙に幻想的だった。
彼女が近づいていくのに気付くと、ユカは嬉しそうに笑み崩しながら「おはよう」と言ってきた。
リエッキも「おはよう」と応じた。
それから、彼女は黙って親友の隣に立った。
「随分よく寝てたね。旅の疲れが出たのかな? それともご飯を食べて眠くなった?」
「腹がくちくなってうとうとして、柔らかなベッドでたっぷりと夜まで寝過ごして……ったく、呆れるようなだらしなさだ。ちょっと人間が板に付きすぎてるな、わたし」
自嘲を通り越してどこか本気で悔悛するような彼女の口調に、親友は楽しそうにくつくつと笑いながら「たまにはいいじゃないか」と言った。
そのあとで、彼は遠くに見える高い山を指差した。
「ねぇリエッキ、あの山、なんだかわかる?」
「あの雪のかぶってるやつか? ……わからない、なんだよ?」
リエッキが降参すると、ユカは苦笑しながら「しっかりしてよ、山の神」と言った。
「逆の方向から来たから今回は通らなかったけど、あれはね、君が住んでいた山だよ」
「ああ……そうか、あれが」
彼女はそうとだけ応じた。
自分でもどうかと思うほど平坦な声だった。
山をあとにしてから四年……いや、じきに五年になる。それだけの時間を経て、膨大な距離を旅して、自分はいま故郷と表現すべき土地に帰ってきたのだ。
なのに、感動と呼べるようなものは胸のうちのどこを探してもない。あるのはただ「随分遠くまで行ってきたな」というわずかな感慨だけだった。
故郷。自分にとってそれは意味のない、価値のないものなのだ。
彼女の胸に、久方ぶりに自分という存在を空虚に思う気分が兆していた。
そのとき、親友がさらに言ったのだった。
「あれは、僕と君がはじめて出会った山だ」
瞬間、心が跳ねた。
リエッキは弾かれたようにユカを見遣った。
そんな彼女の反応には気付かぬまま、彼は、まるで素晴らしい記念碑を眺めるように白くなった山並みを眺めていた。
妙な具合に強張りつつあった自分の中のなにかが、ほぐされていくのを感じた。
「なぁユカ」
彼女は切り出した。
「奴らがさ、あの呪使いたちが現れなくなって、寂しいか?」
それまでどうしても訊くことの出来なかった質問が、すっと口から出た。
親友が答えるまでにはいくらかの間があったが、その空白に不安や緊張を覚えることもなかった。
「うん、そうだなぁ」
少し考えてからユカは言った。
「少し寂しい。けど、全然寂しくない」
「なんだよそれ。相変わらず意味のわかんないやつだな」
呆れた声を返すリエッキにユカは照れた笑いで応じた。
そして続けた。
「手強い敵がいなくて張り合いがなくなったっていうのは確かだよ。だから、それは少しだけ寂しいかな。けどさ」
彼はそこで言葉を切り、遠くを見つめていた瞳をリエッキに移しかえた。
「けどさ、なんたって僕には君がいるんだもの。だから、全然寂しくない」
明白な道理を説くような、どこまでも衒いのない口調でユカは言った。
リエッキはなにも言わなかった。
なにも言わず、彼女はただいつものように「はん」と鼻を鳴らした。
それから、ユカの視線から逃れるように、彼がさっきまで見ていたものを見た。
親友の透明な眼差しがあった先には雪をのせた山脈があった。
故郷としてのそれには、やはり価値を見出せそうになかった。
しかし記念碑としては、言葉にするまでもなく特別だった。
その晩、ふたりはそのあともしばらくは外にいた。いつものように益体のない話しに花を咲かせて、いつものように沈黙を楽しんだ。
そのあいだ、ユカは何度も息を吸っては吐いてを繰り返していた。息が白くなるのが面白いらしかった。
まるっきり子供だ、とリエッキは思った。こいつにとって、きっと世界は楽しくて面白いことだらけなのだろう。
だって、そのご相伴にあずかっているだけのわたしが、こんなに楽しいのだから。
わたしも、少しだけ寂しい。彼女は口には出さずに胸中に呟いた。
だけど、全然寂しくない。
※
「あーと……『我ら不滅の老賢者の正統なる裔! かの老人の母、海の乙女にして大気の精霊たる女神に呼びかけん! 願わくば天に雨雲を呼び、地に雨を降らせたまえ!』……っち、やっぱりあの野郎の物語みたいにはいかねえか。ずりいよなぁ、アイツ」
呪文を唱え大仰に杖を振りかざす年上の相棒を、昼食の堅パンを囓りながら左利きが眺めている。
驚異的な早食いで食事を終えたあと、相棒は、なにを思ったか雨乞いの儀式などはじめたのだった。
暖かくはなかったが天気は良い日だった。空には黒雲の欠片すら見つけられない。
「……あんた、さっきからいったいなにをしてるんだ?」
「ああ、いえね、実は酒場での一件が目に焼き付いてまして。ほら、あの野郎が風を呼び出したあれすよ。で、オレにもあんな風に出来ねえかなぁと、そう思いやしてね」
まぁ結果は見ての通りですがね。そう言って彼は照れくさそうに頭を掻いた。
「あんたは、魔法使いが羨ましいのか?」
「そりゃ羨ましいですよ」
相棒は一秒の半分も迷わずに即答で応じた。
「魔法使いたちを羨ましく思ってない呪使いなんて一人もいやしませんって」
あんな風に特別の力がありゃ人生楽しいでしょうね。彼は率直に憧れを言葉にした。
相棒のこの反応に、左利きはわずかならず驚愕させられた。
彼の言うとおり、魔法使いを羨まぬ呪使いなどいない。すべての呪使いは魔法使いの持つ神秘の力を強烈に羨望し、強烈に嫉妬している。
しかし同時に、そのことを認めようとする呪使いもまたいないのだ。
それを認めるのは呪使いが魔法使いに劣っていると認めるのと同義であり、権威主義と自尊心を拠り所としている呪使いにとっては存在基盤が揺らぐほどの屈辱なのだ。
「……やっぱり、あんたは呪使いとしてはいささか個性的に過ぎるな」
以前にも言った台詞を左利きは再び口にした。
しかし、そこには以前とは正反対の響きがこもっていた。
共に宿敵を追跡したこの数ヶ月のうちに、彼はこの相棒の印象を大いに改めていた。
単純に見直したといって良いものか、そこにはかなり多くの疑問が残る。
だがともかく、彼の憎悪する典型的な呪使い像からは程遠い男だということはわかりはじめていた。
「まぁ、俺ぁ旦那や他の仲間たちとはちっと違った成り立ちの呪使いですからね」
大雑把な作りの顔立ちにはにかむような笑顔を浮かべて相棒は応じた。
「旦那方はほら、ガキん時から呪使いになるため修行を積んできた口でしょ? でも俺は違うんすよ。前にも言ったけど十になるまでは猿同然に山ン中に暮らしてたんす。父母と爺さん婆さん、ついでに妹と。あのままいきゃ馬喰だったな、家業なんすよ」
「それがまた、いったいどういう経緯で呪使いに?」
「いや俺、生まれつき利き手が左だったんですよ。んで偶然村に長逗留した呪使いにそこんとこ見出されましてね。あとはまぁ、成りゆきに任せてって感じで」
だから最初は読み書きすらてんでダメで。そう言って相棒はがさつな笑い声を立てた。
なるほど、と左利きは思った。
多くの疑問が一瞬にして氷解した反面で、やはりやたらと迷信を重視する慣習はなんとしても正さねばならぬと決意を新たにもしていた。
しかし、依然として合点のいかぬことがひとつあった。
「気を悪くしないで欲しいのだが、あんたと引き合わされた当初、私はあんたのことを、ある部分では典型的な呪使いだと感じた。つまり、権威や序列には盲目的に従うというような」
「ああいや、気を悪くするもなにも、そいつぁその通りだ」
不愉快さを欠片も感じていない素直な口調で相棒は応じた。
「こんなのは誇れることでもなんでもないんですが、とりあえず偉い方についておくのが俺みたいな半端者の処世術でしてね。それに俺は頭の出来があんましよくねぇから、自分で考えるよりは誰かの考えに従ってる方が間違いがなくていいんすよ」
「ならばあの夜、どうしてあんたは序列の低い私についたんだ?」
それが核心だった。
あの夜からずっと問いたかったことを、左利きはついに問うたのだった。
相棒は、少しだけ考えたあとで平然として答えた。
「そりゃ、旦那のほうが偉いからすよ。年功序列とか杖位とかって仕組みはわかりやすくてありがたいんすけど、たまにはそれとは別のなにかが判断に絡むもんだ。俺は筋金の入った半端者ですけど、だからこそそのあたりの見極めには自信があるんすよ」
それに、と彼は続けた。がさつな笑みにおもはゆげな色が加わった。
「それに俺ぁ、旦那のことが好きですからね」
相棒のこの発言に、左利きは完全に面食らってしまう。
左利きは、人から評価はされても好かれるということの滅多にない男だった。また本人がそれでいいと思っていたことも彼の孤独に拍車をかけていた。
だから、評価ではなく純粋な好意を向けてくる相手、それも自分の側も評価を改めようとしていた男に対しどのように応じればいいのか、彼には見当もつかなかったのだ。
何事も如才なくこなす若き天才の、唯一の弱点が人間関係だった。
「旦那になら妹を嫁にくれたって惜しかねえぜ」
ほとんど狼狽同然の状態に陥っている左利きに、相棒が明るく言った。
どう応じていいものか判じかねて、左利きは少しのあいだ黙り込んだ。
そのあとで、彼はいささか躊躇いがちに、次のように言った。
「もしやと思うが、妹さんも左利きなのか?」
軽口に慣れていない彼の、精一杯の冗談がそれだった。
二人の呪使いはそれぞれに笑みを持ち寄って笑いあった。
かたや大口をあけた大笑で、かたや口元だけの控えめな微笑で。
笑いながら、なぜだかこの場にいない宿敵のことを左利きは思い出す。
君は君が思ってるほど孤独じゃないと、あの男ならそう言うのではないかという気がしていた。




